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音信(一二六)

湯からあがって、脱衣場の大きな姿見の前に立った。両手で浴衣の袖を持ち、左右に引いて裄の長さをそろえた。背縫いを合わせてから、すこしゆるめに帯を回した。
結び目を整えると、力を入れて腹をひっこめ、時計回りにまわした。
身体が火照っているので、半纏は羽織らずに部屋に戻った。
「もうあがったの? カラスだね」と春希が言った。
「長くつかるとのぼせる。泊まりだから、何度もはいれるからな」
「ご飯まえだけど、ビール飲む?」
春希は自分のアイフォンを座卓に置くと、立ってきて、ぼくが片手に抱えてきた半纏を手にとった。
それを衣紋掛けにつるしてから、冷蔵庫から瓶ビールとグラスを出してきた。
「ありがとう」
春希が座っていた座椅子の、はす交いに座った。ぼくは瓶の栓を抜くと、春希のグラスから注いだ。
麦わら色の液体が注がれるのに合わせて、春希が冷やしてくれていたグラスの曇りが透明に変わった。
春希がうまく泡をたてて、ぼくのグラスにもビールを注ぎ返した。無言で乾杯を交わし、グラスの三分の一くらいを一気に飲みほした。
湯上りの胃に、よく冷えたビールは心地よかった。
春希も一口飲んでグラスを座卓に置いてから、ぼくの帯の結び目を指さして、
「ちょう結びじゃないんだね」
晴香と結婚してしばらくふたりで稽古に通っていたぼくは、自分で着物を着て帯を締めるくらいのことはできるようになっていた。角帯を十文字に最後に締めたのは、いつだったろう。絵梨花がまだ小学校へあがるまえ、風炉の中置の季節に茶会に招かれた。同僚の娘が点前をした。あのとき以来だ。
「これは貝の口」
「適当にしてない感じでかっこいい」と春希が言った。
このあとのことを考えると、浴衣姿なのは気がひけたが、旅館のもてなしを客として堪能しているのだから、かまやしないだろう。
「カジュアルな結び方だけど、普段着や浴衣には、この結び方が相応なんだ」とぼくは言った。
「わたしも結んでほしいな」
ぼくはちょっと考えて、
「もっとはなやかな結び方がいい。ぼくは女帯を結んだことがないから、昼ごはんのときに、仲居さんがきたら訊いてみよう」
「そうだね。じゃ、そのまえに、タオル巻こう」
春希はアイフォンの画面をタッチした。
「見て」
「なんだこりゃ」
写真のモデルの後ろ姿の頭に、白いタオルがぐるぐると巻きあげられている。
「韓国サウナ女子のアンモナイト。貝の口だと、かぶってしまうけど」
「二枚貝と巻貝の違いはあるけどな」
「だよね。でもせっかくだから、もっときりっとしたのにしてあげる。浴衣姿に似合うようなのに」
「たのんだよ」ぼくはため息をついた。
 
―宿が決まったよ
春希からのLINEを見て、ぼくはおどろいた。
―ママが予約した『みね屋』ってとこ
すぐに和歌子に電話をかけた。
午後の空き時間だった。和歌子は電話に出なかった。
何度かかけ直してみたが、同じだった。授業が始まる時間がきたのであきらめた。
放課後は、次の授業から必要になる数種類のワークシートの印刷と、期限のせまっていた事務処理に追われた。
区切りがついたころに退勤時間となった。パソコンの電源を落とすと、あわてて帰り支度をし、退勤処理を済ませ、早々に門を出た。
五時を過ぎたばかりでも、日が落ちた外は暗かった。
バス停へ向かう道を歩きながら、和歌子にかけた履歴の画面を、凍える指先でタップした。
「もしもし」
「ごめんなさい。着信があったのは気づいてたんだけど。仕事が終わるまで待つつもりだった」
「宿を予約してくれたんだね」
春希のLINEにおどろいて電話をかけたとき、すぐに和歌子が電話に出ていたなら、どうして「みね屋」なのかと問いつめていたかもしれなかった。いまは時間を置いたことで、ぼくの気持ちはややおさまっていた。電話口でまくし立てるようなことはしなかった。
「春ちゃんから連絡がきてたよ。ありがとう」とぼくは言った。
和歌子は、葵の話を旅館のおかみにメールで伝えた、と言った。
「わたしじゃなくて、あなたが訪ねていくこともね」
表情が見えないので、和歌子の感情が読めなかった。
「ぼくのことも? なんて伝えた?」
「わたしの友人がお伺いします。友人はそちらの宿にいらした『秋ちゃん』という方にご縁のあった佐々木葵さんの、かつての恋人でした。つい最近まで、葵さんが亡くなったことを友人は知りませんでした。友人のことが心配ですが、わたしは一緒には行けません。かわりに、友人がよく可愛がってくれているわたしの娘を同伴させます。娘も友人を慕っています。娘は事情を知りません」
「ストレートだな」とぼくは口にしたが、内心は和歌子の文章の要約技術に感心していた。
「おかみ、っていうのは、秋ちゃん、なのか? 葵の幼なじみの?」
「『峰山秋菜』さん。帰ってきたメールに、署名がしてあった」
すこし間があった。
「おどろかせてごめんなさい」
「いや。いいんだ、結果オーライだから。相変わらずきみは大胆だな」
「誠意を伝えるためにはあらっぽさも必要」
「誠意? 誠意ってなんだ?」
「嘘は言わない。隠しごともしない。葵さんの過去に会いに行くあなたに、いちばん必要なことよ」
葵と知り合ったいきさつも、自分との関係も、ひととおり伝えた、と和歌子は言った。
「ありがとう」
ぼくは和歌子に、心から礼を言った。
言ってから、ぼくは思った。和歌子はわざと時間をおいて、ぼくの気持ちが落ち着くのを待ってくれていたのではないか。
『着信があったのは気づいていた』
『仕事が終わるまで待つつもりだった』
和歌子もぼくに、嘘は言っていない。
扉が閉まります、というアナウンスが聞こえた。
目の前のバス停にとまったバスが、エアサスを持ちあげて車高を戻し、扉を閉めて発車していくのを、ぼくは見るともなしに見送った。
和歌子が言った。
「いつか言ったように、今度はわたしが、湯浅さんを助けるの」
和歌子の声を聞きながら思った。自分ひとりでは、たぶんぼくはなにもできやしない。
「ほんとうに、ありがとう」
ぼくはもう一度、和歌子に礼を言った。


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