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音信(一二五)

急須で淹れた茶を飲みながら、春希が湯から戻ってくるのを待った。
エアドロップで春希が送ってきた、奈良公園でシカと写した動画を見返しながら、ぼくは盆休みに竹林で写真を撮ったときのことを思いだした。
あの日の春希は、ぼくといっしょに写真を写したがった。
インスタにあげたりしない約束で、ふたりで竹の前に並んで立つと、春希が自撮り棒で撮った。
「家族と写した写真を、不用意にあげたらいけないよ」
そう忠言したぼくに、
「絵梨花ちゃんだって、おじさまとか奥様とかの写真を載せてるよ」そんなふうに何気ない調子で、春希は返してきた。
あのときのぼくは、春希が絵梨花とインスタでつながっているのかとおどろいた。そして、春希の言うように、ぼくや晴香の写真を絵梨花がアップしているのかと案じたが、
「高校生の女の子なら、って思っただけ」春希はすぐにそう否定した。
「絵梨花ちゃんは、かしこいから。心配かけてごめんなさい」とも言った。
竹林から帰った翌日に、タイガービールの一件でぼくは絵梨花を泣かせてしまった。そのことを絵梨花から聞かされたとき、ぼくと写した写真を絵梨花に見せてもいいかと春希はぼくに訊いてきた。
あれは春希の嫉妬から出た言動だったのだと、あとからぼくは理解した。春希の思いを和歌子がぼくに説明して聞かせた。家族としていつもぼくのそばにいる絵梨花に、春希が焼きもちをやいたのだと。
春希は絵梨花とインスタでつながっていないとは明言しなかった。実際につながっていないにしても、ぼくが撮った今日の動画を、絵梨花にLINEで送りつけるくらいのことはするかもしれない。
シカせんべいを求めて追い詰めてくるシカから逃れようと悲鳴をあげている春希を見ながら、ぼくは「伊勢物語」の「初冠」の段を思い出した。
元服した貴公子が春日の里へ鷹狩りをしにやってくる。そこには旧都に不釣り合いな美しい姉妹が住んでいる。その姉妹を「垣間見」した男は、心が乱されて「しのぶのみだれ」の歌を詠む。
春希には「女はらから」にあたる姉も妹もいないが、絵梨花は春希を「春ネエ」と慕っている。
絵梨花がいまもしここにいたなら、ふたりはいっしょに奈良公園のシカとたわむれていただろうか。絵梨花を連れてくるなんてことはもちろんありえないと思いながら、ふたりの様子を動画に収めている自分を、ぼくは頭に思いうかべてみた。
絵梨花も動物は好きだから、せんべいをせがむシカにとり囲まれたら、春希といっしょになってはしゃぐだろう。
そんな様子を撮った写真や動画を、春希と絵梨花が、それぞれのアカウントから投稿する。
春希も絵梨花もインスタは鍵垢なので、それらの投稿をぼくは直接見ることはできないけれども、そんな様子を目にする友人たちには、ふたりはさぞかし魅力的に見えるのではなかろうか。実の娘と親友の娘のふたりへの、ぼくの身びいきを差し引いたとしても。……
「お待たせ」と、春希の声がした。
「さっきの動画?」ぼくのアイフォンの画面をのぞき込んで、
「また見てるの?」
宿の浴衣を着て髪をバスタオルで巻いている春希は、ぼくの気持ちを見透かしてでもいるかのように笑った。
「シカに対抗して、羊巻きか」
湯上りの春希の姿は、さっきまでの夢想からぼくを現実に引き戻した。
今日はこのあと、この宿で過ごすことになる。
和歌子が算段をたててくれたことが待っている。
にしてもまだ昼まえだ。昼食のまえに、自分も湯にはいって、気持ちをあたためておこうか。あとのことは、それからだ。
「ぼくもひと風呂あびてこようかな」
「あがってきたら、おじさまも浴衣着てよ。タオルもまいてあげる」
「いいね」
「記念に、写真撮ろうよ」
「かまわないけど、ぼくといっしょに写るのはどうかな」
「ママに見せたら喜ぶよ」
冗談じゃないと、ぼくはかぶりをふって、
「和歌子さん、ママに訴えられたら、ぼくは職を失う」
春希が笑った。
「奥様や絵梨花ちゃんになら、いい?」
「『キモい』の一言で片づけられる」
父親の威厳が失墜してしまう。そんなものがあるなら、の話だが。


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