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<旅行記・エッセイ>『スワーブを切れたけど―海外都市の顔―』から、アカバとマントンの項目を抜粋して紹介

 私は、1987年から2023年までの間、仕事と観光で世界の多くの都市や地域を訪問しました。その時の印象をエッセイにしたのが『スワーブを切れたけど―海外都市の顔―』です。25の都市または地域について、それらの一般的な紹介と私が訪ねたあるいは住んだときの出来事や記憶、そしてそれらから想起したあれこれをエッセイにしています。全部で58,000字の長文になるため、いきなりnoteに掲載するには長期にわたる連載になることもあり、遠慮させてもらいました。

 しかし、苦労の末完成させたので、その中から自分で「これは意外とみんな知らないかもね?」「良く書けてるのじゃない?」と思った項目を二つばかり紹介させていただきます。それは、ヨルダン南部の港町アカバとフランス南部地中海沿岸にあるマントンであり、またマントンはラグビーとも少しばかり関係しています(また今年9月には、フランスでラグビーワールドカップが開催されます)。そして、せっかくだから少し画像を付けたので、文章から生まれるイメージの参考になれば幸いです。


(以下、出版関係の方々への自己宣伝です)


 もし『スワーブが切れたけど―海外都市の顔―』にご関心ある出版社があれば、コメント欄に記載をお願いします。なお、「スワーブ」の名を付けたもので、既に『スワーブが切れなくて―私の海外食い倒れ―』という、海外で味わった料理の記録をまとめたものを3回に分けてnoteに掲載済みです。もし、こちらにもご関心あれば、同様にコメント欄に記載願います。

 それから「スワーブシリーズ」の最初のものとして、私と息子の高校ラグビーを含めたラグビーとの関係や海外での体験等をまとめた『スワーブを切りながら―私とラグビーとの長い旅―』というのがあります。これは、大学生時代からはじまり、2012年で終わっていますが、その続編として、2013年から2023年までのものを『続スワーブを切りながら(2021年から定年まで)』としてまとめています。

 この2作品には、全盛期の大学ラグビーの風景、高校ラグビー選手の父兄としての経験、世界の様々な場所でのローカルラグビー参加経験、1987年第1回からのラグビーワールドカップの歴史、世界の様々な出来事(911テロ、インド洋大津波、外務省奥克彦氏のイラクでの殺害事件、新型コロナウィルス感染等)と海外勤務した自分との関係など、いろいろと織り交ぜて書き込まれています。

 個人の歴史と世界の歴史とがラグビーを媒介にして交錯していく下り、あるいは高校ラグビー選手の父兄としての種々の葛藤や喜びなどは、読み物としても面白いと自負しております。一方、20世紀後半から21世紀にかけてのあるラグビー好きの記録として、歴史的な価値も少しはあるのかとも思います。

 つきましては、皆さまからの多くのご関心があることを期待しております。

(以下、「ヨルダン・アカバ」及び「フランス・マントン」の項目を抜粋します。項目番号は原文の掲載順。また都市名右の( )は滞在または訪問した年です。)

15.ヨルダン・アカバ(2016-19年)

 アカバは、アラブ世界が遠く感じる日本人には馴染み薄い場所だが、一方スキューバダイビングをする人たちにとっては、実は世界でも有数の名所だそうだ。実際、底がガラス張りになった船で海中を覗いてみると、紅海の強い日差しに照らされた海底の姿がよく見える。白い砂地、サンゴ礁、熱帯の魚たち、沈められた古い戦車、沈没した小舟などが鮮明に見えてくる。そして、有名なダイビングスポットの一つに「ジャパニーズガーデン」という場所がある。なぜこうした名前になったのかはよくわからないが、アラブの人達にとってサンゴ礁が織りなす極彩色の光景は、日本の浮世絵や着物をイメージさせるのではないかと、私は勝手に理解している。

 また別の見解もできるだろう。アラブの人たちは、ヨーロッパ人とは、ローマ帝国に始まり十字軍の時代を経て、長く深い確執と対立の歴史を持っている。さらに、東方のインド、北方のトルコやロシアとも長い戦いの歴史とそれにまつわる様々な因縁を持っている。しかし日本とは、距離が遠すぎてそうした戦いや因縁は起こりようがなかった。そうした土壌の上に、アラブと日本とのつながりが強くなったのは、高度経済成長期の日本がODAをばらまき、石油を大量に買い求めた時からだから、日本に対しては「石油を買ってくれて、さらに援助もしてくれる上客」という良いイメージしかない。そういう点では、理由はどうあれ、アラブ諸国は実は貴重な親日の国々であり、また日本を美化してくれる面があるため、美しい海底の景色を「ジャパニーズガーデン(日本庭園)」と名付けたのかもしれない。

 ところで、私にとってアカバという地名は、何よりもアラビアのローレンス(トーマス・エドワード・ローレンス。第一次世界戦の大英帝国陸軍中佐)が、対オスマントルコとの戦い(通称「アラブの反乱」)で、劣勢なアラブ軍を勝利に導いたアカバ占領作戦の舞台としてイメージされている。優れた軍略家あるいは勇敢な軍人としてよりも、アラブ文化を愛好する文学青年であったローレンスだが、このアカバ占領作戦は、オスマントルコ軍が海からの船舶による攻撃のみを想定していたのに対して、横断できるとは想像できない過酷な砂漠を越えた陸路から奇襲をしたことで有名だ。そして、この世界の戦史に記録されるほどの優れた作戦は、誰もが予想していない大成功を収めることとなった。映画『アラビアのローレンス』では、アラブ軍の進撃方向とはまったく正反対の、海側に向けて機関銃を構えているオスマントルコ兵の姿が、この歴史的かつ画期的な奇襲作戦を見事に表現する印象的なカットとなっている。

知恵の七柱(ローレンス自伝)

 そういうわけで私は、アカバの街を散策したときに、何かローレンスに関係したものが残っていないかと期待したのだが、それは残念ながらどこにも見つからなかった。しかし、タクシーの運転手が連れていってくれた、美しいアカバ湾と白壁の多いアカバの街を一望できる小高い丘からの眺めは、私には感慨深いものがあった。おそらくローレンスも、この丘からアカバ湾とアカバの街を眺めたのではないか。そして『アラビアのローレンス』の監督デイヴィット・リーンも同じように考えたのだろうか、この丘からの風景を映画に収めている。

 映画史上の傑作でもある『アラビアのローレンス』では、なんといっても疾走感と躍動感あふれるアカバ進撃のシーンが秀逸だが、他にもたくさんの名場面がある。その一つに、夕陽が落ちるアカバの海辺を、一人歩くローレンスの姿を捉えたシーンがある。ローレンスが、まるで少女のように波に流される花を追っているそこへ、ローレンスの不在を心配して来た、ローレンスの一番の盟友かつアラブの勇猛な部族長でもあるアリが、馬で近寄ってくる。二人の間には、逆光の夕陽が海に煌めき、花が波に漂っている。花を子供のように追うローレンスを見て、アリは軟弱だとなじる。しかしローレンスは、そんなことは気にせずに花を追い続ける。逆光に浮かぶ二人の姿と波のきらめきが印象的な、とても美しいシーンだ。

 そのローレンスが追っていた「花」は、アリが軟弱だとなじった花ではなかった。その花には「アラブ民族の自主独立と恒久平和」というイメージ込められていた。しかし、愚直な戦士であるアリは、そうした象徴を理解することはできなかった。オスマントルコに勝利したアラブが、ローレンスの理想とは正反対にひとつにまとまることができなかったという、この歴史と物語の結末を暗示させるイメージをリーンは上手く表現していた。

 私はアリのように安全を考えて、ローレンスを真似て夕闇の海辺に行くことはしなかった。その代わりに、ホテルの窓から沈む夕日と海辺をゆっくりと見ていた。すると海辺に、映画とまったく変わらぬアラブの衣装を着たローレンスの姿が、一瞬見えた気がした。いや、たぶんそこにローレンスはいたに違いない。なぜなら、海辺のあちこちには、映画の中のローレンスが追いかけ続けた、美しいアラブの花が沢山漂っていたからだ。

 だから、私はアカバについて、「美しい海と美しい花の街」と言いたい。そしてその花たちは、英雄ローレンスのような、数多くの過去の大詩人たちが残していった心の結晶なのだと信じている。

アカバの日没

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23.フランス・マントン(2020年)

 マントンは、ニースから路線バスで片道約二時間近くかかる場所にある。途中、カンヌ、モナコ、モンテカルロといった絢爛豪華な大金持ちの世界を通過する。しかし、私はそんな世界に興味も関心もないし、何よりも縁もゆかりもない。また無理してまで、大金持ちの真似をしたいとも思わない。そんなことは、別世界の住人だけで十分だ。そこに幸福感を感じることは、私にはない。

 私の向かった先のマントンは、大金持ちの世界とは関係ない、フランス南部地中海沿岸の小さな田舎町だ。しかし、ラグビー好きにとっては、1823年に最初にラグビーをプレーしたとされるラグビー校OBの、ウィリアム・ウェブ・エリス牧師の墓がある街として知られている。

 このエリス少年の伝説は、当時未だサッカーやラグビーに分岐していなかった原始フットボールが、英国のパブリックスクール毎のルールに分かれてプレーされていた時代を背景にしているが、実際にこの伝説を目撃したものは一人も確認されていない。なぜなら、サッカーに遅れて全国組織(ラグビー協会)を設立し、統一ルールを制定したラグビーユニオンは、サッカー人気に負けないための独自の神話を必要とした。そして、その経緯は不明だが、このような物語(神話)を作り上げたというのが最近の調査で判明している。

 しかし、神話であれ、あるいは伝説であれ、いったんそれを信じてしまえば、それは真実、または真実に近いものとして大衆は共有する。例えば宗教の普及に貢献した聖人が起こす奇跡は、その好い例だろう。だから、このラグビーの「エリス伝説」は、もはや多くの人が信じていることのみを根拠として、今は真実となっているといって良い(ただし、未だ「サッカーの試合中に違法なプレーである手を使った」という間違ったエピソードが蔓延しているが)と思う。

 実在のエリスは、ラグビー校を卒業した後、帝国主義経済の仕事を目指すことはせずに英国教会の牧師となり、晩年を南仏のマントンで暮らした。そのためこの地に埋葬されたのだが、これをラグビーユニオンが後年「発見」したとき、その「エリス伝説」の信憑性はさらに強化されることとなった。そして、このマントンにあるエリスの墓地は、エリス本人の意志とは無関係にラグビーの聖地となり、世界中からラグビー好きが参拝することになった。

 私は、グーグルマップをみながら、目指すエリスの墓地にバス停から歩いて向かったのだが、坂道が曲がりくねったわかり辛い場所だったため(おそらく中世の海賊の襲撃を避けるため、わざとこうした道にしたのだと思う)、何度も道に迷ってしまった。すると、坂を上る中世風の小さな煉瓦の道を昇っていくと、青い地中海を見下ろす美しい教会(サン・ミシェル・アルシャンジュ教会)に着いた。後でわかったのだが、その教会はマントンの観光地となっているもので、そこから地中海を長い時間見下ろしている中年夫婦が二組ほどいた。また、この他に観光客のグループが数人佇んでいるのが見えた。「マップだとすぐ近くまで来ている」と言う一緒に探していた私の妻は、ちょうど坂道を下りてきた地元の人に英語で、墓地の名前(ヴュー・シャトー)はどこかと訪ねたところ、すでに墓地のある丘の麓にいることを教えられた。

 私たちはそこから、丘を取り巻く螺旋上の坂道を昇って行った。左側には小さな民家とその先に地中海が見える。右側は墓地を形成する丘の斜面がコンクリートで補強された壁が続いている。その上には墓標らしいものが沢山立っているのが見えた。もうすぐだろうと思い、入口を探してさらに坂道を昇る。すると、そこに鉄格子の入口が見えた。ラグビーボールを抱えた等身大より少し小ぶりなエリス像もあった。「やっと来られたか!」という感慨とともに、もしかしたら閉まっていると困るなと思って、鉄格子の入口に近づくと、幸いに鍵は開いていた。たぶん、私たちのような観光客だけでなく、埋葬されている方の遺族が来るために、毎日係の人が開けているのだろう。エリスの墓地がなければ、そこはフランス南部田舎町のひなびた墓地でしかないのだから。

入口のエリス像

 しかし、ラグビーファンを意識したものが、鉄格子の入口の傍にはあった。2007年にフランスで開催されたラグビーワールドカップに参加した、各国代表キャプテンの手形とサインを象ったプレートが掲示されていたのだ。「ようやく着いた」と確信した私は、プレートの中のキャプテンの名をいくつか読んでみた。リッチー・マコウ(NZ)、アガスティン・ピチョット(アルゼンチン)、ジョン・スミット(南アフリカ)、スターリング・モートロック(オーストラリア)、ガレス・トーマス(ウェールズ)、ラファエル・イヴァネス(フランス)、ブライアン・オドリスコル(アイルランド)らに混じって、日本の箕内拓郎の名があるのを見つけて、ちょっと誇らしく感じた。

2007年ラグビーワールドカップのキャプテンたち

 私は、入口のエリス像に軽く会釈しつつ鉄格子の入口を通り抜け、墓の間にある小さな道を昇って行った。その砂利道の周囲にある立派な墓標の下には、それぞれ遺体が埋葬されていると思うと、なかなか心穏やかな気持ちにはなれない。ただ長い年月が過ぎているものが多いのか、あまり霊のパワーを感じることはなかったのは幸いだった。また皆安らかに眠っているのだろう。そうしたことを考えながら、「ラグビー好きにとっての文字通りの聖地を巡礼するためには、この道を歩かねばならない」と自らを勇気づけて、私は細く曲がりくねった砂利道をさらに昇って行った。そして、おおよそ10分程経った頃だろうか、もうこれから上に行く道はないなと思ったとき、頂上に近いところに目指すエリスの墓地はあった。そこからは、青い地中海が良く見えていた。

 エリスの墓地に一歩一歩と近づくにつれて、エリスの墓石の周りが低い鉄柵に囲まれているのが見えてきた。そしてその鉄柵の上下には、多くのラグビーファンが供えたラグビージャージやラグビーボールがあった。カラフルでデザインは様々なものがあるため、ずいぶんと賑やかな感じがする。そして、立派な墓石の片隅には、後でラグビーユニオンが作ったのだろう、エリスがラグビーというスポーツの創設者である旨を説明したレリーフがあった。私は、「エリス伝説」がそこに生き続けているのを確信した。そう、エリスは間違いなく、最初にラグビーをプレーしてくれたのだ、ありがとう、エリス。

エリスの墓地

 その時、私も何かラグビー関係のものをお供えしようかと思ったが、明らかに日本からのものと思われる品々が目に入ってきて、何かお供えしても「自分だけの特別感または優越感」が消えてしまうと考えたこともあり、敢えて何もしなかった。ただ写真だけを撮って満足し、(なんといっても人様の墓地でもあるので)長居せずに、そそくさと帰ることにした。もう二度と来ることはないだろうが、一目だけでも現物を見られたので、私はそれだけで充分だった。エリス墓地の滞在時間の長さで、その人のラグビー好きの強度が判定されるわけではないだろう。また、思い出は、実際の時間と空間とは異なる、人それぞれの時間と空間を持っているのだから。

 ヴュー・シャトーの墓地を下る帰り道、青く晴れた空と緑豊かな木々と小さく素朴な家並みの向こうに、冬の太陽にきらきらと輝く青くみずみずしい地中海が広く見渡せた。その時私は、エリスがなぜここを終生の地としたのかという理由が、少しわかったような気がした。もし伝説が本当なら、原始フットボールをプレーしている最中に、思わず手でボールを持って走り出した純粋な魂を持つ少年エリスは、そのまま純粋な魂を死ぬまで維持し続けたのだろう。そして、そうした魂が憩う場所として、ここマントンは十分に相応しいのだ。なんといっても、地中海の深い底には、サン・テグジュペリも安らかな眠りについているのだから。

 この時、ふと私はニースの海岸で会った少年のことを思い出して、少年が私に話しかけてきたことの本当の意味が、少しわかった気がした。少年は私に「羊の絵を描いてよ」と「星の王子様」のように尋ねたのではなかったのだ。きっと「おじさん、ラグビー好き?」と尋ねてきたのに違いない。もちろん、私は少年(もちろん、その少年はかつての少年エリスそのものだ)に、「ウィ、ビアンシュール(そう、もちろんそうだよ)」と微笑しつつ答えるべきだったのだ。

 こうしてマントンは、私にとって「星の王子様」のいる街となった。

マントンの街と地中海

 2024年4月4日、Amazonから電子書籍及びペーパーバックで発売しました。宜しくお願いします。

『スワーブはきれたけど―海外都市の顔ー』


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