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音信(一三一)

和歌子の言葉の意味を理解しようと、ぼくは頭をひねってみた。
ぼくは和歌子に、春希は「春ネエ」と呼んで絵梨花が慕っている姉というよりも、子をあやしている母親みたいだったと言った。
「春ちゃんの母性の部分にふれた思いで、感じいっていたんだけどな。実際、娘はそういうのを期待して春ちゃんを頼ってきたんだと思うんだけど」
「絵梨花ちゃんはそうかもしれない。でも、春希はそれがすべてじゃないわ。あなたが春希をそんなふうに思ってくれているのはうれしいけれど」
しばらく間をおいてから、和歌子は続けた。
「この旅行にあなたに同行してきた春希の気持ちを想像してみて。あなたとふたりで朝まで過ごす計画は、絵梨花ちゃんのおかげでかなわなくなった。絵梨花ちゃんをひとりにして、春希があなたと同じ部屋で寝る。それはもうできない」
さっき自分も考えていたことを、ぼくはまた頭の中で再整理してみた。
ぼくと絵梨花と春希とで、ふたつの部屋をどう使ったものか。
三人がそれぞれ個室ならなんら問題はないが、いまから追加の部屋はとれないだろう。
ぼくが娘の絵梨花と同室になって、春希が別の部屋で寝る。もしくは、三人が同じ部屋でいっしょに過ごす。普通に考えれば、このどちらかがまっとうな選択になるにはちがいない。
絵梨花はしかし、いずれも承知しないだろう。友達に裏切られたと思い、自分が厄介者の扱いを受けているように感じて、「春ネエ」を頼ってきたのだ。
けれども和歌子は、絵梨花とふたりで寝ることを望んだのは春希のほうだとぼくに言った。
「春希は絵梨花ちゃんとふたりで寝ることを自分の意思で選んだの。絵梨花ちゃんもそれを望んでいたとしても、先に提案したのは春希」
絵梨花を連れて戻ってきたとき、「絵梨花ちゃん、わたしの部屋へ行こ」と春希が言っていたことを、ぼくは思い出した。
「絵梨花ちゃんがそれを望むだろうことを、春希は、最初から見越していたのよ」
「それはどうかな」
そう返しながら、言葉とはうらはらに、ぼくには和歌子の言っていることの合点がいっていた。
ぼくが自分の娘と同室になって、春希が別の部屋で寝るのは自然なことかもしれない。けれども、春希としてはそれがいちばん許せないことだったのだと、和歌子は言おうとしているのだ。
「それはそうと、絵梨花ちゃんには」と和歌子は続けた。「あなたと春希がふたりで旅行していることをどう説明したの?」
「春ちゃんが機転を利かして、うまく言い訳してくれたんだ」
ロビーで顔を合わせたときに、絵梨花は言った。
「なんで春ネエとお父さんが、いっしょにいるの?」
絵梨花の表情には感嘆符と疑問符とが交互にあらわれていた。春希は絵梨花を部屋に連れてはいると、次のように話した。この旅行は父親の町田がぼくとふたりで来るはずだったのだが、町田のゼミの学生がコロナにかかってしまった。濃厚接触者となった町田は自宅待機をしなくてはならなくなった。和歌子から頼まれて神戸にいる父親に差し入れを届けにいった春希は、その帰りに奈良まで足をのばし、予定通り泊まりに来ていたぼくに詫びと報告をしにきた。
「だまっててごめんね。絵梨花ちゃんが連絡くれたときに、お父さんが同じ旅館にいることを先に伝えたら、絵梨花ちゃん、来にくくなるかもしれない。そう思ってだまってたの、って言っといた。絵梨花ちゃん、たぶん納得したと思うよ」
絵梨花が部屋のシャワーを使っているあいだに、春希がこっそりぼくの部屋へきて、口裏を合わせてほしいと言った。
「ぼくとパパとふたりで泊まるのに、ふた部屋あるのは不自然じゃないか」とぼくは言った。
「もしそう訊かれたら、そのへんは、パパとおじさまに事情があったんじゃない、って説明しとく」
「なんだ、事情って?」
「大人の事情。そこ、つっこまなくていいから」
ぼくのなかに春希に抗議したくなる気持ちがおこったが、いまはそれどころではないと、それ以上はなにも言わずに飲みこんだ。
話を聞いていた和歌子が笑いだしたので、
「笑い話じゃないんだけどな」
和歌子をかるく非難するつもりでそう言ったあと、ぼくは話を続けて、
「春ちゃんの作り話を娘は信じたみたいだ。春ちゃんは娘を駅まで迎えに行くまえ、ぼくが眠っているあいだに、自分の荷物も着替えもすっかり全部その部屋へ移動させて、最初からその部屋にチェックインしていたように装った。部屋がふたつあることにも、娘はなにも言わなかった。疑問には思っていたのかもしれないけれど、なにも言わなかったから、春ちゃんもあえてふれなかった」
絵梨花はしかし、ぼくを責めた。絵梨花が友人たちとUSJに来ていたことを、そのときまでぼくが知らなかったからだ。
「晴香から事前にきていたLINEをぼくは見ていなかった。クリスマス・イブから今夜まで、絵梨花が大阪に学校の友達と泊まっているから、なにかあったらお願い、って」
旅行へきている娘のことを気にかけないでいることよりも、ぼくがまだ晴香のLINEを見ていないことに腹を立てていたのだ。そのことで絵梨花が愚痴っていたと、春希はこれも事前にぼくに耳打ちしてくれてはいたのだが、絵梨花の予想以上の剣幕に、ぼくはうろたえてしまった。弁解のしようがなかった。
「いまふたりはどうしてるの?」と和歌子は言った。
「春ちゃんは、ひとりで湯に浸かりにいってる。ぼくもこれからいくところだ」
夕飯のあとで、自分はいかない、シャワーですませる、と言った絵梨花に、せっかくなんだから大きな湯船に浸かれよ、とぼくが言うと、
「だから、いいんだって。わたしにかまわないで」
絵梨花がまたぼくをにらんで言った。またしてもぼくは余計なことを言って絵梨花の機嫌をそこねてしまったことに気づいたが、
「じゃ、またあとで。おじさまの部屋に集合」
ぼくと絵梨花のやりとりをいなそうとしている春希の明るい声に、ぼくはすくわれた気がしたが、絵梨花は続けて、
「言っておくけど、わたしは春ネエに頼んで一緒に泊めてもらってるんだよ」
春希の笑顔が凍り付いた。
「お父さんに会いにきたんじゃない。勘違いしないで。お父さんがいるのを最初に聞いてたら、来てなかった」
表情の固まってしまった春希に気づいて、絵梨花は、
「べつに春ネエを責めてるわけじゃないんだよ。ごめん」
春希がかぶりをふってみせると、絵梨花のけわしかった表情がトーンダウンした。春希もいつもの明るい表情にもどって、
「部屋に帰ろ」と言った。
絵梨花は黙ってうなずくと、ぼくに背を向けて、春希についていった。

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