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音信(一二一)

「花の季節は終わってしまったね」と和歌子が言った。
「もっとはやくに、あなたに渡していれば」
ぼくはかぶりをふって、
「二通目の手紙は、きみもさっきはじめて読んだんだ。銀木犀のことが書かれていたことは知らなかったんだから」
「愛衣ちゃんから送られてきたのは七月の終わりだった。あのときすぐに、あなたに渡せばよかった」
「『廢市』をここに置いたのは、手紙が届いたあと?」
和歌子はうなずいて、
「春希の本の整理を手伝いにあなたがここへ来てくれた日の朝」
ぼくは最初、『廢市』は町田の本だと思っていた。本の処分に立ちあうために、春希といっしょにこの部屋へやってくることになるぼくの目につくように、わざと置いたのだと。
町田と電話で話してから、本を置いたのは町田ではなく、和歌子だったとぼくは考えをあらためたのだが、和歌子がぼくの目にとまるように『廢市』を置いたのは盆が終わるまえだった。ぼくに宛てた手紙が愛衣から送られてきて間なしに、和歌子はそれをぼくに渡そうと算段していたわけだ。和歌子は自分を責める言い方をしたが、和歌子のサインに気づいたぼくのほうこそ「もっとはやくに」行動すべきだったのだ。
「長く来てなかったからね。あなたが来るまえに、片付けしにきたの」
春希が最初にここへぼくを呼びつけたときのことをぼくは思いだした。和歌子の言うように、部屋は整然と片付いていた。ぼくや春希に、見せたくないものもあっただろう。そして和歌子は、ぼくの写真を挟みこんだ『廢市』を棚に置いた。
それをぼくが目にして持ち帰ったあとで、ふたたび春希に呼ばれて、ぼくはこの部屋でレコードを聴いた。
その日は、カウンターキッチンのテーブルの花瓶に、花のついた銀木犀の枝が挿してあった。庭に咲いているのを和歌子が切って持ってきたのだと春希は言っていた。
「今年はこの部屋で、きみが花瓶に挿してくれていた花を見られたから」
とぼくは言った。その花の香りをなつかしく思いながら、ぼくは和歌子が持ってきた豆で春希が淹れてくれたコーヒーを飲んだのだ。
「銀木犀は来年もまた咲く」
春希が買った松田聖子のアルバムも、葵の思い出を誘った。
「熱が出なければ、あの夜、あなたに連絡するつもりでいたのよ」
「あのとききみは、写真のことを電話で春ちゃんにうわごとのように言っていたらしい」
和歌子がコロナの陽性になった知らせで不安になった春希が、ぼくに電話をかけてきた。そのときに、そう聞かされたとぼくは言った。
「熱にうなされていても、ぼくに連絡をとろうとしてくれてたんだよね」
「よく覚えてないんだけど」と和歌子が言った。
「ここでわたしが死んでしまったら、永久にあなたに話せないって思っていたんだと思う」
 
春希といっしょに、ぼくは早朝の街を歩いた。石張り舗装の歩道を春希が引くキャリーバッグの音を、まだ明けきらない街を駅へ向かう勤め人たちの足音が追い越していく。
「寒いよう」
鈍色の冬空を、春希は見あげた。キャリーバーにかけた掌を覆っている白いボアのミトンとおなじ色の息を吐き、これもまた白いニット帽をかぶっている。春に生まれた春希は、寒いのが苦手なのだろう。
「朝はやくから、ごめんよ」
「朝はやいのは別にいいんだけど、今朝はほんと寒い。今夜あたり、雪になるかもしれないって」
クリスマスの明けた月曜日の街は、はやくも正月モードに切り替わっている。
晴香が以前勤めていたデパートの、開店前の入り口には門松が飾られ、新年を迎える準備がすすめられている。店内の棚には福袋が積まれているのが見える。
改札に向かう道の途中に、島本さんとはいった居酒屋があった。『準備中』の札がかけられていた。
この店でビールでも飲まないかと、ぼくは春希に言った。
「まだ開いてないよ。開いてたとしても、新幹線に間に合わないじゃん。コンビニで買ってくから、がまんして」
「帰りに時間があれば、だよ」とぼくは笑った。
「なつかしいな。何年か前に、ここで飲んだことがあるんだ」
「だれと?」
「島本さん、っていう、葵の友達」
ぼくは春希に、島本さんとぼくが再会したいきさつをかいつまんで説明した。
あの夜はクリスマス前の日曜日だった。
島本さんは最初はビールを飲んでいたが、三分の二ほど飲んだあとで甘いものがほしいと言ったので、そのあとはぼくが注文したカシスオレンジを飲みながら、葵のことをつづけて話してくれた。店にはオールディーズのクリスマスソングが流れていた。
「それ以来、会ってない。元気にしてるかな」
ちょうどのぼってきた朝の光のなかで、春希がぼくを夢から覚めたばかりの起きがけのような瞳で見返してきた。

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