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音信(一二四)

おじぎをしながら寄ってくるシカに囲まれて、春希がはしゃいだ。
ぼくは春希に請われるままに、シカせんべいをやっている様子を動画で撮っていたのだが、
「春ちゃん、うしろ」
角の生えたシカが、春希のスカートの裾に鼻先を近づけた。春希は白い息を吐きながら悲鳴をあげ、ぼくのところへ走りよってくると、
「もうないよ」と、両手を広げてみせたが、シカは春希の上着のポケットのうえからはみ出したせんべいの束にかみつこうとした。
「出し惜しみするから、怒ってるんだ」とぼくは笑って、
「ほら。はやくおくれ、って。おじぎしてるよ」
「わかった。わかった。わかったから。ちょっと待って。そんな一斉に、こないで。マフラーを引っ張らないでよ」
十二月の朝陽がクロマツの枝を照らし、枯れ色の芝生にあわい影を落としていた。
「いつまでも撮ってないで、はやく助けて」
春希を囲むシカの息も白かった。
ぼくは笑って、アイフォンをポケットにしまうと、シカの気を春希からそらすように、自分が持っていたせんべいの巻紙をほどいて見せた。
 
地図アプリの案内に従って、水苔で黒ずんだ石垣の続く坂道を歩いた。
ぎりぎりクルマが行き違えるくらいの道幅で、アスファルトの舗道のところどころがひび割れているのを、ぼくは見るともなしに見ながら、歩をすすめた。
「みね屋」の看板が目にとまった。
ぼくは一瞬、足をとめた。アプリを閉じて、しばらく看板の文字を遠目に見つめたあと、ものおじしてしまいそうな気持ちを落ち着かせるつもりで、ひと息ついてから、また歩をすすめた。
「ここだね」
門のところで振り返ってぼくを待っていた春希は、自分のキャリーバックをぼくに託すと、先に立って玄関へはいっていった。
春希の後姿をぼんやりと見ながら、自動ドアが閉まる寸前に、かろうじてぼくは一歩を踏み出した。
「みね屋」の看板が目についたときに、自分が知覚している感覚のいくぶんかが身体から欠けてしまったようだった。
春希がチェックインの手続きをしているあいだ、ぼくはざわついている気持ちを自制するようにつとめた。
フロントで受け答えをしている春希の声を、ぼくは風邪で自室に寝込んでいる昼間に、居間のほうから聞こえてくるテレビの音声のような感じで聞いた。
「みね屋」の予約は、和歌子がいれた。
昔からぼくは、なにかを予約したりするときの事務的な手続きが苦手だった。旅行の宿の手配などは、わずらわしいのでいつも晴香にまかせていた。
「春希を連れていって」と言った和歌子は、そんなぼくの性格を知っていて、ぼくらが泊るときの実際的な手続きも、事前に春希によく言い聞かせてくれていたのだ。
「お荷物をお預かりいたします」
慣れた手つきで、三十代後半くらいの男性アテンダントが春希のキャリーケースをぼくの手から受けとった。
「ご案内いたします」
アテンダントが笑顔でぼくに言った。春希も微笑して、先に立って歩きはじめた。
 
「さっきの仲居さん、春ちゃんのことを、お嬢さま、って呼んでたね」
とぼくは言った。
部屋に挨拶にきていた仲居に、朝は早く発ったのかと訊かれた。うわの空で受け答えをしているぼくに代わって、春希が気をきかせて、ゆうべはよく眠れなかったと言った。そのあとで仲居が、
「お嬢さまはお若いから、平気でしょう」と言ったのだ。
「『お嬢さま』じゃん。なんか、文句ある?」
ぼくはかぶりをふって、
「『お嬢さま』の連れのぼくのことを、仲居さんがどう思ってるのかと、気になったんだ」
春希はちょっと考える顔をしていたが、ぼくの言っている意味を理解したらしく、
「仲居さんはチェックインの書類を見てたわけじゃないから、親子だと思ってるよ」と言った。
「チェックインのときは、『町田春希様とお連れ様でございますね』って確認されたよ。ママが予約したとおりに本名で書いた」
仲居のいるまえでは、春希もぼくを「おじさま」とは呼ばなかった。
「ぼくの名前も?」
「湯浅直樹」
と春希は言って、
「大丈夫。愛人には見えないって」と笑った。
「つぎに仲居さんがきたら、パパ、って呼んでみてもいい?」
「だめだ」
「だったら、絵梨花ちゃんみたいに、お父さん」
「やめてくれ」
「先生、ならいい?」
「勘弁してくれ」

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