衣裏繋珠のたとえ

仏性こそ無価の宝珠

 無価の宝珠というのは、すべての人間がひとしくそなえている仏性のことです。われわれは、ひとりのこらずそれをもっているのです。けれども、なかなかそれを自覚できません。なぜ自覚できないかといえば、われわれが酔って眠りこけているからです。心が眠ったままでいるからです。
 われわれは、現象としてあらわれているこの肉体が自分の本質だとおもいこんでいます。心はその肉体に付属しているものとおもいこんでいます。そこで、ただもうその肉体と心を満足させるために、欲望を追って右往左往し、衣食に追われてあくせくしています。それが、仏性を自覚していないということです。酔って眠っているということの意味です。
 そんな状態でいるかぎり、われわれはけっして幸福になれるものではありません。なぜかといえば、現象としてあらわれているこの身・この心は確固として実在するものではないのですから、その確固として実在しないものを自分の本体と考えて、けんめいにそれを満足させようと努力してみたところで、絶対の満足というものはありえないからです。
 この身体は、いつかはかならず死によって崩されるものです。心にいたっては、いっそう激しくうつり変わるものです。あるときは喜びに満ち満ちていても、周囲の条件が変化すれば、たちまち悲しみや悩みにとざされてしまいます。ある欲望がたっせられても、そのとたんに、もっともっとという貪欲が起こり、あるいは別な欲望が新しく湧いてきて、結局はいつまでも満足することはありません。

縁起の教え

 そこで、お釈迦さまは、そうした貪欲から起こる煩悩を除きさることをお教えになりました。どうしたら煩悩を除くことができるかといえば、われわれの肉体も、まわりの境遇も、この世の森羅万象も、すべてつねに確固として実在するものではなく、因と縁が結ばれて生じている仮りのあらわれに過ぎないことを悟ることが、救いの第一歩であると、教えられたのです。それがいわゆる縁起の法則の教えです。
 その縁起の法則を悟り、自分の欲望やまわりの現象に心をふりまわされなくなれば、心はつねに安らかで、波風の立つことがありません。それが、いわゆる<小乗の涅槃>の境地であります。
 一口にそうはいいますけれども、この境地にたっするのはなかなかたいへんなことであって、なみの人にできることではありません。出家して、お釈迦さまのお弟子となり、俗世をはなれてけんめいに修行した比丘たちのうちで、とくに機根のすぐれた人たちだけが、その境地を得ることができたのです。
 ですから、お釈迦さまが<二乗根性>を戒めておられるからといって、われわれがこのような比丘たちにたいしてかりそめにも軽侮の気持をもつようなことがあれば、それはたいへんな心得ちがいです。このような声聞・縁覚は、この世にまったく稀有な、清らかな存在であります。その意味で、心からの尊敬をささげなければならないのです。

自由と創造こそ

 それはさておき、いまいったような安心の境地にたっしたからといって、それはまだ真の救いではありません。なぜならば、仮りのあらわれである自分の肉体を否定し、そこから起こる欲望を否定しただけでは、それはたんなる否定であって、ほんとうの自分というものが確立していないからです。
 ほんとうの自分というものが確立していなければ、ただ水が流れるように他律的に生きているだけであって、外へむかって自由自在にはたらきかけていくエネルギーが生じません。あらゆる生あるものは、自由自在に活動することを望んでいます。それが生命である、とさえいいうるのです。とくに人間は、自由自在に活動し、価値あるものを創造していくことを、本質としているのです。
 ですから、その本質すなわち<ほんとうの自分>というものを、しっかりとつかみ、心の底に確立しないかぎり、人間としてのほんとうの生きがい、生きる喜びは感じられず、したがって真の救いにたっしたとはいえないのであります。
 お釈迦さまが、最終的にお教えになりたかったのは、ここのところなのです。現象のうえではたいへん頼りない身や心であっても、人間の本質は確固とした不滅の仏性であることを、はっきり悟らせようとなさったわけです。
 おおくの人びとは、そういう自分の本質を知らず、あるいは仮りのあらわれである肉体や環境のうつり変わりにとらわれて、一喜一憂し、あるいはそうした煩悩を否定しさっただけで満足していたのです。ちょうどそれは、着物の裏に何百カラットのダイヤモンドがぬいつけてあるのを知らず、食うや食わずの生活に苦しみあえいでいる人と、おなじなのであります。
 その貧しいくらしをしていた人も、自分が何百カラットのダイヤモンドの所有者であることを知った瞬間から救われたのです。それを売って、おもいのままの生活をすることができるようになりました。おもいのままの生活とは何を意味するのかといいますと、まえにものべたとおり、生命の自由自在な活動であります。いままでは、自分を養うだけの働き(個人の悟り)がせいいっぱいだったのに、それからのちは、まわりの人たちに喜びをもたらせるような、さまざまな菩薩行を自由自在にすることができるようになったのです。
 このことは、そっくりそのまま、現実のわれわれの生きかたにもあてはまることであります。われわれは出家ではありませんから、かつての大比丘たちのようにあらゆる煩悩を除きつくすことは、まず不可能といっていいでしょう。
 もちろん、貪欲を去ることは必要です。修行によってそれを達成することも可能です。また、現象を仮りのあらわれと悟ることも必要です。それも、仏さまの教えをしっかり学ぶことによって可能なことです。しかし、それとても、よほどすぐれた人でないと、なかなかできるものではありません。そして、かりに少数の人びとがそれをなしえたからとって、世の中はいっこうによくなるものではないからです。

生かされているように生きる

 そこで、おおくの大衆にとって可能であり、したがって世の中全体の救いとなる道は、<人間の本質(仏性)を知ること>にしぼられてくるのです。自分の幸せを追い求めるだけでなく、世のため人のために積極的にはたらき、寂光土をつくりだしていく、そういう自由自在な活動こそが、われわれの本来のすがたなのだということを悟ることです。それを悟ることが、仏さまと一体になることです。
 ですから、つねに<自分は仏さまに生かされているのだ>ということを自覚し、<生かされているからには、生かされているように生きよう>と覚悟することが大事なのです。<生かされているように生きる>というのは、くどいようですが、自分も人びとをも幸せにしていこうとすることです。
 そういう積極的な気持になれば、自然とわるいことはできなくなります。いつも使う包丁は錆びないのと同様に、善いことのためにせっせとはたらいておれば、わるいことをやるまいなどと考えなくても、ひとりでにやらなくなるものです。
 また、煩悩も、それ自体が価値あるはたらきに変わってゆきます。たとえば、金持になりたいという煩悩も、仕事や事業への努力となって、りっぱに生きてくるのです。これがいわゆる<煩悩即菩提>の境地であります。
 このようにして、自分の本質を知ること、すなわち<仏性の自覚>ができれば、その人はかならず世の中に光明をあたえ、それぞれの分野において世の中のためになる<価値ある人間>となることができます。そんな人を<普明如来>というのです。
 ここでぜひことわっておきたいのは、ある仕事のうえでどんなに卓越し、すぐれた業績をあげても、その仕事がひろい意味で世の中に光明をあたえるものでなければ、普明如来ではないということです。
 極端な例をあげれば、世界一すぐれた頭脳をもち、あるいは技術をもっていても、その頭脳や技術によって人類を絶滅させるような殺人兵器をつくったのでは、普明どころではありません。また、どんなに実力をもっていても、その実力を自分の貪欲や、自分の団体の貪欲や、自分の国家の貪欲のために行使し、おおくの大衆の幸福をかえりみないならば、これまた普明どころか、世の中に暗黒を投げかける夜叉であるといえましょう。

あなたも普明如来

 その反対に、いかに地位は低くても、頭脳はすぐれていなくても、世のためになる自分の職業に精出し、その人柄や生きかたが、職場や家庭にひとすじの明るさをあたえるようならば、その人はりっぱな普明如来のひとりであります。
 あなたも、かならず普明如来になれるのです。なぜならば、あなたのなかには、光り輝く生命の宝珠があるからです。それを自覚してください。それを確信してください。仏さまが保証してくださっているのです。その保証を信じないなんて、じつに愚かなことです。それを信じさえすれば、今日ただいまから普明如来のひとりとなれるのです。

『新釈法華三部経』五百弟子受記品第八より抜粋

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