髻中明珠のたとえ

 法華経は、すべての衆生を仏の悟りにみちびいていこうというギリギリ最高の教えです。ですから、不意にその教えを聞いても、なかなか信じにくく、かえって逆の結果をひきおこさぬともかぎりません。それゆえ、仏さまはあからさまにはお説きにならず、いままで方便という衣を着せ、小出しにしてお説きになってこられたわけです。
 しかし、仏弟子たちの境地がひじょうに高まってきましたので、いまこそそれをお説きになるのだ――というのです。

たんなる法華経の賛歎ではない

 この譬えの表面だけを読みますと、法華経のくらべもののない尊さを、ここでまたくりかえしてお説きになったにすぎないようにおもわれます。
 法華経はいたるところ、その教えをほめたたえるおことばに満ち満ちています。ですから、まえにものべたとおり、白隠禅師も十六歳ではじめて読まれたときは、「ラッキョウの皮をむくように中身がない」ように感じられたのです。
 法華経を色読された日蓮聖人も、《妙密上人御消息》のなかに<二十八品は正しき事はわずかなり、讃むる言こそ多く候え>といっておられます。しかい、これは、十六歳のときの白隠禅師の感じかたとはちがって、法華経の本質をずばりといいあらわされたことばです。
 <正しき事>というのは、正しい教えのことです。そこで、<正しき事はわずかなり>というのは、法華経のみに見られる正しい教えはわずかしかない、という意味です。それはまことに当然のことであります。なぜならば、お釈迦さまはそれまでの四十余年間、八万四千の教えを説きつづけてこられたのですから、ここではじめて説かれる正しい教えがそうたくさんあるはずはありません。
 法華経ではじめて明らかに説かれた、<方便すなわち真実><諸法実相><仏とはあらゆる衆生を生かしている不生不滅の大生命>というすばらしい教えでさえも、じつは、いままでのさまざまな教えのなかにもかくされていたものです。
 法華経は、いわばいままで説かれたあらゆる教えを一つのルツボのなかで溶け合わせ、そのなかからあらゆる教えにかくされていた真実を、あたかも純金を析出するようにとりだして示されたものです。これが法華経のもっともいちじるしい特色であります。
 それまでおおくの人びとは、ある人は十二金の金貨をもっていてそれを<金>だと考え、ある人は十四金のくび飾りをもらってそれを<金>だと信じ、あるいは十八金の腕環をはめてそれを<金>だとおもいこんでいました。それらもなるほど金には相違ありません。そして、貴重な宝であることにもまちがいはありません。
 ところが、法華経においてお釈迦さまは、それらのすべてを溶融し、そのなかから純金をとりだして、これこそ<金>の正体であるぞとお示しになったのです。そして、さまざまの金製の宝ものは、すべてこの純金をもとにしてつくられたものであり、この純金が含まれておればこそ尊いものであることを教えられたのです。
 法華経は、そういう意味において画期的な説法でありました。それだけに、それをうかがった人びとは、すっかりめんくらってしまったのです。したがって、疑惑をいだいたり、反抗心を起こす人もでてきました。ですから、お釈迦さまは、説法の途中においてたびたびこの教えの尊さ、重大さを、口をきわめてほめたたえ、人びとの関心と期待を高め、その信受と実践を励まされたのです。
 これが<讃むる言>の多い理由でありますが、後世のわれわれにとって見のがしてならないのは、それぞれの賛歎のおことばのなかに、かならずある教えがふくまれていることです。
 この<髻中明珠の譬え>もやはりそうであって、このなかには、われわれの信仰生活において、あるいは現実生活において、おおいに心すべき教訓がくふまれているのです。その教訓を掘りだしてみることにしましょう。

最高の教えは最後に

 まず第一に、この大王は、ほかのあらゆる宝ものは惜しげもなく賞としてあたえたのに、髪のまげに結いこめた明珠だけはなかなかあたえなかった・・・・・・そのことに寓された意味は何かということです。
 ここで目をつけなければならないのは、その明珠だけが王の<頭にある>ものだということです。ほかのものはすべて、王が所有する財産であり、身につける宝にしても、手足やせいぜい首につける装身具であります。それにたいして、ただひとつこの明珠だけは、頭にあるのです。
 この<頭にあるもの>ということが、重大な意味をもっているのです。頭とは精神のことであり、からだ全体を支配するものであります。人間の中心であり、その尊さはほかの部分とはくらべものになりません。
 ですから、この明珠というのは、ほかのすべての教えの中心であり、魂であり、すべての教えを支配する法門であるという意味です。それゆえ、めったなことではあたえるわけにはいかないわけです。
 それならば、法惜しみをなさらぬ仏さまが、なぜこれだけはめったにお説きにならなかったのでしょうか。ここがたいせつなところです。
 野球の練習に例を引いてみましょう。はじめて野球をする子どもには、まずキャッチボールをさせて、投げかた・捕りかたの基本を訓練します。つぎに、ゴロやフライをとることを練習させます。同時に、バッティングの型を教えます。それからだんだんに進んで、投手ならば投球のしかた、野手ならば各塁への送球を教え、もっと上達してくると、投手にはカーブやシュートの投げかた、野手にはダブルプレーの連けい動作やバントにたいする守りかたのような、やや高等な基本技を教えます。
 しかし、そのような基本技が水準にたっしても、それだけで試合に勝つことはできません。どうしても、頭の野球、つまり、頭脳的プレーというものを身につけなければならないのです。打者は投手の心理を読み、投手は打者の腹をさぐり、野手は相手打者の打球のくせや味方投手の投球に応じて守備位置を変える・・・・・・といったようなことです。
 ところが、はじめて野球をおぼえようとする子どもに、最初から頭の野球という高級なことを教えたとしたら、ただマゴマゴするばかりで、とてもついてはゆけません。ですから、からだでやる技術がある程度上達してから、だんだんに頭でやる野球を教えるのが、常道となっているわけです。
 もうひとつ例をあげましょう。ある料理の大名人の著書に<料理の最高の秘訣は、材料のもつ個性を百パーセント生かすことである>と書いてあるのを読んだことがあります。一本のタケノコでも、ダイコンでも、それがどんな土質に、どんな肥料で育ったか、掘りとってからどれくらい時間がたっているかによって、その性質に微妙なちがいがあるのだそうで、生のものを手にとっただけで、その材料のもつ個性を見抜き、それにふさわしい調理をくわえるのが、料理のギリギリの要訣だというのです。いわば料理の魂であり、すべての料理を支配する真理であるというわけです。
 ところで、はじめて料理を習う娘さんに、そんな深遠なことをいってみたところで、どうにもなりますまい。もし、最初からそんなことを厳重に教えこもうとすれば、おそらくみんな料理学校をやめてしまうでしょう。やはり初歩のときは、「こうして皮をむいて、これぐらいに切って、何分ぐらいゆでて・・・・・・」と、原則的な技術と心得から指導していくのが道であります。
 現代の人間、とくに高等教育を受けた若い人たちは、とかくこうしたからだでおぼえる基礎的な修行をいやがり、いきなり高いところへ上りたがります。そのために、人間としても、職業人としても、ほんとうに大成しないのです。そこで、心ある会社では、大学卒の新入社員に切符切りをさせたり、荷造りや発送をさせたりしているのです。そんな仕事から出発してこそ、りっぱな幹部社員・重役・社長となることができるというわけです。
 大王が髻中の明珠をなかなかあたえず、ギリギリ最後になって、これならばという見きわめがついた勇士にあたえたということには、こんな意味がふくまれているのであります。

基礎的な修行にこそ妙境あり

 大乗の教えを聞いて、それを浅く受けとったり、自分のつごうのいいように解釈したりする人がかなりあります。「即身成仏と教えられているから、自分もこのままで仏なんだ」とうぬぼれる人もあれば、「煩悩即菩提だから、金や物をむさぼるもよし、人を憎むもよし、放蕩をするもよし・・・・・・」と、わがまま勝手な生活を送る人もあります。そして、即身成仏とか煩悩即菩提という信念をもっているだけで救われるつもりでいるのです。
 それはたいへんな考えちがいであって、ちょうどストライクを投げることさえ満足にできないくせに、頭脳的投球をしようなどと考えるようなものです。やはり、<四諦>・<八正道>・<六波羅蜜>などの教えによって、心を正しくし、人格をみがき、よい行ないをしていくことが、信仰者としてぜったいに必要な基本的修行であります。
 こういう修行のうち一つでもできれば、仏さまは、それにたいしてかならずほうびをくださいます。すなわち、心が安定して動揺しない境地・人生苦から超越した境地・すべての煩悩をのぞきつくした境地などを、われわれは、修行がある段階にたっするごとに自得できるのです。
 それらの境地がみんなそろい、しかもひじょうに高まってくれば、そのときこそ仏さまは、髻中の明珠すなわち最高の悟りを、惜しげもなくくださるのです。その境地こそ、ほんとうの<即身成仏>であり、<煩悩即菩提>の自由自在な妙境です。
 こういうわけですから、われわれは、現実生活においても、信仰生活においても、基本的な戒めや基礎的な修行を、けっしておろそかにしてはなりません。それらの上にこそ、高い境地は築かれるものであることを、よくよく認識しなければならないのです。
 <髻中明珠の譬え>は、このように受けとらねばならぬものとおもいます。


『新釈法華三部経』安楽行品第十四より抜粋

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