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音信(一二七)

昼食の膳を運んできた仲居に、この子の帯を結んでやってもらえないかとぼくは言った。
「女帯は結んだことがなくてね。浴衣姿に似合う、はなやかなのがいい」
四十をすこし過ぎていると思われる仲居は、ぼくの貝の口をちらっと見たあとで、春希が着けている、ぼくが結んだのと色違いの縞の袋帯を、きれいに手入れされた眉を寄せ気味にしばらく見ていたが、
「お待ちください」
そう言って、部屋から下がっていった。
しばらくして、表裏の色がちがう色どり帯を、春希のためにさがしていくつか持ってきてくれた。
春希は目を輝かして喜んだ。細めた瞳に、興奮の色が見えた。
春希が選んだのは蘇芳香すおうこうで、表の蘇芳は春希のグロスやネイルと同系色だ。
暗い赤は単色では妖しい印象だが、帯の端から見えている黄がアクセントとなって、若い春希によく似合っていた。
「ほら、見て」
宿の定番の紺のたてかん柄に派手すぎる感じでもなく、身体のまえでやや右寄りにずらし、散らし整えた羽がはなやかだった。森の奥の霜におおわれた岩のかげでしずかに越冬する蝶をぼくは連想した。
立ち姿でくるっと回ってみせた春希の後ろ衿の抜きが、若い娘に映える程度のあだっぽさなのにも感心させられた。
ぼくにむけて微笑していた仲居は、敷居のまえに美しい姿勢で座り直すと、膝の前で指先を畳につけて、
「それではごゆっくり」
「ありがとうございます」
そう言った春希に、おだやかな笑みを返して退出していった。
和歌子が事前に話を伝えてくれていたおかげで、面倒な説明やなんかを省くことができると、宿を訪ねるまえからすこし気が楽になっていたぼくは、泊まる部屋が春希とふたりで一室だったのがわかったときにもさして驚かなかった。ぼく自身の中で、ぼくや春希に対する和歌子の思いが、よく理解できていたからだ。
それでも、ぼくをからかういつもの調子で、仲居のいるときに、「パパ」や「お父さん」とぼくを呼ぶのではと、自分の体裁を気にしてやきもきしたが、帯に夢中だった春希は、よけいなことは言わずに、すなおに仲居に身を任せていた。
いまも部屋を出ていく仲居に、感謝の気持ちを自然な言葉で口にした。
心づけを渡しそびれたことが一瞬ぼくの頭によぎった。すぐに、春希の「ありがとうございます」と笑顔にまさるものはないだろうと、思いなおした。
「こんなにしてもらえた。めっちゃうれしい」
春希はまたすなおにそう言った。
「わたしひとりなら、ここまでしてもらえてなかったよ」
「そんなことはないと思うよ」
春希の明るい素直さが、春希と関わるひとをやさしくするのは、いまに始まったことではない。
胸の下の蝶を見下ろしていた春希は、視線をぼくに向けると、
「おじさまのおかげだよ。ありがとう」
「ママにも感謝しないとな」
『どうして?』というような表情で、春希が首をかしげてぼくを見返した。
ぼくはそれには答えずに、
「箸をつけるまえに、写真を撮ろう。ママに見せてあげないと。パパにも」
春希は自分のアイフォンを手に取ると、カメラを起動してから、ぼくに手渡した。湯上りの二の腕が、ほのかに赤かった。


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