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音信(一二八)

「春ネエ―」
絵梨花の声が聞こえた。
ぼくには聞き取れない流ちょうな英語で、春希がだれかと電話で話している。
「なにしてるのォ?」
春希はぼくに目配せをして、絵梨花のいる階上うえ を指さして見せたあと、視線を落として、また話を続けた。
すぐにあがる、という意味だと解したぼくは、リビングを出ると、階段をのぼって絵梨花の部屋の前まで来て、「電話してる。すぐ来るってさ」
春希が話しているのはだれだろうと思っているぼくは、銀木犀の香りがここまで伝わってきているのを感じた。
はて? とぼくは思った。いまはもう花の季節ではないのに。
「冷めちゃうよ」
花で香り付けをした茶だったのかと、ぼくは納得がいった。晴香が、ふたりのために淹れたのだろう。
こんなに強い香りなのかと、ぼくはおどろいた。部屋の外にまで届くものなのか。
それにしても。
なんでまた銀木犀なんだ? いぶかしむ気持ちが頭をもたげた。
「春ネエ―」
絵梨花がまた、春希を呼んだ。
扉の外でかけたぼくの声が届かなかったのかと、腹を立て、どなりかけたとき、
「はいはい、ごめ―ん」と、階段をあがってくる春希が絵梨花に応えた。
ぼくの表情に気づいたのか、春希はまたしても目配せをしながら、グロスで光った唇に人差し指を当てて、ぼくを制した。
そのときぼくの頭に、和歌子の部屋に活けてあった銀木犀の花がうかんできた。
それはしかし、頭にうかんだのではなく、現実のものとして目の前にあるのをぼくは知覚した。
さっきの茶よりもさらに強い花の香りが、ぼくの鼻先をかすめた。
いまぼくは、なぜだかわからないが、和歌子の部屋にいるのだ。
カウンターキッチンに置かれた花瓶に挿した枝から、星形の花が、ぼくのすわっているテーブルの上にいくつかこぼれて落ちている。
ダイニングの続きの部屋には、和歌子と葵がいた。
和歌子と葵は、生まれたばかりのそれぞれの子を抱いて、なにかを話している。
ふたりの声は、ぼくの耳には聞こえてこない。
ぼくはそれを、不思議には感じなかった。
ふたりの腕の中にいる佑樹と愛衣は眠っているようだ。
ぼくは声をかけて、自分がここにいるのをふたりに知らせたいような気持ちになった。
赤子ふたりの目を覚まさせないように、ちいさな声で。
そして、ふたりのうちのどちらに先に声をかけたものかと、迷った。
……。
目を覚ますと、春希の姿が見えなかった。
「みね屋」の部屋の広縁の椅子に、ぼくは腰かけたまま、うたた寝をしていたのだ。
テーブルチェアのうえに、ミネラルウォーターのペットボトルが置いてあった。冷蔵庫にいれてあったのを、春希が出して置いてくれたのだろう。ビール以外の飲み物は、温めたものか常温でないとぼくは飲まない。
天然木の漆塗りの茶托にのった久谷の蓋椀が、対で置かれていた。
ぼくはペットボトルのキャップを回すと、片方の湯のみのふたを開けて注ぎ、口をつけた。
湯のみを持ったまま立ちあがったぼくは、すぐに部屋のなかのどこにも、春希の持ち物がないことに気づいた。
部屋の出入り口にちかいクロゼットをあけてみた。浴衣のはいっていたかごのなかに、ぼくのと色違いの縞の袋帯が置かれていた。春希が最初にしめていたのを、仲居がたたんで置いたのだろう。
仲居に着付けてもらった帯と浴衣はなかった。
春希はまだ浴衣着のままで、湯にはいりにでも行ったのだろうか。
しかし、クロゼットには、春希の服も、残っていなかった。
春希のキャリーバックも、靴もなかった。
ぼくは袂からアイフォンを取りだし、画面を開いた。
夕方の五時を過ぎていた。

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