レイク・チューリッヒ | 古城への坂道、湖畔の月
レイク・チューリッヒ | 02
古城への坂道、湖畔の月
ヨーロッパ大陸への旅に出る前に、わたしは福岡の実家からその旅の道中で会いたい、ごく数名の日本人の友人たちには事前に連絡をとっておいた
そのチューリッヒ在住の中学の同級生の女性へはかなり早い段階からSNSでコンタクトを取っていて、だいたいいつ頃にスイスに入る予定だとか、日本で買える欲しいものがあれば、それをお土産として持っていくと話していた
彼女が求めたのは、ひとつはお弁当を入れる日本製の保冷バッグと、もうひとつはお菓子の「PLITZ」のサラダ味で、わたしはそれらをバッグパックの隙間に詰め込んで準備を進めていたのだ
そうした細かなやり取りの中で、ある日彼女にこう尋ねてみた
ところで、チューリッヒでは仕事は何をしているの?
それに対して彼女からの返答は口を濁すかなり曖昧なもので、それは直接会ったときに話すよという消極的な返答でもあった
わたしが投げかけた質問自体に、礼を逸するような内容は含まれないはずだ
同級生同士の会話としてはごく自然の、で、今何やってるの?レベルのありふれたものだったに違いない
しかし彼女は自分のそうした情報は進んで開示したくないらしい
そのやり取りをしている際、わたしは実家の自室で久しぶりにトム・クルーズの例のスパイ・アクションシリーズをDVDで観返していて、日本語字幕で観ても相変わらず、はっきり言って、ストーリーや人間関係が不明瞭で、しかしアクションだけは凄いよな、トム・クルーズも頑張ってるな、と思いつつ、頭の片隅ではぼんやりと、そのチューリッヒ在住の同級生はもしかしたら何かの秘密結社で極秘の任務を抱えていて、世界平和を守るために日夜テロリストたちと戦っているのかも知れないという、我ながら逞しい想像をしていた
その彼女は、いかにもトム・クルーズの脇で彼をサポートする
”アジア系の美人スパイ”といった雰囲気が濃厚に立ち込めているからだ
そうしてチューリッヒに入り、初日に彼女の自宅に招いてくれ、スイス名物の手作りのチーズ・フォンデュと温野菜、ワインを向かい合って食べていると、彼女はこういった
ん?何?トム・クルーズ?あの映画俳優の?
わたしは慌てて最前に口にした言葉を引き下げ、改めてここチューリッヒでは何の仕事をして生活しているのかを尋ねてみた
疑問は深まるばかりだった
彼女の自宅はチューリッヒの中心地の高層マンションの上階で
ちょっとした美術館や博物館のような広大な敷地面積があった
しかもここスイスの物価の高さは世界的にみても最高峰に位置する国だった
そして彼女が語ったのはもちろん秘密結社ではなく、トム・クルーズも全く関係のない別世界の話だった
彼女はフランスに拠点をもち、高級馬具製作にその発祥をもつ、わたしでもその名を知っているある高級メゾンに在籍していた
彼女はいった
そう。店舗販売での下積みを経て、今は商品部でバイヤーをしている。
凄い、わたしはそう思った
しかし何もそれは彼女が高級メゾンに所属しているという驚きではなかった
そこに至る前の前提としての、「語学」に関する強い羨望があったからだ
わたしはこの夜の時点で、長くヴェトナムで勤務した小さな経験があった
当時のホーチミンにはおよそ10,000人の日本人が暮らしていたとも言われており、会社とは関係なく、いわば「異業種交流会」も市内各地で積極的に行われていて、わたしも時間を見つけてはそうしたいくつかの会には週末を利用して参加していた
そうした緩やかな会合で知り合うことができた多くの日本人の中でも、特にわたしに強い興味を引いたのは「語学のスペシャリスト」たちだった
彼らの多くは、たとえば外資系のホテルのレセプションだったり、外国籍の航空会社の現役の客室乗務員たちだったりで、ネイティヴ・レヴェルの英語はもちろん、難解ともいわれるヴェトナム語も自在に操ることができる、わたしから見れば、同じ海外の「駐在員」とは決して括ることができない、まるで別世界に棲む語学の達人たちでもあったのだ
それに対してわたしは職場では通訳が必要不可欠なのはもちろんのこと、当時の上司、「三人の長老」たちが偉そうに吠えていた「大川弁」を、逆に現地通訳に翻訳するといういわば正反対の日々で、そうして巡り合うことができた多言語を操る日本人には当時かなり強い羨望の眼差しを向けていたのだ
なぜならば、彼らの仕事は「語学」というしっかりとした地盤の上で初めて成り立つ、ホスピタリティを主体としたプロフェッショナルなサーヴィスの世界で、「語学」はその最低条件となるからだ
彼らの仕事はそこから始まる
さらに例えば、英語ひとつをとっても、ネイティヴ・レヴェルを身に着けることはもちろん、はっきりいって容易ではないことくらいは、この頃のわたしにもわかりかけていた、半ば絶望しているような時期でもあった
わたしが、いつか日本でゆっくりコンサートに出かけてみたいシンガーのひとりに宇多田ヒカルがいるが、広く知られているとおりに彼女はアメリカ・ニューヨークに生まれ、そこで幼少期を過ごし、音楽家の両親の下で流暢な英語を自然と身に着け、今は息子さんとロンドンで暮らしているという
仮に、「幼少期から英語を学んだ」環境を、正確な意味とは異なるのだろうが「先天的」だと仮定すると、わたしの目の前に座っている中学校の同級生の彼女は、「後天的」に英語とドイツ語をネイティヴ・レヴェルにまで叩き上げたということになる
なぜならば彼女は生まれも育ちもわたしと同じ福岡の田舎町で、同じ中学校を卒業し、高校は別々の道を進んだが、少なくと知る限りは、そして本人から直接聞いた限りでは、彼女はわたしと同じく英語に関しては義務教育と高校の授業のみで、いわばそうしたかなり遅い地点から語学を学び始めたと言えなくもない
そしてわたしがホーチミンで知り合うことができた多言語を自在に操る日本人たちは、もちろん「先天的」なタイプだった
「後天的」なタイプの人は、たった一人だけいたが、その友人の奥さんはもちろんアメリカ系ヴェトナム人だった
わたしが彼女に対して凄いと感じたのはまさにその「後天的」な一点で、そう思うことで今度は「高級メゾン」が気になり始めた
わたしはいった
そうした修行時代の店舗における接客・・・例えば、言葉・・・
ドイツ語なのだろうけど、お客さんとの間にトラブルはなかったの?
つまり、クレームとして。
彼女は、細く長い指を順に折り曲げ数えながらこういった
そんなの、嫌になるほど経験してるよ。
最初はもちろん流暢なドイツ語なんて話せるわけないし。
それだけでずいぶんクレームになったね。
それに、あまり気分のいい話ではないけれど、わたしが”アジア人”というだけで、お客様から露骨に担当を変えてくれと言われたことも何度かある。
わたしたちには華やかにしか見えない、ヨーロッパのファッションの世界の裏側の、華やかではない一面を垣間見たような気がした
彼女は続けた
でもそうした悔しい経験をわたしは何とかプラスにすることができた。
時間はかなりかかったけどね。
今では英語、ドイツ語はもちろん、イタリア語も、そしてフランス語も聞くだけならばだいたい理解できる。
その日、チューリッヒの中心地のバーンホーフ通りのアウトドアの衣料品店で、彼女がわたしのために選んでくれたのは、寒冷地仕様のフード付きのジャケットだった
表面には撥水加工が施され、顎の真下までジッパーが閉まり、袖もマジックテープで絞ることが可能で、全体の色は濃紺、フードと両ポケット部分だけはワンポイントで濃いモスグリーンが配されたすっきりとした印象の、暖かく着心地のよいジャケットだった
わたしはそれを羽織って鏡の前に立つと、真横で、顔の左右対称がそっくり入れ替わった鏡像に映る彼女はこういった
とてもよく似合う。
彼女が選んでくれたのはLサイズでわたしにはやや大きく、個人的にはややタイトなMサイズ、もしくはSサイズが良かったのだが、それを口に出すと彼女からのせっかくの好意を無下にしてしまい兼ねないので黙っておくことにした
そのジャケットをもってレジに行き、クレジット・カードで支払いを済ませると対応してくれた女性店員が何かをいったが、それはもちろんドイツ語でわたしにはちんぷんかんぷんだった。別の惑星の言語のようにも聞こえた
するとわたしの真横にいた同級生がすぐに助け舟を出してくれて、流暢なドイツ語で応対してくれ、わたしに日本語に翻訳してくれた
”ジャケットは、このまま着ていかれますか?”
って聞いているから、そうして下さいって答えておいたよ。
わたしは誰がどうみても、とても厳冬期のチューリッヒにいるとは思えない薄着だったのだ・・・
そのお店を出た足で、石畳の道を歩きながらちょっとお茶でも飲もうという話になり、通りのかなり奥まった場所にあった「teuscher」という名の、いわゆるスイス・チョコレートの老舗に案内してくれた
東京にも系列の店舗があるらしいが、もちろんわたしは初めてだった
温かい空調がふんだんに効いた店内には、意外にも初老と思える男女が席を占めていて、このことにもいくらか驚かされた
なぜならばたとえこの店の名物が「ホット・チョコレート」であったとしても、日本の同様の男女が飲む飲み物のイメージがわたしにはなかったからだ
そしてそのことには彼女が小さな解説を加えてくれた
たぶん間違いないけれど、老齢の人たちが飲んでいるのはブランデー入りだと思う。身体がとても温まるのよ。どうする?ブランデー入れる?
わたしは素早く首を横に振り、しかし、ここチューリッヒに来てからというものの、イタリアの蒸留酒であるグラッパに、梨のブランデー、そしてホット・チョコレートと、人生で初めての飲み物ばかりで、いやはや、世界って広いよなという感想を改めてもったりしていた
ふたりがけのテーブル席に向かい合って座ると、彼女はわたしのカメラに保存されているこれまでのパリの画像を見たがり、わたしはタッチパネルでの操作方法を教え、意外なほどに甘くない、そして身体が温まるホット・チョコレートのその美味しさにほとんど打ちのめされていた
しばらく熱心に画像を指先でスライドさせていた彼女は、その動きを止めてこういった
美術館で撮影した画像がずいぶんあるけれど、素朴に聞いてどこの美術館の誰の作品が一番よかった?
わたしはその質問にはほとんど間を置かずに、きっぱりとこう答えた
ルーヴルの”サモトラケのニケ”
彼女は再び指先でパネルをスライドさせ、そのニケの画像を画面に呼び出すとこういった
知ってる。”ダリュの階段広場”にある頭部が欠落した、羽のある女神像ね。
わたしも見たことはあるけれど、そこまで心は惹かれなかった。
しかしわたしには圧倒的な存在感をもって迫ってきたのが、この頭部と両腕が欠落した古代ギリシアの”勝利の女神”だった
そして、少なくともこのわたしにとってはルーヴルとは
「美の殿堂」ではなく、あくまで「彫刻の美の殿堂」だった
旅人には決して安価ではない入場料を丸二日分払って、館内をくまなくゆっくり観てきたが、わたしの心を激しく揺り動かしたのは世界的な名画ではなく、あくまで古代ギリシアに代表される彫刻群であることは間違いなかった
それにはもちろん、わたしのそれまでの半生で彫刻作品自体を間近に観ることがなかったという決定的な事実と、そもそも「絵画」と「彫刻」ではその成り立ちと技法、媒体がまるで異なるという明らかな事実の差異も、眼前に迫る彫刻の圧倒的な迫力を前にすれば、すべては何ほどのことでもなかった
そうした古代ギリシアの彫刻群の中でも、抜きんでてその存在感を見せつけられたのが世に広く知られている”サモトラケのニケ”と、”ミロのヴィーナス”だった
古来から語られ、論じつくされているいわゆる「失われた美」が問いかける答えのない激しい浪漫性と、最早わたしたち人類が「彼女たち」に与え、地球が滅びるまで生き続ける永遠の命、その無限性、そして製作者が未だに解明されていない、しかし、かつては神の如き超越的な感性と技術をもった何者かが確かに存在していたという秘匿性が深く交差し、そして何より、優れた彫刻作品だけがもつ「肉体」の放つ圧倒的な力感が眼前に迫り、わたしに言葉を失わせ、時を忘れる感覚を与えてくれたのが、この二作品でもあった
そしてわたしはこのルーヴルで最大の失敗を犯していた
それはこの旅最大の失敗のひとつと言い換えてもよかった
もちろん、初めて来た場所なので仕方ないといえばそれまでなのだが、鑑賞するための「順路」を誤り、つまり、優れた古代ギリシアの傑作彫刻が並ぶ「リシュリュー翼」を最初に訪れて強い衝撃を受け、その後に訪れた名作絵画が多く並ぶ「ドゥノン翼」に進んだときには、その衝撃が尾を引くように影響していたのか、名画を観る視線にあまり熱はなく、気になった作品をおざなりに撮影するだけでほとんど印象を残さずに去らざるを得なかったのだ
以後、わたしは大型の美術館に行く際には必ず事前にフロアマップを手に入れ収蔵作品のおおよその展示位置を確認してから順路を決めるようになった
わたしは彼女へ手を伸ばしてカメラを取り、ニケの画像のある一部分だけを二本の指で拡大し、まるで秘密を打ち明けるように彼女にこういった
ニケのこの腹部・・・ちょっとよく見て。
この豊かで肉感のある腹部に・・・薄くかかったヴェイル・・・。
おれ、ニケを初めて観たときに、何よりこのヴェイルの上から彼女のお腹を触ってみたいって思ったよ。
いや、触りたいというよりかは、さすりたいかな。
おかしいかな?
別に女性の”お腹フェチ”ってわけではないのだけど!
それを受けて彼女は、途中までは良い話だったんだけど最後がね・・・
でも、男性にそう思わせるそのことこそがニケの真の魅力なのかもね
と言いマグカップに口をつけた
外はいよいよ暗くなり始め、気温が急激に下がり始めていた
チューリッヒの氷点下の気温は、ヴェトナムの暑さの中で長く生活していたわたしにとっては、かなり過酷に思えた
やはり彼女の指摘の通り、上着は必須だったのだ
吐息が白い塊となって口から出ていく
最前のお店ではお互いにホット・チョコレートを一杯づつ飲み、わたしはここチューリッヒで撮影を中心とした観光をしたいというリクエストを出すと彼女はしばらく思案したあとで、”Rappers Wil”という名の古城で有名な地名をあげてくれ、これからそこへ行こうかという提案をしてくれた
ただ、今夜のこの寒さで路面は凍結するだろうから、車は置いて中央駅から鉄道を使っていくことなるけど、いい?
もちろんわたしの方に異存はなかった
しかも聞けば、所要時間は40分程度で、チューリッヒ湖岸を沿うようにして線路が走っているらしい
どのような風景が車窓に広がっているのだろう
そしてふたりで徒歩で中央駅の構内に入り、わたしは目についたKIOSKで彼女の分も合わせてミネラルウォーターを二本とレジ前の陳列棚にあったリップクリームをひとつ買うと、直後に仰天した
受け取ったレシートを見ると、その三点で約1,500円もしたのだ
内訳はミネラルウォーター一本が約400円、リップクリームが約600円・・・
日本で買うと、もちろん店にもよるのだろうが全て100円の合計300円程度で済みそうだが、チューリッヒはその五倍はするということだった
先刻の、寒冷地仕様の防寒ジャケットを購入した際は、それが「THE NORTH FACE」などの外資の高級ブランドではなく、おそらくはここスイスのローカル・ブランドだったせいか、あるいはそのお店の選択も彼女のわたしに対する温かい配慮だったに違いない。そう思えるほどに価格が抑えられていたからだ
わたしは笑いながらKIOSKを出て、店の外で待っている彼女に水を渡し、フランスから東に国境をひとつ越えただけで気温は氷点下に、そして物価は天井知らずになるというと、彼女は明るく微笑みながらこういった
そうよ。
でも改めて、ようこそチューリッヒへ。
ところで話は少し変わるが、わたしには五つ歳の離れた弟がいて、わたしが悪い影響を与えてしまったのか、彼も二十代の中頃にバックパッカーになって二年近く世界を巡り歩いた過去があった
そのスケールは兄であるわたしを遥かに超えて、確か南米大陸以外のあらゆる国の、少なくとも主要都市程度は踏破するような壮大な内容の旅だった
帰国後、そして現在に至るまでこの弟とは稀に深夜の実家のダイニングで酒盛りをすることがあるが、そうした席ではお互いの旅の話になることが今でも多く、弟は苦虫を潰したような顔でよく「スイス」をこう描写していた
しかしスイスの物価の高さには本当に参ったね。
ローザンヌやベルン、サンモリッツを抜けたけど、飯はスーパーで食材を買って毎日サンドイッチを作り、一度は空港の待合室のソファで一泊したよ。
もちろん、飛行機に乗るためじゃなくて、ただ一夜を明かすためだけにね。
そしてわたしがこの旅で最前まで滞在していたパリのバックパッカーたちも同様の構想を持っていて、彼らの計画の多くは、スイスでは本当に見たい景色のある都市だけを絞り込み、交通ルートは主に深夜バスを使って宿泊費を浮かせるというのが一般的で、まるで熱せられた鉄板の上を一気に駆けるようにして隣国のドイツやイタリアへ抜けていくのだ
わたしと彼女は券売機でチケットを買い、ホームに停車していた列車に向かい合う形で座ると、彼女はこの国の物価事情について教えてくれた
その国の物価の高さが、そのまま国民の所得の高さとイコールの関係であるのであれば、なるほど、この国の物価は少なくとも日本の数倍はありそうだった
彼女はいった
そうね、新卒の給与で500,000円からのスタートが相場で
最低家賃がだいたい200,000円くらいから。
外食費は東京の平均の30%から40%アップといわれているはずよ。
もしもここチューリッヒに、同級生がいなかったらわたしはどうしていたか
スイスを素通りすることはなかっただろうが、やはりわたしの弟やパリのバックパッカーたちのようなルートを取らざるを得なかっただろう
この「永世中立国」の物価は旅人の侵入を鋭く拒むような、まるで冷たい大理石の壁が立ち塞がるような強固な印象は確かにあった
そしてここチューリッヒは、スイスの都市の中でも最も物価が高いといわれている中世からの石造りの古都でもあった・・・
わたしたちは、車窓の向こうでチューリッヒ湖に沈んでいく夕陽を見ながら様々なことについて話し合ったが、それがどのような話題であれ、どのような場所であれ、一息つくと必ず、最後はお互いの十代の頃の話になり、彼女は何度もこの台詞を繰り返した
しかし、中学では一度も同じクラスにもなったこともなく、部活も違って
高校も別々だったのに、二十年後にここチューリッヒで再会するとはね。
・・・何だか信じられないような気もする。
そしてどちらからともなく、人生の不思議さについて面白おかしく感想を述べあったりしていたのだが、実はわたしは高校時代の彼女についてはある鮮烈な映像を印象として強く覚えていた
当時わたしは通学のために最寄り駅まで自転車を漕ぎ、それから私鉄に乗り換えていたのだが、その駅に向かう途中で何度か、やはり自転車を漕ぐ彼女の姿を見かけたことがあった
彼女はその駅にほど近い公立高校に通っていたせいか、あるいはお互いの実家が近かったせいか、稀に彼女の姿を車の往来が激しい車道の向こうにみかけ、そのときの颯爽として自転車を漕いで遠く離れていく彼女の光景が、不思議な美しさをもってわたしの十代の記憶に定着されているのだ
そしてこのことは今に至るまで彼女には一言も話していない
だからどうだという話ではないのだが、ひとつだけはっきりわかるのは、例えば中学校の三年間で一度も同じクラスにならなかった他の同級生たちも間違いなく存在していて、それらの、もはや名前も思い出せない匿名の人たちとは、おそらくは一度くらいは地元のコンビニですれ違っていることに不思議はないが、お互いがお互いの存在に気がつき、認識し合うということはきっともう無いのかも知れない
人生の早い段階で、残念ながら「縁」ともいうべき曖昧で不確かな、か細くて脆い鎖がすでに断ち切られてしまっているからだ
それはもちろん、わたしが悪いわけではなく、かといって相手が悪いわけでもない
誰も悪くない
そしてそれはわたしだけの固有のものではなく、間違いなく、そして例外なくあらゆる全世界の人々が等しく同じなのだろう
いうまでもなく、それが中学でも高校でも、あるいは小学校でも幼稚園でも偶然によって齎された「同級生」全員と人間関係を結びながら、人生の駒を進めていくことは誰であれ、絶対的に不可能であるからだ
「同級生」、という偶然以外のおよそ何物でもない透明な性質によって形成された「縁」の他に、あるいは柔らかな輪郭だけをもち、やはり実体と質量をもたない「何か」が造り上げた「奇縁」は確かに存在していることは感じるが、その曖昧な「何か」とは、実は意識して自分で必死に手繰り寄せることでその実体、つまり正体を浮かび上がらせることができるのかも知れない
いや、違う
必死に手繰り寄せても正体に辿り着くまでには長い時間がかかるのだろう
「正体」とは、もちろんその相手の本質のことをそう言いたいのではない
「感情」が向かうべき最終地点をわたしは「正体」と言いたいのだ
人と人が結びつくには、それがどのような関係であれ刻を要する
大事になるのは、その人と結びつきたいと思える最初の意志だけで・・・
その後は何でもいい・・・
最初のきっかけさえしっかりとつかめれば、後は流れに任せ・・・
しかし若かった当時のわたしたちに一体どうしろというのだろう
少なくともこのわたしにはどうすることもできなかったはずだ
それは何も「若さ」を愚鈍として断罪し否定しようとしているわけではない
誰だって例外なく、若い十代の頃は目の前に確かな実体をもつものとの対峙だけに精一杯で、それがほとんど全てでもある世界なのだ
だから、おれは・・・
Rappers Wilの閑散とした駅の改札を出て、無人の駅前広場をみながら一応彼女に訊いてみた
ここは・・・本当に・・・観光地?
わたしの真横にいたいつもクールな”アジア系美人スパイ”の彼女も、このときばかりはさすがに少し焦っていたようだった
いや、真夏はすごい人出なんだけどね・・・。
でもきみがさっき、パリのサンジェルマン・デ・プレのようなロマネスク教会を観たいっていうから・・・ここの大聖堂でも案内しようかと・・・。
駅前から小高い丘に伸びている急峻な坂道には、人どころが猫一匹見当たらず代わりにチューリッヒ湖から吹きつける猛烈な木枯らしが通りを駆け抜けていくだけだった
もしもこの場所にトム・クルーズがいたら、追手と激しい銃撃戦を繰り返しながらも、あの急峻な坂道を全力疾走して欲しいなどという勝手な妄想をしていたが、もちろん彼女には黙っておいた
彼女はその坂の頂上にある建物を指差しこういった
とにかく大聖堂を目指そう。本当に凍えて風邪引いてしまう。
つづく
NEXT
2024年11月23日(土) 日本時間:7:00
レイク・チューリッヒ | 03
ラッパーズ・ウィル、無人の大聖堂