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音信(一三〇)

「チェックインしたときに、ひとつしか部屋がないのを疑問には思わなかったの?」
電話の向こうで和歌子が言った。
「チェックインは春ちゃんがしてくれたんだけど、そのしばらくまえからずっとうわの空だったんだ」とぼくは言った。「みね屋」の看板が見えてくるすこしまえから、ぼくは着いてからのことやなんかを考えようとして気持ちがざわつき、頭のなかが空っぽになってしまっていたのだ。
「いくら相手があなたでも、既婚男性と自分の娘とをおなじ部屋で予約したりするわけないじゃないの」
ぼくは苦笑した。和歌子はぼくと春希のために、ふた部屋を予約していた。チェックインで、春希はぼくと同じひとつの部屋に泊まるようにはからい、別の部屋も予約してあることはぼくにはかくしていたのだ。
「春希は困った子だけど、あなたも相変わらずよね」と和歌子はあきれた声で言った。ため息も聞こえてきた。
同じ部屋で予約したのはぼくが和歌子に信用されているからで、またぼくと春希のそういう関係こそが、ぼくに対して和歌子が期待しているものだと、都合よく勝手に納得していた自分のことが情けなかった。
「絵梨花ちゃんもいることだし、いまは春希を問いつめないから。あなたもスルーしてやって」
「わるいのはぼくだ」とぼくは言った。すんでのところであやまちを犯すところだった、と言いかけたが、言葉にはせずに、
「許してほしい」とだけ言った。
「それで、絵梨花ちゃんは? 無事なの?」
「無事も何も」とぼくは言った。
「春ちゃんとおなじ部屋に泊まることになって、すっかりご機嫌だよ」
絵梨花は友人といっしょに、クリスマスのUSJへ現役高校生の制服ユニバをしに来ていたのだ。三人で訪ねてくる予定だったが、ひとりの子がコロナにかかってしまって、来られなくなってしまった。
ふたりで来た、その相手の子が、去年からつきあっていてこの春から大阪の大学へ通っているパートナーを呼び出し、絵梨花と三人でUSJをまわることになった。
絵梨花は彼氏といちゃつく友人に内心辟易していたが、不満を顔には出さないように、三人でアトラクションをまわっていた。
その大学生は、絵梨花の知らないうちに、同じホテルのシングルの部屋をとっていたのだ。最終日の今日、友人は大学生を、絵梨花とふたりでいる部屋に来てほしいと誘った。それを聞いたときに、絵梨花に我慢の限界がきた。
それでもうわべは怒りをあらわにせず、
「いいよ、部屋に泊まりなよ」
「わたしたちは、絵梨花がいても気にしないよ。絵梨花はあっちの部屋で寝るつもり?」
「まさか」
自分の着替えなんかがある部屋へ来られるのは嫌だったが、男が連日泊まっていたベッドで寝るのはもっと嫌だった。
「わたしはどこか、泊まるところを探す。一晩だし、どこかでオールするくらい平気」
「そんなわけで、昼間っから飲んで食べて、ぼくが部屋で寝入ってしまっているときに、春ちゃんに絵梨花から連絡がきたんだ」
絵梨花はUSJを抜け出し、難波あたりをうろついていた。そのころ、ぼくは湯につかっていたのたが、そのあいだに、春希はぼくに内緒で絵梨花に奈良公園で撮った写真を送っていた。
友情より恋愛を優先した友人に愛想をつかすと同時に自分があわれにも思えてきて、制服姿でよく知らない繁華街にひとりでいるのも不安だった絵梨花は、春希のいる奈良は大阪から一時間もあれば移動できることを知り、これ幸いとSOSを送ってきたのだ。
「年ごろの娘が父親の貞操をすくったわけね。絵梨花ちゃんのおかげで、あなたとふたりで過ごす春希の計画はかなわなくなった」と和歌子が言った。ぼくはまたしても苦笑した。
「帰ってきたら、あの子、また焼きもちを妬くかも」
タイガービールの一件を、和歌子は思い出しているのだ。春希がうらやましがったぼくと絵梨花の親子げんかを、前回は春希はLINEで知ったが、今日は目の前で見せつけられている。
「春ちゃんは湯上がりのすっぴんのままで、絵梨花を駅まで迎えに行ってくれたんだ。泣きはらした顔の絵梨花に、『わたしの部屋に行こ』って、上手になだめてくれてたよ」
と、ぼくはそのときの、冷えのぼせで上気していた春希の表情を思い出して、和歌子に言った。
「かわいそうに」
ぼくは春希の気持ちを気にしていたのだが、和歌子の言っている、かわいそう、は、絵梨花に向けた言葉だとぼくは思った。
「絵梨花は、春ちゃんの言うことをおとなしくきいていた。そんなわけだから、今日の春ちゃんは、ぼくに焼きもち妬いてる感じではないよ」
「あのね」
と和歌子が言った。
「春希は、あなたと絵梨花ちゃんを同じ部屋にいさせたくなかったのよ」

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