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今年のフォリア工房の挑戦のひとつ

当工房は工房の成り立ち上、いつも「試行錯誤」と「挑戦」の連続ですが、この所の当工房の最も大きな挑戦は

【販売価格の公開】

です。

当工房は2023年4月より

【作り手である当工房が、自ら作品の価格を決め、当工房の作品はどこで購入しても同じ価格で購入出来るようにする。そしてその価格を公開する】

【当工房の姿勢にご賛同いただける小売店さまとのみ、お取引させていただく】

ようにしました。

上記リンクは当工房のウェブサイトでの、その件についてのお知らせです。お読み下されば幸いです。

そのような判断に至ったのは

【ラディカルトランスペアレンシー】=徹底的透明性

【トレーサビリティ】(追跡可能性)=商品の生産から消費までの過程を追跡出来るようになっている事

が、呉服の業界にも必要だと確信したからです。

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以下はなぜ、フォリア工房はそのような方向へ向かうのか?の説明です。いつものように長いですので、興味を引いたところだけお読みいただき、その他は飛ばし読みしていただけばと思います。最後の部分だけは、スクロールして読んでいただきたいと思います。m(_ _)m

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【その会社の、その製品は、どこで買ってもだいたい同じ価格で買える】

・・・一般的な常識からすれば「当たり前の事じゃないの?」という話ですね・・・しかし私の生業のメインである和装制作で関わる「呉服業界」では違うのです。

「売っているお店によって、価格が恐ろしいほど変わる」そして「それを今も当然としている」のが呉服業界です。

和装品を購入した事が無い人でも、それが「呉服屋さんって怖い」と思わせる大きな要因となっているのは、なんとなくご存知なのではないでしょうか。

美術系のものは単純な流通品では無いので、それぞれの都合によって大きく価格が変わるのは仕方がない事とも言えます。また、古美術やオークションでの販売であるなら、時に価格が乱高下するのは当然です。

しかし、和装品は、作家ものの「作品」であったり、産地のものでも特別に貴重なものには美術品としての価値も乗りますが、一応はまだ産業としてギリギリ成り立っている業界から生まれる「製品」と言えるものであり、例えば絵画のようなアート作品ではありません。にも関わらず、値付けにエンドユーザを無視した傲慢とも言えるいい加減さがあるのが問題です。

和装品は(売れる売れないは別として)「製品」としての特性が強いものですから、本来は新品であるならどこで売られていても、だいたい同じ価格で販売されるべきものだと私は考えます。

こうやって文字に書くと益々「当たり前過ぎる話」だと思えて来ます・・・

元々市場原理の働きの範囲でモノの価格が決まる市場において、力のあるメーカーが自社製品の価格や価値が落ちないように自社が設定する販売価格を販売店に強制すれば独占禁止法に抵触する恐れがありますが、これは以下に説明するような呉服業界の特殊な商習慣によって起こる被害からの顧客保護と、弱い立場にある制作者保護の観点からの行動です。

また、工芸作品では作品というよりも製品としての意味合いが強いものであっても制作者が自作を売る際には自作の価格を自分で付ける慣習があるのにも関わらず、その価格を特殊な市場環境により自ら設定出来ないのは制作と創作品販売の自主性を阻害するものであり、それを解消する必要があるという判断によります。

当工房は、およそ29年前の(2023年5月時)独立当初から小売をしておりますので基準になる小売価格がありますが、呉服業界の小売店さんや問屋さんへの卸販売になると、呉服業界の慣習で「作り手は小売店での販売価格に口を出せない」というルールがあります。確かにそれは一部分正しいのですが、一般的な範囲の「販売価格の自由」を遥かに逸脱した常軌を逸するものであれば話は別です。

販売価格を作り手やメーカーが決めている所も僅かにはありますが、基本的には小売店さんが自由に付けたい価格をつけます。買取商品はともかく、委託商品であってもです。

もちろん、それが「その会社が素材、技法、デザイン、コンセプト設計の全てを起こし、諸経費とその他責任の全てを背負って製作し、ブランド化したもの」であれば、どんな価格を付けようと自由です。(もちろん節度が必要で適正でなければなりません)

しかし、作家のオリジナル作品や、作家に発注して制作した、その作家の名前で販売するようなものであっても、作り手に小売価格を決める権限が無いのは問題かと思います・・・その価格が社会的に「まあ、その範囲だよね」というところに落ち着いてるならもちろん問題になりませんが「売る場所によってありえない程に価格が変わる」これが大きな問題なのです。それはメーカー側が小売価格を設定するのは問題とされる「独占禁止法」の適用云々の話を遥かに超えているレベルの話なのです。

これ程、業界全体の信用を大きく失墜させる事は無いと思うのですが、業界人は「呉服ってそういうものだから」という態度で現在もその問題は放置されています。

呉服の値付けは、ただ、元の値段から間に業者が入った分だけ雪だるま式に増やして行く方式です。雪だるまがころがり終わった場所で最終的な価格が決まります。

例えば、作り手から出た10のものが次に行くと20になり、さらに次に行くと40〜50になり、最終的に80〜100になる事があります。

これは作り手が100で売られているものを10の売上で制作しなければならないという事ですから、この無節操な価格の付け方は、一般のお客さまはもちろん、作り手にとっても物凄い負担になります。

生地代も加工代も家賃も材料費も人件費も研究費も、さらにその他経費が入ってその価格なので粗利で実質5以下。もちろん販売する側に経費がかかるのは当然なのですが、しかし経費がかかるのは販売側だけではありません。作り手にも沢山かかるのです。修行期間も入れたら膨大なものになります。

伝統工芸系の技術や知識を習得するには、大変な時間と学習が必要で、かつ資質と才能が無ければ仕事には出来ません。しかもその間、勤め人のような給料を貰える事はありませんし、独立してからもその経済的脆弱さに、融資を受ける事もほぼ出来ません。ですから、有名な作家であっても、世襲であるか、親が太いか、配偶者に生活させてもらいながら作家活動をしている人が殆どです。(フォリア工房は全くの新規参入です)

100で販売される価値のものを作るには、それだけの創作的アイデア、良い素材、高い技術、沢山の時間がかかります。しかし研究や作る時間すら与えられない状態で「10」の売上でそれを達成せよとなっているのが実情で、作り手は生業にする程の数を作り、かつ売るには、100メートル走のスピードでフルマラソンを走っているような状況に追い込まれます。そこまでやってもギリギリ食えるかどうか、という程度の売上しか立ちません。当たり前ですよね。

しかも引退、あるいは廃業するまでそれが続くわけです。これで体や精神が潰れない方がおかしい。その業界の後継者が出来ると思う方がおかしい。当然それではビジネスとして成り立たない・・・その価格の付け方は大量生産時代には可能だったかも知れませんが、現代のような、ほぼ個人〜少人数による小規模生産では到底そのシステムについて行けません。

流通が作り手から小売店さんへ直の二段階であっても、10→50なんて付ける事も珍しくありません。とりあえずその価格はつけておいて、販売時に半額にしますよ、という事も良く行われます。この「整合性の無い表示価格」も呉服業界不信の原因になっています。(そもそも二重価格は違法)

また、経費が多くかかるような大きな会場を使い、お客さまへの手厚いおもてなしをした場合その分価格に上乗せされます。経費が増えたり、エンドユーザーから値切られた分は、問屋、メーカー、作家に遡って値切られ、知らせも無く支払い額のいち部分しか払われず、支払い時期を伸ばされる事も良くあります。それぞれ事情があるのは分からなくもないですが、だからと言って「度が過ぎる」のは問題です。

そして、作り手側が困るのが「販売する場所によって時に数倍も違うその販売価格を作家自身が付けていると思われてしまう事」です。実際、売り場の人たちは、流通を何段も通ったために超高額になってしまった作品の価格をお客さまが高いと言うと「作家が高い値段を付けるから悪い」と逃げ口上を打つのを何度も見ています。(売り場に立つ人は、仕入れや流通の事情を知らされていないので、本当にそう思っていたりもします)

実際には作り手と関係の無いところで、作り手が強欲でいい加減な人間だと思われてしまうのは本当に心外でした。本来なら味方である筈の売り場の人自ら作家の信用を甚だしく毀損しているのに、それに対して無自覚で無責任な事が多いのです・・・

世界的ファッションブランドの原価はとても低いですが、デザイン、制作、広報、販売まで自己完結させてブランド化していますからそれはアリです。呉服業界はそれを出来ていないのに異常な値付けで販売する、そこに歪みが起こり、業界全体も歪んでしまうわけです。

もちろん、高く売れたからといって、作り手にその分の差額が入る事は絶対にありません。一般社会では当たり前の「利益の分配」という概念はありません。

そのような状態ですから、小売店さんやギャラリーさんの企画展で販売価格が公開される事もなかなか無いものです。「実際の販売価格は伏せておく慣習」を守らないと、業界から干されたり妨害を受けたりします。(私は全て実体験しました)

そういう訳ですので、小売店さん同士でも価格に係る色々な事が起こります。

例えば、小売店さんが自社のウェブショップに、ある友禅作家の価格を表示するとします。それが安めの価格であった場合、同じ作家を取り扱っている他所のお店から、同じ仕入先の問屋さんへ「あの店は友禅の〇〇先生の作品の価格を出しているから価格を引っ込めるように言ってくれ。あんな安く出されたら商売しにくいよ」と婉曲的なクレームが入ります。

文句のあるお店が、直接そのお店に文句を言えば良いのにと思いますが、一応は「それぞれの自由がある」という事になっているので問屋さんを介して対象のお店に文句をつけるわけです。なんだか面倒ですねえ・・・まあ、分野を問わず伝統系ではあるあるな話ですが・・・

それでも最近は「健全な価格」をウェブ上に表示しているお店が増えて来ました。とても良い傾向だと思います。

そうそう、私が今回、どうしてこんな「ぶっちゃけ話」を書いているかと言うと、最初の方にも書きましたが

【ラディカルトランスペアレンシー】=徹底的透明性

が無いものは社会から信用されない時代になったと確信するからです。(【ラディカルトランスペアレンシー】と検索すると色々出てきます)

現代では一般のお客さまがお持ちの情報量が違います。時に業者よりも広く深く、リアルタイムの情報をお持ちで、しかもそれをお客さま同士で共有までしている時代です。

そういう時代ですから、業者側からお客さまの判断材料を提供し、さらにそのフィードバックを受け、さらに改善して行くための情報共有をする時代になったと私は考えます。

今までは、そこまでお客さまが知らなくても良いと思われていた情報も(業界としては知られたく無い情報も含む)公開される事が増えました。食品やファッション分野などはそれが当たり前になっていますよね。今までは、伝統系はシロウトは黙っとけという上から目線の態度で済みましたが現代ではそれは通用しなくなって来たのです。

生産者、産地、流通、その他に、変な負担をかけていないか?どこか一部の分野だけ変に儲けていないか?表示の誤魔化しは無いか?不正は無いか?その他その他、簡単に言うと「どれだけぶっちゃけて情報開示し共有しているか?」という事です。

例えば、コーヒーや紅茶の世界だと「販売者が生産者から搾り取っても、一時的な利益は得られても品質を維持する事はもちろん、上げる事は出来ないから、永続的な品質向上競争に勝てない」=「ビジネスで勝てない」という判断があるようです。人道的な問題云々もあるでしょうけども、単純に販売者はビジネスで勝つために、生産者の環境を良くして良いものを作ってもらいそれを武器に戦う・・・そういう理由です。ビジネス面でも有効なのです。

最近は、現代美術ギャラリーなども、ギャラリーと作家の取り分を公開していたりします。そういう時代なのですね。

むしろそれが「先端」で「文化的」で「ぶっちゃけていた方がカッコいい」という時代になってくれると良いのですが。

当工房の染色技法については以下に詳しく公開しております。これを観た同業者からは「そこまで詳しく書いちゃって良いの?」と言われましたが、知られて困るものは何も無いですし、和装文様染を目指す若い人たちの参考になればと公開しています。

以下は、創作についての考え方、和装についての考え方です。

伝統系の文化は、一部の人や集団のみ利益を吸い上げるための秘密を持つ事が多いですが、私は伝統文化の界隈をブラックボックス化してはならないと考えています。もし、その伝統分野の内部を公開して魅力や味わいが薄まるなら、また、情報公開してまずい事が沢山あるから公開しないというのなら、その伝統文化はもう寿命で、消えるべき段階に入っているのです。消えるべきものを延命しても次の新しい文化の発生の邪魔になるだけです。

和装制作系はもう瀕死の状態ですから、その維持、出来れば発展を考えるならブラックボックスを無くし、生産者、流通、販売、消費者の皆で問題を共有し改善して行く必要がある、もうその段階に入ってしまったと私は考えています。

それで【ラディカルトランスペアレンシー】=徹底的透明性が、和装の世界にも必要と思うわけです。

今回は書きませんが呉服業界の「表示の誤魔化し問題」は、酷いの一言です。もし他の業界なら、業界自体が滅びるレベルの悪習があります・・・高額品にも関わらず【トレーサビリティ】(追跡可能性)、ようするに「商品の生産から消費までの過程を追跡出来るようになっている事」を放棄している、いや、伝統という言葉でワザと都合良く曖昧にしているのです。

・・・・色々な問題が山積する伝統系の世界ですが、ではその中の人たちは強欲な亡霊たちの集まりなのかと言えば、そんな事はありません。これが逆に根深い問題なのですが・・・

業界人たちも、特に悪意があってそうしているわけではなく「今までもそうだったし、皆もそうしているし、そうしないとやっていけないシステムになっているから、こんな事を続けていたらダメだとは理解しているけど、でもなんとなく今まで通りやり続けている」それにプラスして「心のどこかで濡れ手に粟で儲かっていた時代が忘れられず、またあの時代が来ると、どこかで信じている」状態です。また、長く続いた慣習が根を下ろした状態から、その根を抜いて新しい樹を植えて育て、森を再生させるという事もまた難しい位に土壌自体が汚染されているのです。

伝統系のものは、習得するのに大変な時間と労力がかかりますから、それを更新するのは、ある意味新しく身につける以上に大変です。ですから、なかなか変えられないという事もあると思います。

以下に書いたような事は私が独立した当初(2023年時点で29年ぐらい前)からありましたし、もちろんそれ以前からあった事です。それが現在も続いています。

呉服業界に蔓延る意識がそれですから「じゃあ、今はそういうノリだと通用しないみたいだから色々と新しいシステムに変えて行こう!」とはなりません。そこは、変に伝統だから変わってはいけない、という雰囲気を醸してはみるものの、最終的には何もしない事を選択するわけです。

表向き新しい事をやっていたり、メディアに新しい事をやっている、生産者を大切にしていると広報している会社でも、実際に取引してみると「内情は昔と全く変わっていない」事は良くあります。

また、制作側が常に被害者という事もなく、すっかり奴隷根性が身に付いて「良い奴隷である事が物事の分かった粋な職人」という態度の人(もちろん本人は自分を奴隷とは思っていないのですが)も沢山おりますし、プロを育てる事をせずに技術を切り売りし悪い意味の教室経営ビジネスに走る人もいるし、無責任に弟子を入れては中途半端に独立させてレベルの低い自称工芸作家を量産している人もいるし、旧態依然とした業界しか知らず、それで長年やって来たために社会的にはかなりの変人も沢山います。

それに、プロで通用するような後継者を作るには無給であったとしても師匠には大変な負担がかかるため、弟子を受け入れる人がいない。これでは本当の次世代を担う後継者を作れません。

どこかに大悪党がいて呉服業界がおかしくなったのではなく、皆でなんとなく今まで通りでやり続けて来たら、もうどうしようもない状態になっていた、という感じです。その間、多少は何かしらの行動をしたとしても、抜本的なレベルでは何も手を打たなかったわけです。新しい事をした人間がいたとしても、それは上リンクの記事にある「業界人しぐさ」で潰して行ったのです。

これは呉服業界だけでなく、日本全体に起こっている事と言えるかも知れませんね。「何か新しい事をして失敗して損をするのは絶対にイヤだ!」「誰かが新しい事をし、それが失敗し巻き込まれるのは絶対に避けたい」という姿勢が、変な強度で貫かれている感じです。

「我慢していれば、また良い風が吹いて来るさ・・・だから余計な事を考えるな、行うな・・・」作り手、販売する人問わず、多くの業界人がそう言っていた事を思い出します。

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また長くなってしまいまして申し訳ありません・・・

そんなこんなで、

当工房は、当工房なりに良しとする事を「当事者として」そして「自分たちの出来る範囲で確実に」やって行こうと思います。私は独立してから30年弱ですが、それはずっと考えて今まで活動して来ました。もちろん、沢山バカにされましたし、妨害も受けました。

しかし、ただ業界ガー!と他人のせいにしていても、何も環境は変わりません。妨害や無視、その他、それは今まで以上に色々出てくるでしょうけども、コツコツと自分たちの信じる事をやって行こうと改めて思うのです。

それは、日本の伝統文化のより良い未来の創出のため、そして和装制作分野の後進のための整地をするため。

それを私は当事者としてやって行きます。やりたい事は色々あるのですが、何分、無名な人間の孤独な活動ですから、大きく動かす事は不可能です。

私たちの姿勢が、お客さまや、業界人でもこのままでは駄目だと当事者意識で考えている方々から支持されれば私たちは生き残れるでしょうし、支持されなければ私たちは消えるという事です。

もちろん、簡単に諦めません。しぶとく活動いたします。

私は独立してから来年で30年目になり、私の年齢も還暦間近になります。そんな年寄りですから、当事者として、多少でも後進の進む道の整地をし、日本の伝統文化に役立つ活動をしてから消えたいと考えます。

今までフォリアに関わって下さった皆さまのご理解、ご支援によって私たちは創作を続ける事が出来ました。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。


フォリア代表 仁平幸春 工房構成員一同

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