三車火宅のたとえ

 ある子どもは羊の車が欲しいとおもい、ある子どもは鹿の車がもらえるとおもい、ある子どもは牛の車をとろうとおもって、われ先にと走りでたのですが、父は、そんな車でなく、大白牛車という最高の車を、みんなにひとしくあたえたのです。
 その大白牛車とういのは、いうまでもなく、一仏乗の教えです。羊車(声聞乗)と鹿車(縁覚乗)は、いわゆる小乗の教えです。牛車(菩薩乗)はいちおう大乗ではあるのですが、これはまだ声聞乗や縁覚乗と対立するひとつの宗派のようなものですから、ほんとうの大乗ではなく権大乗といわれるものです。
 ほんとうの大乗すなわち実大乗は、小乗とか大乗とかいう小さな壁をのりこえた、お釈迦さまの教えの精髄そのものです。すなわち、法華経でお説きになった一仏乗です。仏さまは、最初からこの一仏乗の教えをそのまま一切衆生にあたえたかったのですが、とうていそれを理解し、信受するだけの機根がないことを見とおされたので、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という三乗に分けて、だんだんみちびいてくださったことは、《方便品》でくわしく説明したとおりです。
 教えを受けた修行者たちは、それぞれ声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の境地にたっしえたとおもっていました。ところが、この法華経の教えを聞いてみると、それどころではない、じつはみんな最高の境地である一仏乗の中にいるのだということが、はじめてわかったのです。すなわち、羊車・鹿車・牛車が自分のものだと信じていたところ、おもいがけなく大白牛車をあたえられたのです。それも、みんな一様にあたえられたのです。だれだって、歓喜勇躍せざるをえません。

『新釈法華三部経』譬諭品第三より抜粋

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