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音信(一二一)〜(一四〇)

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小説 変わりゆくものと変わらぬもの
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音信(一二一)

音信(一二一)

「花の季節は終わってしまったね」と和歌子が言った。
「もっとはやくに、あなたに渡していれば」
ぼくはかぶりをふって、
「二通目の手紙は、きみもさっきはじめて読んだんだ。銀木犀のことが書かれていたことは知らなかったんだから」
「愛衣ちゃんから送られてきたのは七月の終わりだった。あのときすぐに、あなたに渡せばよかった」
「『廢市』をここに置いたのは、手紙が届いたあと?」
和歌子はうなずいて、
「春希の

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音信(一二二)

音信(一二二)

「金木犀も植えられてるかもしれない。見分けられる?」
と和歌子が言った。
「花の色がちがう。においも」
とぼくは答えたが、
「花の季節は終わってしまったんだったよな」
さっきの和歌子の言葉を思い出して、そう言った。言ってから、「もっとはやくに」と言っていた和歌子がまた自分を責めないようにと、ぼくはあわてて言葉をついで、
「葵のお母さんの友人や、秋ちゃんっていう、葵の幼なじみに訊いてみればわかるかも

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音信(一二三)

音信(一二三)

京都駅の新幹線の中央改札を出ると、正面に近鉄線の改札が見えていた。
八時をまわったところで、月曜日のコンコースはちょうど混雑する時間帯だった。冬休みにはいっているので制服姿の高校生はあまりみかけないが、乗客のほとんどは勤め先に向かっている人々のようだ。
人波が途切れるタイミングをみはからって、できるだけ通勤客のじゃまにならないようにと、すぐそばに駅員が立っているいちばん端の改札機へ向かった。
慣れ

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音信(一二四)

音信(一二四)

おじぎをしながら寄ってくるシカに囲まれて、春希がはしゃいだ。
ぼくは春希に請われるままに、シカせんべいをやっている様子を動画で撮っていたのだが、
「春ちゃん、うしろ」
角の生えたシカが、春希のスカートの裾に鼻先を近づけた。春希は白い息を吐きながら悲鳴をあげ、ぼくのところへ走りよってくると、
「もうないよ」と、両手を広げてみせたが、シカは春希の上着のポケットのうえからはみ出したせんべいの束にかみつこ

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音信(一二五)

音信(一二五)

急須で淹れた茶を飲みながら、春希が湯から戻ってくるのを待った。
エアドロップで春希が送ってきた、奈良公園でシカと写した動画を見返しながら、ぼくは盆休みに竹林で写真を撮ったときのことを思いだした。
あの日の春希は、ぼくといっしょに写真を写したがった。
インスタにあげたりしない約束で、ふたりで竹の前に並んで立つと、春希が自撮り棒で撮った。
「家族と写した写真を、不用意にあげたらいけないよ」
そう忠言し

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音信(一二六)

音信(一二六)

湯からあがって、脱衣場の大きな姿見の前に立った。両手で浴衣の袖を持ち、左右に引いて裄の長さをそろえた。背縫いを合わせてから、すこしゆるめに帯を回した。
結び目を整えると、力を入れて腹をひっこめ、時計回りにまわした。
身体が火照っているので、半纏は羽織らずに部屋に戻った。
「もうあがったの? カラスだね」と春希が言った。
「長くつかるとのぼせる。泊まりだから、何度もはいれるからな」
「ご飯まえだけど

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音信(一二七)

音信(一二七)

昼食の膳を運んできた仲居に、この子の帯を結んでやってもらえないかとぼくは言った。
「女帯は結んだことがなくてね。浴衣姿に似合う、はなやかなのがいい」
四十をすこし過ぎていると思われる仲居は、ぼくの貝の口をちらっと見たあとで、春希が着けている、ぼくが結んだのと色違いの縞の袋帯を、きれいに手入れされた眉を寄せ気味にしばらく見ていたが、
「お待ちください」
そう言って、部屋から下がっていった。
しばらく

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音信(一二八)

音信(一二八)

「春ネエ―」
絵梨花の声が聞こえた。
ぼくには聞き取れない流ちょうな英語で、春希がだれかと電話で話している。
「なにしてるのォ?」
春希はぼくに目配せをして、絵梨花のいる階上を指さして見せたあと、視線を落として、また話を続けた。
すぐにあがる、という意味だと解したぼくは、リビングを出ると、階段をのぼって絵梨花の部屋の前まで来て、「電話してる。すぐ来るってさ」
春希が話しているのはだれだろうと思って

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音信(一二九)

音信(一二九)

「出かけてくるとおっしゃってましたよ」
フロント係の若い男が言った。
「荷物は?」
とぼくは訊いた。
「お荷物、とおっしゃいますと?」
「ここへ来たときに持ってきていた彼女のキャリーケースが見あたらない」
春希のことを「彼女」と言ったのはまずかったと思ったが、そのまま言葉を続けて、
「娘のキャリーケースが、部屋にはない。着ていた浴衣もなにも。出ていったのは、いつごろでした?」
「一時間ほど前でした

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音信(一三〇)

音信(一三〇)

「チェックインしたときに、ひとつしか部屋がないのを疑問には思わなかったの?」
電話の向こうで和歌子が言った。
「チェックインは春ちゃんがしてくれたんだけど、そのしばらくまえからずっとうわの空だったんだ」とぼくは言った。「みね屋」の看板が見えてくるすこしまえから、ぼくは着いてからのことやなんかを考えようとして気持ちがざわつき、頭のなかが空っぽになってしまっていたのだ。
「いくら相手があなたでも、既婚

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音信(一三一)

音信(一三一)

和歌子の言葉の意味を理解しようと、ぼくは頭をひねってみた。
ぼくは和歌子に、春希は「春ネエ」と呼んで絵梨花が慕っている姉というよりも、子をあやしている母親みたいだったと言った。
「春ちゃんの母性の部分にふれた思いで、感じいっていたんだけどな。実際、娘はそういうのを期待して春ちゃんを頼ってきたんだと思うんだけど」
「絵梨花ちゃんはそうかもしれない。でも、春希はそれがすべてじゃないわ。あなたが春希をそ

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音信(一三二)

音信(一三二)

「絵梨花の友達のことなんだが」とぼくは和歌子に言った。
「その子の親御さんは、絵梨花といっしょにホテルにいると思ってる。どうしたものだろう?」
「そうね」と和歌子はしばらく考えていたが、
「相手の男の子は大学生ね。お友達は何歳? もう、成人してる?」
「絵梨花と同い歳だと思う。絵梨花はついこないだ、十八になった」
「誕生日は、十一月だったよね」
絵梨花が生まれたとき、退院してきてすぐに、和歌子が町

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音信(一三三)

音信(一三三)

おかみの峰山秋菜が案内してくれた庭は、旅館の裏手だった。
客が出入りする玄関を出て、母屋のわきにある建屋の、スタッフが通ると思われる木戸をくぐると、奥の庭に向かう路地に出た。黒っぽい苔のうえに、今朝の白い雪が鹿の子まだらに残っていた。
「狭いところですけど、庭に直接おりてごらんになっていただくとよろしいわ」と秋菜は言った。
「今朝までお客さんがいらしたので、お帰りになってからご案内するつもりでした

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音信(一三四)

音信(一三四)

庭の木の銀木犀の、張り出した枝の分かれ目のところどころに、ゆうべからの雪が残っている。それを見ながら、ぼくは葵がデッサンした白い花の房を連想していた。
ぼくのとなりで樹を見あげていた春希も、
「なんだか花が咲いてるみたいに見えるよ」
葵は二通目の手紙の中で、挿し木の鉢植えをここへ移して植えた銀木犀が、自分の背を越える高さにまで育っているらしいから、近いうちに見にいきたい、と書いていた。
「この銀木

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