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インドのナグプール(南天竜宮城)へ行った話

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話14 最終回

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話14 最終回

ナグプール滞在の後半、やっと佐々井師の仕事のお手伝い頼まれました。

仕事といいましても、佐々井師がお世話になっている日本人に対して出す便りを、佐々井師が口述して私がパソコンでタイピングするという作業でしたが。

3日か4日くらいはこの作業をしましたが、この作業中は私は佐々井師に付きっ切りで、時には休憩をはさみながら午前の遅い時間から夕方前くらいまでやっておりましたでしょうか。

佐々井師は当時長

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話13 (マンセル遺跡篇2)

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話13 (マンセル遺跡篇2)

久々の投稿になります。

前回は、インドはナグプール近郊にある「南天鉄塔」と目されているマンセル遺跡とはそもそもどういうものかについて書きました。

真言密教の経典が隠されていたという、かつて南インド(南天)に存在した鉄塔のことです。

佐々井上人が自力で探し当てた遺跡が、その南天鉄塔ではないかということですが、私は、佐々井上人と師のお弟子さんのTさんに、そのマンセル遺跡に連れて行ってもらいました

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話12 (マンセル遺跡篇)

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話12 (マンセル遺跡篇)

久々の投稿になります。 

ナグプール滞在中、私は佐々井秀麗師と弟子のTさんからマンセル遺跡に連れて行ってもらいました。

マンセル遺跡とは、佐々井秀麗師が発見した南天鉄塔の跡だと目される遺跡のことです。

では、「南天鉄塔」とは何でしょうか。

真言密教には、 「付法の八祖」と呼ばれる人(ほとけ!?)たちの名が伝わっております。

まず、密教の教主である「大日如来(だいにちにょらい)」が第一祖

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話11

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話11

佐々井秀嶺師とお会いできたのは、師の誕生日である2012年8月30日の前日とかそれくらいだったでしょうか、あまり覚えておりませんが、師は祝賀パーティ参加のためにナグプールに帰ってきたのでした。

初めてお会いしたのは、ゲストハウスの中でした。

ドキュメンタリー映画と書籍でしかしらないこの人のために私はここまで来たのでしたが、さすがにお会いできるとなると緊張します。

来て何がしたいでもなく、師に

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話10

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話10

さて、佐々井秀嶺師が帰ってくるまで、まだ時間がかかるとのことでした。

私は、朝はインドラ寺のお勤めに参加しましたが、ヒンドゥー語かパーリ語のお経を読んでいるので私にはまったくわかりません。

まわりの仏教徒の声をバックミュージックに瞑想をするのみでした。

お寺の壇上には、オレンジ色の袈裟を着た何人かの仏教僧がお勤めを先導している。

その中には、昨日の菩提・般若師もおり、彼だけは日本仏教の黒い

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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話9

インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話9

ナグプールの駅に着いたのは、2012年8月下旬のある日の午前の遅い時間だったと思います。

私は、前回の旅で出会った早稲田の学生のO君からもらっていた、佐々井秀嶺氏の拠点であるインドラ寺までの地図のデータを頼りに歩き出しましたが、いざ行こうとしてみると地図があまりに頼りなくて、歩いていくのは諦めました。

オートリクシャーを捕まえて、「インドラ!インドラ!」といってみたり、「ササイ・バンテージ!」

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話8(カルカッタ遍)

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話8(カルカッタ遍)

ミャンマーから帰ってきた私は、少しだけまたバンコクに滞在しました。

当時好きだった子が盆休みを使ってバンコクまで遊びに来てくれたので、当然インドなんか後回しです(笑)

今思うと、当時は自由人をそのまま描いたかのような生活をしていました。でも日本に戻るとその「自由」は絶対に続かないことを知っていました。

こんな贅沢な生活も金があってこそできるもので、日野自動車の工場で貯めに貯めたお金が、フィ

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話7(タイ遍3)

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話7(タイ遍3)

(※今回もほぼ、インド、ナグプールとは関係ありません。)

カンチャナブリからバンコクに戻り、インドのビザをうけとった私は、今度はミャンマー大使館でミャンマーのツーリストビザを取得しました。

確か2日くらいで、出来たと覚えています。

ビザが出来上がるのを待っている間は、カオサンロードに戻り、日本人宿「さくらゲストハウス」に宿をとりました。

ここは前から宿泊費は安いのは知っていましたが、ベッ

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話7(タイ遍2)

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話7(タイ遍2)

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ワット・スワンタワナーラームには5日程いたでしょうか。

中には私以外の日本人もおりまして、その方は名前は忘れましたが真言宗のお坊さんでした。

元警察官の方で、人助けをしていきたいという思いがずっとあったことから、警察を辞めて坊主になった人です。 

私のように半分旅行できているのではなく、数か月みっちり修行に来ている人でした。

アキさんは彼の事を

「ボディサットヴァ」

と呼ん

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話6(タイ遍)

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話6(タイ遍)

(続きから)

タイには結構長く居ました。

22歳のとき初めて旅した国がタイだったのもあり、タイはどんな外国よりも落ち着きます。

バンコクのカオサン通りという、バックパッカーの聖地(もう過去の話か!?)に宿をとり、私はひたすら本を読んだり酒を飲んだりして過ごし自堕落な生活をしておりました。 

日本にいた好きな女性を残していたこともあり、旅に持ってきていた「闘う仏教」という本に出てくる、佐々井

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 5

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 5

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2009年~2010年に決行した世界一周の旅では、私は佐々井秀嶺を訪ねることができなかったと書きました。

2010年10月頃に、約1年4か月にわたる世界一周の旅を終えた後は、まだそこそこの資金が余っていたこともあり、日本をスーパーカブで旅し、真冬の四国遍路を歩きました。

世界一周をした後も旅熱が続いていた私は、日本でこのまま働くのか、また旅に出るのか悶悶としており、日本で植えこまれ

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 4

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 4

続きから

私が佐々井秀嶺という人を知ったのは、2009年のこと。

当時、世界一周の旅をしていた私は、インドのチベット亡命政府が置かれているダラムサラという町で、O君という早稲田大学の学生と仲良くなりました。

私たちはよく「ルンタ」という日本食レストランに入り浸り、そこに置いてある仏教関連の本を読んだり、色んなことを語らいあっていたのでしたが、彼はあるときこう言うことをいうのです。

「タクさ

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 3

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 3

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佐々井秀嶺師は、龍樹(ナーガルジュナ)の夢告に従い、インドの最中央部、ナグプールまで赴きました。

ナグプールは佐々井師が来る12年前に、アンベードカルという不可触民(ダリット)出身の政治家が、数十万のダリットを引き連れてヒンドゥー教から仏教に改宗したところでした。

無論、佐々井師はそんなことは知る由もありませんし、アンベードカルのことも知りません。

英国からの独立運動、不服従で

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インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 2

インドのナグプール(南天竜宮城)に行った話 2

アンベードカル博士は1956年10月14日、ヒンドゥー教から仏教に、数十万のダリット(不可触民) たちとともに改宗しました。 

その集団改宗式が行われた場所がインド最中央部に位置する、ナーグプールです。

しかしアンベードカルはその2カ月後の12月に突然死去します。まさにこの世での指名を果たし終えたかのようなタイミングです。

ちなみにアンベードカル博士は、現在のインド憲法の草案を書いた人物でも

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