和装だから目立ったのではなく着る人が良かったのです
ノーベル賞授賞式に羽織袴姿で参加した本庶佑さんが、存在感があって素晴らしかったと話題ですが、それは羽織袴姿だからカッコいいのではなく、本庶先生ご自身が、経験と実績を重ねた存在感のあるイケメンだから、あれほどお似合いなのだと個人的には思うのです。
川端康成氏のノーベル文学賞授賞式の際も羽織袴姿でしたが、小柄で痩せている氏ですが、やはり強い存在感がありました。
羽織袴は、残念ながら、普通の男性だと子供の七五三みたいになったり、政治家やヤクザのパーティを連想させたり、荒れた成人式を連想させたり、下品な金満家に見えてしまうことも多いです。
何にしてもコスプレ感がスゴイのです。現代ではむしろそういうイメージの方が強いかも知れません。
それが、多くの一般の人々の素直な感想です。
そんななか、本庶先生の羽織袴姿が、誰が観ても、燕尾服姿の有名外国人のなかで実に立派に見えたのですから、これは御本人の存在感がスゴかった、ということに他なりません。
一般の人々の羽織袴姿が何かしらのコスプレや、何かしらの悪イメージに結びついてしまう現状に、呉服業界の人々が「みんな呉服のことを知らないからだ!日本の伝統なんだからもっと教育現場で啓蒙しろ!」とか「日本人なのに知らない方がおかしい!」「普段からキモノを着ていないからだ!」という態度をすると、呉服に興味の無い人たちは益々「あの人達、怖い。。近寄らないようにしよう」となりますから、呉服に関わる業界人は、絶対にそういう態度をしてはいけないと私は思っています。
そもそも、呉服業界の人が、一般の人々に「着物っていいですよね!」と聴いたら相手は気を使って「やっぱり着物は良いですね」という答えを言うに決まっています。SNSなどのコメント欄などでも、元々愛好家が集うわけですから、呉服をもっと着るべきだ!という論調ばかりになるのは当たり前です。
しかし、一般の方々の本音は違うのです。
そもそも
羽織袴姿=全ての男性の存在を高める
ということはありません。
キモノを身に着けたからといって、必ずより美しくなるということはありません。
そんな魔法のような衣料は古今東西、世の中に存在しません。
だから、国際的なハレの場で日本人が和装を身に付けて目立つと「着物を着たからこそ存在感があった」(だから和服は偉い)ということが良く言われますが、そういう論調は、その人に失礼だと私は思っております。
それは例えば「実績と経験を重ねた存在感のある人が着たから授賞式の会場でも存在感があった」「人生の盛りにある人だから輝いていた」「才能溢れる人だから輝いていた」などであって、和装が偉いのではない、と私は考えております。そういう人は、授賞式の会場で燕尾服を着ていても存在感があるのです。
わたくしは、和装を手がけるからこそ、和装を特別扱いしない姿勢でいたいと思っております。
和装は、一般社会からの認識では、現代社会に沢山ある衣料の選択肢の一つに過ぎないのです。
逆に、本当の意味で、現代の衣料の選択肢の「あたりまえの一つ」になれたら、それは和装が現代生活に溶け込んだ、ということになりますから、それこそ、正に理想の状態です。
呉服専門雑誌が無くなり、普通のファッション誌に和装コーナーがある、という状態になるのは、私は悪いことではなく、むしろ良いことだと思います。
日本の伝統衣装だから云々。。。という別枠を設けて話をすること自体、自ら「特殊な衣料」にしてしまっているのです。
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