化城宝処のたとえ

お釈迦さまは、おおくの凡夫たちのために、まず現実の苦しみをとりのぞく正しい道をお教えになりました。それが、<縁起の法則>にもとづく解脱の悟りです。すなわち、「目の前にあらわれているいろいろなものごとは、固定的・永続的なものでなく、仮りのあらわれにすぎないのであるから、そういった現象から心を解放してとらわれをなくすれば、つねに安らかな心境でおられるのだ」と教えられたのです。
 じつにすばらしい教えです。それを悟れば、われわれの胸はまったくひらけるようなおもいがします。いままでは、金銭にとらわれ、物質にとらわれ、享楽にとらわれ、環境の変化にとらわれ、そのために心を苦しめていたのが、「そんなものは仮りのあらわれだ」と達観することができれば、現実の状態は変わらなくても、それが苦にならなくなるのです。
 もちろん、教えを聞いてからその達観にいたるまでには、人によっておおいに時間の差があります。そうとうな修行が必要でもあります。しかし、とにかくその教えによって苦しみからのがれるメドがついたのですから、人生について新しい希望が湧くのです。
 導師がゆくてに大きな城をあらわして、さあ、あそこへいけば楽になりますよと示されたのは、こういう境地であり、こういう意味なのです。

みんなと一緒に

 ところが、その心境にたっしてホッとしていると、導師はやがてその城を消してしまわれました。そして、「もうすこしさきに、ほんとうの人間らしい生きかたがあるんだよ」と、究極の理想を示されました。一同は、すでにそうとう高い心境にたっしていますので、新しい元気をふるい起こして、ふたたび前進を開始するのです。
 では、その究極の理想とはなんでしょうか。現代のことばでいえば<創造の生活><すべてのものの大調和>です。
 われわれは、仏法を知らずにただ苦しみのなかにもがいていたころは、その苦しみから逃げだしたい気持でいっぱいでした。そこへ、<現象を超越せよ>という教えを聞いて、なんとか安心の境地にたっしました。しかし、それだけではまだまだほんとうの人間らしい生きかたではなかったのです。
 なぜかといえば、それはなんといっても一種の逃避であるからです。自分だけはさいわい人生苦からのがれることができても、その他のたくさんの人びとは、あいかわらず苦しみのなかにいます。それを横目で見ながら悟りすましているのは、利己的な孤立主義です。人生からの逃避です。<みんなといっしょに進み、みんなといっしょにしあわせになる>――これがほんとうの人間らしい生きかたであるからです。人間ということばの意味からしてもそうあるべきであることは、まえにものべたとおりです。
 そこで、人間らしく生きるには、自分のホッとした心境はさておいて、こんどはひとをしあわせにするための活動を起こさなければなりません。いわゆる利他行であり、菩薩の道であります。
 そのためには、また新しい苦労が必要です。しかし、こんどの苦労はいままでの受け身の苦労とちがって、みずから進んでやる、しかも利他のための崇高な苦労ですから、苦労が苦になりません。かえってそれが生きがいとなるのです。しかも、他の人のためにつくすこと自体が、自分をも向上させるつよいはたらきをすることになり、ますます人生に喜びをおぼえるのです。

静止から活動へ

 化城のなか(自分だけの安心の境地)に休息しているのは、<静止>していることです。それにたいして、そこから抜けでて新しい前進を起こすのは、<活動>することです。つまり、人間が人間として価値があるのは、活動し、進歩すればこそでありますから、静止していることは、人間としての価値をみずから放棄してしまったことになります。ですから、われわれは、いちおうは化城のなかで平安の境地を得ても、すぐそこから飛びだして、新しい活動を起こさなければならないのです。

創造しつつ調和しつつ

 ところで、活動にもいろいろあります。あともどりする活動もあれば、横道へそれる活動もあります。いうまでもなく、それらはマイナスの活動であって、自分を不幸にし、ひとをも傷つけ、世の中をも害します。かならず正しい方向への活動でなければなりません。その正しい方向への活動というのが、まえにのべた<創造>と<調和>の活動です。
 <創造>とは、この品のはじめのほうでものべましたように、価値あるものごとを創りだすことです。自分をも、ひとをも、世の中全体をもしあわせにするものごとをつくりだしてゆくことです。気高い心・よいことば・人生を美しくする芸術・生活を豊かにする物資・社会の運営をたすけるはたらき・・・・・・なんでもいいのですし、どんな小さなものごとでもいいのです。一日一日・一瞬一瞬に、そういう価値あるものをコツコツとつくりだしていく、これこそほんとうに価値ある人生であり、生きがいのある人生といえるのです。
 こうして、われわれのひとりひとりが、自分の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じて、<自分をも、ひとをも、世の中をもしあわせにするものごと>を創造していけば、それらはかならず大きなところで調和をつくりだすものです。その調和の状態こそ、社会全体の平和・人類全体の幸福にほかならないのです。
 世の中はたえず流れ移っていくものですが、それがただ無意味に変化するのでなく、<創造しつつ、調和しつつ>移り変わっていくところに、意味があります。そして、それぞれの創造がすべて人間のために価値あるものであり、その調和が完全円満な大調和となったときこそ、はじめて人類の幸福が完成されたことになるのです。すなわち、大乗の涅槃の境地であり、この譬えにおける<宝処>にほかなりません。
 <化城宝処の譬え>は、このように受けとるべきであると信じます。

『新釈法華三部経』化城諭品第七より抜粋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?