三草二木のたとえ

この譬えは、直接的には仏法のはたらきについてお説きになったものであります。すなわち、<仏の救いにはいろいろな形があるように見えるけれども、根本においては、仏の教えはただひとつであり、すべての人びとにたいして平等にそそがれるものである。それを受ける人びとの、形のうえにあらわれた天分・性質・環境その他の条件がちがうからこそ、形のうえにあらわれた仏の教えも、その救いの結果もちがうように見えるだけのことである。しかし、形のうえではちがっているようでも、つまりはすべての人を平等に救うものであって、そこが仏法の至妙なところである>というのがその要旨です。
 つまり、このたとえにこめられた眼目は<仏法の救いの、形のうえにあらわれた差別相と、本質における平等相を知れ>ということであります。われわれは、仏道を修行するうえに、つねにこのことを念頭において、すべての教えをありがたく受けとっていかねばなりません。そうすることによって、だんだんと境地が進み、しだいに高い悟りにたっすることができるのです。
 と同時に、この教えを実生活のうえにも生かさなければ意義は半減します。では、現実生活の面でこの教えをどう解釈すればいいのかといいますと、まず<人間というものの、形のうえにあらわれた差別相と、本質における平等相>を、このたとえによって悟らなければなりません。
 すべての人間が、本質においてはまったく平等であることは、《無量義経》にはじまり、《法華経》においても《方便品》このかた、なんべんもくりかえして説かれてあり、そのつどくわしく説明しましたから、すでによく理解していただけたこととおもいます。
 本来平等な存在が、現実のあらわれとして、千差万別の形をとるということは、それなりに理由のあることであり、必要なことなのです。それは、まえにあげた時計の部品の例を読みかえされれば、すぐわかることでしょう。文字盤があり、長針があり、短針があり、歯車があり、心棒などがあってこそ、時計というものが成り立つように、この社会もいろいろさまざまな天分・性格・才能をもった人があってこそ、バランスがとれ、全体としての運営が成り立っていくのです。
 そこで、われわれは、まず<人間すべて平等>という根元の真理をしっかりと悟って、おもいあがった気持や、あるいは卑屈な心を投げすてなければなりません。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」ということを、つねに念頭において、謙虚に、しかもどうどうと生きていかねばならないのです。
 と同時に、自分はこの世においてどんな役目をもっているのか、どんな存在価値をもっているのかを認識して、あたえられた使命をせいいっぱい果たしていかなければなりません。こうして、形のうえにあらわれた差別相を完成させていくこと自体が、人間平等の真理をこの世にあらわすことになるのです。
 ただ観念のうえだけで「平等だ、平等だ」といっているだけでは、すこしも平等性を実現することはできません。要するに、実行です。自分のもちぶんをせいいっぱい果たし、それをいやがうえにも向上させていく積極的な行動です。

『新釈法華三部経』薬草諭品第五より抜粋

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