KOTA LAMA歴史地区での夜
KOTA LAMA歴史地区、金曜日の夜
車から降り、夜早くから降り始めた雨の中を小走りに、ひさしぶりに馴染みのお店ーSPIEGELへ
SPIEGEL BAR & BISTRO
いつもの、店内がよく見渡せる中央のカウンター席の隅に座ると、遠くにいた顔なじみの若い女性店員と目が合った
彼女は小さく微笑んで頷き、顔には
”あなたのことは知っていますよ”とかいてあった
ほどなくまだ注文もしていないのに、つめたく冷えた生のビンタン・ビールが目の前に置かれ、先日帰国した際に実家から持ち出してきた一冊を広げる
繰り返し何度も再読してきた沢木耕太郎のノンフィクション全集ー【オン・ザ・ボーダー】
そのタイトルが示すとおりに、この一冊は沢木さんの紀行文を編んだ内容で、様々な国を旅された際の記録が、透き通るような透明性のある文章で短編集として綴られている
香港、パリ、マラガ(スペイン)、カナダ、ブラジル、アマゾン、ホーチミンーそして、ヴェトナム縦断
特に、【キャパのパリ】はこれまで何度も読み返し、30代に一ヶ月余り自分でパリを旅したこともある
戦後、ロバート・キャパが貧しい青年時代を送ったセーヌ左岸を中心に、当時、彼が通いつめたレストラン、カフェ、そして小さな網の目のようなパリの路地を沢木さんが「追走」し、それをさらに私自身で「追走」した旅だった
紀行文ー
紀行文か・・・
あるいは、もしかして、わたしにも紀行文は書けるのかも知れない
もちろん、その真似事だとしても
これまで様々な土地を遍歴してきたし、その遍歴ももう終わってしまったのはわたし自身がよくわかっている
今の職場と仕事内容はわたしに合って気に入っているし、インドネシアもそんなに悪くない
それに、これ以上他の海外に移るのは年齢を鑑みても、大きなリスクを伴うだけだろう
行きたい国はまだあるが、長期滞在したいとなると、もうあまりない
だから一度、ここインドネシアでじっくり腰を落ち着けて何か本格的に文章を書いてみようか・・・
もちろん、沢木さんのような名文を書こうというのではない
しかし、紀行文の極めて重要な本質の一部分は、あるいは【追憶】に求めていいのかもしれない
だとしたらー
遍歴を終えたと、自分自身で認めることが出来る今であれば、過去の全ては追憶として結ばれていくのかもしれない
これまで撮り溜めたアジアやヨーロッパの膨大な写真のデータはいまも手元にあるし、その写真が自然に想起させる当時の思い出や出来事、あるいそれらの土地を舞台にした完全な創作でもいい
SNSをその媒体に使用せず、ひとまずは自分の為だけに、何の制約も設けず書きたいように、自由にー
そのときお店の正面の扉が大きく開き、外の喧騒が店内に流れ込んできて、我にかえった
顔を上げ外の通りを眺めると、雨脚が強くなり、大勢のインドネシア人の若い恋人たちや家族連れが、嬌声をあげながら小走りに駆け始めている
そしてふと気がつくと、先ほどの顔なじみの女性スタッフがわたしのスツールの隣に立っていた
彼女はわたしに何かを言ったが、咄嗟のことで意味がわからず困惑し、聞き返した
Please say it again.
ーミスター?今夜はどうしたんです?
さらに困惑した
何が、どうしたというのか
彼女はわたしの目の前に置かれたビールグラスを見つめている
ビールはまだ一口も口をつけておらず、すでに泡は消え、グラスの表面についた水滴もすべて紙製のコースターに吸い込まれている
目の前にあることを忘れ【オン・ザ・ボーダー】の世界と、自分の内部によほど深く入り込んでしまっていたらしい
いや・・・いや、それだけではない
さっきから敢えて無視していたこの寒気と二日酔いのような倦怠感はまさか、ワクチンの副作用なのか
身体がだんだんと・・・ゾンビになりはじめている
そのことを意識すると、今度は本物の寒気が襲ってきた
この店に入るまでは体調は何も問題なかったというのに
彼女に今朝4回目のワクチンを射ってきたことを話すと、まるで救いようのない馬鹿を見るような目でこのわたしを見、こう言った
ーそんな日にアルコールを飲んだらダメですよ!今夜はもう帰られた方がいいです
そうすると答え、会計を頼むと、彼女は小さく首を横に振りこう言った
ー今夜はお会計は大丈夫です。また元気になられたらお越しください
そういうわけにはいかない
財布から素早く100,000rp札を抜き出すも、どうしても彼女は受け取らない
作戦変更で20,000rp札を抜き出し、チップとして渡そうとするもかたくなに拒否される始末
仕方がない
今夜は素直にお店の好意に甘えることにして、撤収しよう
家に帰ってゾンビに変身し、苦しんだあとに人間に戻ったら、何か紀行文でも書いてみようか
そしてやはりここスマランでは、SPIEGELに勝るビストロはない
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