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音信(一三三)

おかみの峰山秋菜が案内してくれた庭は、旅館の裏手だった。
客が出入りする玄関を出て、母屋のわきにある建屋の、スタッフが通ると思われる木戸をくぐると、奥の庭に向かう路地に出た。黒っぽい苔のうえに、今朝の白い雪が鹿の子まだらに残っていた。
「狭いところですけど、庭に直接おりてごらんになっていただくとよろしいわ」と秋菜は言った。
「今朝までお客さんがいらしたので、お帰りになってからご案内するつもりでした」
庭に面した障子は閉められていて、部屋の中の様子はこちらからは見えなかった。
「この部屋にお泊りいただければ、ゆうべすぐにでもご案内させていただけたのですが。町田和歌子様からご依頼をうけたまわりましたときには、あいにくこちらの部屋はもう予約がはいっておりましたもので。お待たせして、もうしわけございません」
「それはどうも」とぼくは言った。
「こちらこそ、ゆうべは突然にやってきた娘を急遽泊めていただいたりして」
庭を案内してもらうのがきのうでなくてよかったと、ぼくは思った。絵梨花が連絡してきたときとかち合っていたら面倒だった。
「ご無理を聞いていただいて助かりました」
「狭いところで、町田様のお嬢さんにはたいへんご不便をおかけいたしました」
「不便だなんて、そんな。ほんと感謝しています」
とぼくは言った。
ゆうべホームページで確認してみたら、最初に春希がぼくといた部屋は三人まで泊まれる部屋だった。
春希がフロントでどういうやりとりをしたのかはわからないが、ぼくとふたり一室で最初にチェックインしたときに、この部屋になった。
絵梨花が来て、春希はもう一方の部屋へ移った。
絵梨花も春希と同じ部屋に泊った。ぼくはふたりの部屋にはいっていないから、自分の目で見て確認したわけではないが、ホームページではその部屋は一名ないし二名となっていた。狭いというわけではないのだろうが、ぼくがひとりで泊まった部屋のほうが広いのだから、秋菜は暗にそのことを言っているのかもしれないと思った。
「仲居さんにもお世話になりました。礼も言わずに、朝はやく娘は立っていきました」
「フロントの者から、言付かっております」
と秋菜は微笑して言った。耳のうえでうしろになでつけた黒い鬢に向かって、笹の葉のように描かれた眉が目尻まで美しくのびていた。
「雪が散らついておりましたので、駅までタクシーをお呼びしますかと申しあげたら、ていねいにお断りになられたそうで。公園を歩いて、シカを見ながら帰りたいからと。お父さまをよろしくと、おっしゃってらしたそうですよ」
だまってぼくのあとを付いてきていた春希が、笑いをこらえているのにぼくは気づいて、
「なにがおかしい」とぼくが問うと、
「ゆうべも、絵梨花ちゃんがわたしに、おなじことを言ってたのを思い出したから」
春希は秋菜に、
「『お父さんをよろしく』って言って、部屋に先に帰ってしまって。仕方なしに、寝落ちしたおじさまを、わたしが布団まで引っ張っていったんです」
「そうだったんですね」
春希と、春希が「おじさま」と呼んだぼくに、秋菜は交互に微笑んでみせた。秋菜はあらかじめ和歌子から事情を聞かされていて、ぼくと春希の関係を知っている。
「湯浅様のお嬢さまとは、おふたりでたのしく過ごしていただけましたか?」
「おかげさまで。ふたりで抱き合って寝ました」
「おじさまはおひとりで、さびしかったでしょうね」
秋菜も春希をまねて、ぼくを「おじさま」と言った。
ぼくを寝床へ移動させるのを春希にたのんで、さきに部屋へ戻った絵梨花のことが想像された。いっしょに寝ようと誘ったのは、絵梨花か春希か。ふたつならべた布団の、どちらにいっしょに寝たのだろう。
「娘さん同士で同じ床に泊まるのは楽しいですものね」
と秋菜も言った。
「ぜひまた、今度はゆっくり、おふたりでいらしてください」
ぼくは秋菜と葵のことを思った。秋菜も泊まりにきた葵と布団をならべて過ごしたかもしれない。かつて少女だったふたりのことを、ぼくは想像してみた。

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