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最近、「何かが足りない」とモヤモヤする

「何かが足りない」「満たされていない」という感覚がどこかに残り続けている。これまでも、心がスッキリしていると感じることの方が稀だったけど、最近はモヤモヤをより明確に感じる気がする。どこか物足りない感覚、モヤモヤが常に微動している感覚がある。

その「何かが足りない」について、自分の個人的な感覚や考えについて、ダラダラと書いてみた。なぜ「何かが足りない」と感じるのか、どうすれば少し和らぐのかなど、今思い付く範囲と解像度で、思い付いた順番で、ザックリと並べてみた。誰かの役に立つものでもないと思うけど、誰か一人に、少しの何かが届けば嬉しい。

「何かが足りない」の正体を見極め、疑う

この「何かが足りない」という違和感の正体は見極めたい。放っておいたらいつか消滅する感覚なのかもしれないけど、見極めて、必要に応じて行動を起こさないと、もしかしたらずっと残り続けるものである可能性だってある。今すぐに輪郭をハッキリとさせる必要はない。モヤモヤをモヤモヤのままで、合理的な説明を求めずに、曖昧なままで放っておくのも、一つの戦略だし、大事な選択だと思う。

しかし、違和感への解像度を、徐々に上げていきたいと思う。「何かが足りない」という感覚は合理的なのか、「何かが足りない」と知らず知らずの内に思わされているだけなのか。誰かが求めていることを取り憑かれたように求めているだけなのかもしれない。

もしくは、掘り下げていくと、熟考した上での「やるべきことをできていない」という結論に辿り着くかもしれない。「こうありたい」という衝動があって、そこに向かうための行動を起こせていないが故の「何かが足りない」なのかもしれない。

どちらにせよ、今すぐでなくてもいいから、「何かが足りない」の正体について、ゆっくりと考えていきたいと思う。「こうあるべきだ」「こうでないといけない」という前提に惑わされている可能性だってある。誘惑する認識を疑って、心の根っこを捉えてみると、実は「いや、十分足りている」が事実かもしれない。

「正社員でないといけない」「もっとお金を稼がないといけない」「何者かにならないといけない」という無数の「当たり前」を、知らぬ間に刷り込まれて認識が囚われているだけで、自分のできる限りの思考力で意識的に採用した基準ではないかもしれない。

つまり、考えて見極めていけば、「何かが足りない」の根底にあった基準そのものが、間違っている場合がある。そういった、数々の当たり前、基準、価値観が本当に自分が採用したいものかどうかを「疑う」「思考する」「見極める」作業を、少しずつやっていかないといけないと思った。

慣れによる物足りなさ

「何かが足りない」という感覚の基準をこれから疑い、見極めていくのだけど、今の時点で原因について一つ言えそうなことがある。それは、いい意味で「今の状態に慣れてきたから、より善くしたい」と思う余裕が少し出てきたのかもしれない、である。

少し前は、「仕事を続けられそうか」という不安で頭がいっぱいだった。無職の期間を経て4月に復職し、新しい会社で、初めての障害者雇用で、アルバイトで、「大丈夫なのか」という気持ちが強かった。今も「続けられるのだろうか」「契約が更新されなかったら」などの不安はあるけど、「何となく、今の働き方なら、(少なくとも大きな変化が起きなければ)やっていけそう」という小さい自信を今は感じている。

不安でいっぱいいっぱいだった状態から、不安が少し軽減され、頭のリソースに余裕ができたのかもしれない。いい意味での慣れによって、「さらにより善くしたい」「多少の刺激があっても大丈夫そう」と少しの余裕が生まれ、「どこかもの足りない感じがする」と感じている。そんな欲張りの、贅沢な悩みなのかもしれない。

不安が少し軽減されたとはいえ、未来のことを考え始めたら、いくらでも不安を拾ってしまう。いくらでも不安が膨張してしまう。「アルバイトのままでいいのか」「正社員になって、もっと安定した生活状態に持っていった方がいいのではないか」「また体調を崩したり、別の病気にかかったりして、仕事を辞めないといけなくなったら、お金は、生活はどうなるのだろうか」「もし契約が切られたら、次の仕事は見つかるのだろうか」など、(書きながら、稼ぎ、仕事、体調に関する不安ばかりだなと気付いたが、)このままで大丈夫なのだろうかという不安はいつもよぎる。

未来のことを考えたら、必ず不安が生まれる。どうしようもない、コントロール不可能な不安もある一方で、さっき書いたように「本当は解放されてもいい当たり前に囚われて、過度に不安になっている」という要素もあると思う。それは、先ほどのように見極めていきたい。そして、未来について意識を漂わせていると、今まで思い付かなかった不安さえ拾って大きくしてしまうのだから、今に集中する訓練も必要そうだ。

今からできるのは、今ここに集中する練習

そう、「何かが足りない」という感覚について、今からでもできることがある。「今ここに集中する練習」だ。心がモヤモヤ、ザワザワしているのは、過去の基準に囚われ、未来の不安に駆られているからだ。でもそれは、長年培ってきた認識の枠組みによって、意識の向け方が癖付けされているからで、「じゃあ今から過去の基準は無視する」「未来のコントロールできない事柄に、今後は一切意識を向けない」と今すぐ、瞬間的にスパッと変えられるものでもない。

練習が必要なのだ。「未来でも過去でもなく、今ここで自分が生きている」という事実に意識を向け直す練習が。今に意識を向ける作業は、定期的な深呼吸や書くことによる意識付けによって、少しずつ「できるようになる」ことだと思う。

手を洗っているときでも、例えば職業的・経済的な不安や過去に経験した辛さで頭のスペースが支配されてしまうことがある。しかし、今に意識を向ける習慣があれば、蛇口から出てくる水の流れ、水が手を伝っているときに冷たさや柔らかさ、もみ合ったときの手の弾力など、「良い悪い」の判断が手放された、今まさに体験している感覚を直接的に味わうことができるはずだ。

そして、今一つずつ着実にこなしている感覚、その小さな達成感も実感できるようになると思う。先ほど「慣れてきてどこか物足りない」「少し余裕ができたから刺激がほしいのかもしれない」と書いたが、その感覚は「今、実行できていることが十分でない」と感じているからこそ生まれているんだと思う。その感覚の軸になっている基準、価値観を疑い、捉え直しの作業をする一方で、「生活の中で習慣を、小さい行動を、緩やかにゆっくりと着実にこなす」感覚には、今からでも意識を向け始められる。

「こうあるべきだ」「より善く生きたい」という欲求から生まれる、「何かが足りない」というモヤモヤ、焦燥感、違和感は大切だ。同時に、そのモヤモヤ、焦燥感、違和感を細分化すると、中には「本当は感じなくてもいいような、今に意識を向けるだけで軽減される類の物足りなさ」も存在していると思う。

つまり、事実として何かが足りていない訳ではなく、既に様々なことが足りていて、焦りや不安を過度に感じる必要のない生活が、今ここにあるかもしれない、ということだ。足りないのは、「今に集中する癖」「緩やかな生活を味わう認識力」「個々の小さい達成に焦点を向ける着眼点」だけなのかもしれない。

したいことができていない

物足りない感覚は、部分的には、「今したいことができていない」という状況から来ているとも思う。例えば、僕は「文章をもっと書きたい」と常に思っているけど、仕事終わりや週末は、仕事の疲れを癒やすためのリラックスする時間となっている。

趣味をするにも体力が必要だから、今は(復職してまだ数ヶ月だから)仕事に体を慣らす期間と割り切るのも大事だし、生活するためには仕事が必要で「今、仕事をこなせているだけで十分だから、焦って色々詰め込む必要ないよ」「無理に書く必要はないよ」と自分には言い聞かせている。

でも、書くことで考えを整理して、「書いた何か」が積み上がっていく感覚は気持ち良い。書くことでなくても、絵を描くでも写真を撮るでも何でもいいんだけど、好きなこと、やりたいことにもっと時間を使えるようになりたい、という気持ちは強い。それが収入やステータスに繋がらなくても、やりたいと思っていること、好きなことをするって、想像以上に心の充足感に影響を与えるんだろうなと思う。

だから、焦りたくはないし、バランスが難しいなとは常々思うけど、少しずつ「したい」「してみたい」と思っていることに時間が割けるように、進んでいきたい。そうすれば、(それだけですべてが解決するとは全く思っていないけど、)少しは「何かが足りない感覚」が改善されると思う。

柔らかく生きる

「改善しないと」「今すぐこの『物足りなさ』をどうにかしないと」というニュアンスでバババと書いてしまったが、色んな基準や方針を行ったり来たりしながら、あまり焦らずにやっていきたいと思う。改善志向が悪い訳ではないけど、今までの癖で「今のままじゃダメだ」「変化、成長を続けないと」と焦ってしまう傾向がある。

今はゆっくりでいい。スピードと基準を落とし切れていないから、「何かが足りない」という感覚を強く感じるのだろう。これからは、今まで囚われていた「頑張らないといけない」から降りて、ゆっくりテキトーに生きてみるつもりだ。自分の中に無数の基準を疑い、解体して、以前の自分に戻ろうとせず、新しい自分として「人生の新しいチャプター」を描いていきたい。柔らかく、生きていきたい。

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