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音信(一三二)

「絵梨花の友達のことなんだが」とぼくは和歌子に言った。
「その子の親御さんは、絵梨花といっしょにホテルにいると思ってる。どうしたものだろう?」
「そうね」と和歌子はしばらく考えていたが、
「相手の男の子は大学生ね。お友達は何歳? もう、成人してる?」
「絵梨花と同い歳だと思う。絵梨花はついこないだ、十八になった」
「誕生日は、十一月だったよね」
絵梨花が生まれたとき、退院してきてすぐに、和歌子が町田と連れ立って家まで祝いにきてくれたことをぼくは思い出した。
「友達のなかでは自分が一番、誕生日が遅いんだって言ってた」
「じゃ、その子も成人してるね。大丈夫」
「法律的にはそうかもしれない。でも、親御さんはうちの娘といっしょにいると思ってる」
「それは、たしかなの?」
「絵梨花に確認したわけじゃないが」
「案外、ご存じなのかもよ」
「そうだなあ。春ちゃんに訊いてみてもらうか」とぼく言って、
「親御さんが知らなくて、その子になにかあったら、申しひらきができない」
「それを親御さんに告げ口するの? 絵梨花ちゃんのことを考えてる? 信頼して頼られた春希のことも」
と和歌子は言った。
「あなたの言ってることがわからないでもないけど。でもね。このことでいまいちばんへこんでるのは、絵梨花ちゃんなんだから。あなたの娘よ。晴香さんの耳にはいったら、怒ると思う」
たしかにそうだ。当事者である絵梨花の親の視点がぼくには欠けている。世間体ではないが、職業上身についた判断基準が先行して、理屈で処理しようとしている。
「基本あなたは、自分以外の人に関心がないのよ」
晴香がぼくに言った言葉が思い出された。見知らぬ街でひとりきりにされ、親には言えず、姉のように慕っている春希に助けを求めてきた絵梨花に対するぼく自身の感情は、いったいどこにあるのだろう。
「いまの話、わたしは聞かなかったことにするから」と和歌子は言った。
「またしても秘密ができてしまったね」
「すまない」
これ以上、考えるのはよそう。絵梨花は晴香になにも言わないだろうから、ぼくが言わないかぎり、晴香はこのことを知りえない。春希もきっと、和歌子には話さないだろう。
「そろそろ風呂に行かないと」ぼくは電話を切りあげるつもりでそう言った。
「このあと、ぼくの部屋で二次会があるんだ。仲居さんにたのんで、春ちゃんの浴衣の帯を結びなおしてもらう」
仲居が出してくれた色どり帯のことを、ぼくは和歌子に話して聞かせた。
「娘の分も頼んでみようと思う。春ちゃんより先にあがって、部屋をあけておいてやらないといけない」
「余計なことは言わないで、春希にまかせたらいいわ」と和歌子は言った。
「絵梨花ちゃんは浴衣を汚すのを気にするかもしれないから」
絵梨花が湯にはいらなかった理由がいまになってわかった。和歌子に言われるまで気づかなかった。
「ところで、銀木犀は見つかった?」と和歌子が言った。
「葵さんの思い出には、出会えそう?」
「明日の午前中に、おかみさんが会ってくれるそうだ。夕飯のあとで、仲居さんが言ってきた」
とぼくは言った。
「きみが事前に伝えてくれていたおかげだ。ありがとう」
 
夜が明けるまえに絵梨花が宿を立ったことを、春希がLINEで知らせてきた。
―ユニバが開くまえに戻るって
ぼくは部屋の時計を見た。七時すこしまえだった。
―機嫌なおったのか
―結局友達の彼は部屋には泊まらなかったんだって まじめなひとみたいね
ほっとしたのと同時に、絵梨花の話を聞いてくれた春希にあらためて感謝した。
―彼氏は今日は大学の友達と遊ぶからいないんだって 最終日だからいっぱい楽しんで夜行バスでふたりでいっしょに帰る予定らしいよ 駅まで送るって言ったけど雪が降ってて寒いからいいよひとりで行けるからって
ぼくは部屋の雪見障子を持ちあげてあけた。冬の朝日が降りそそぐまえの、庭の一面がうっすらと白かった。
―駅までの道で朝からシカにからまれたみたいだよ
―からんできたのが酔っ払いじゃなくてよかった
―酔っ払いはおじさまだよ 笑 ゆうべは楽しかった
―朝ごはんは八時だよな そのまえに湯にはいってくるよ
―ロビーで待ってるね

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