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3月11日の旅-浜通り編

2023年3月11日と12日。
東日本大震災から10年経った日は三陸を中心にまわったが、今回は2日間にわたって福島県は浜通りを訪れた。


きっかけ

2021年3月11日、親友と三陸の被災地を訪れた。あのとき感じた悲惨さと復興の現状…勉強不足なところもあり、一言で言い表せない複雑なものだが、誰しもが行って自分の目で見るべき価値があった。それから少し経ち、SNSの広告で「3.11伝承ロードふくしま」が目に入った。

福島浜通り(相双地域)は「3月11日の旅-プロローグ②」に記したように、2018年に一度訪れている。悲惨さを目にしたが、原発の現状とこれからなど知ることができなかったことも多かったので、いつか改めて訪れたいとは思っていた。この機会は逃してはいけないと思った。

10日に仙台入りをし、車を借りて広野町へ移動し、町内のホテルで2泊。そこを拠点に1日目はいわき市から双葉町へ、2日目は北上して仙台に戻る計画をたてた。

1日目-いわき市

チーナン食堂さんで昼食。

いわき・ら・ら・みゅうへ。

お土産屋や飲食店が並び活気がある施設。2階へ上がると「3.11いわきの東日本大震災展」がある。避難所生活の再現があった。

塩屋埼灯台へ。

穏やかな海とそこで遊ぶ人々。灯台に上がって見える景色も素晴らしい。

いわき震災伝承みらい館へ。

津波や原発のこと、街の変遷と遺留品が並んでいた。
先ほど上がった灯台から見えた景色は、震災前と後でかなり違うのだと分かった。

出入口に、福島県知事といわき市長のメッセージが貼られていた。

震災同年に不通となって見事再開を果たしたJR只見線の復旧を例に挙げ、知事は次のように記した。

『福島とは被災を乗り越えた復興の地である』と世界中から認められる日は必ず来ます。その日に向かって、私たちは、逆境を乗り越え、ひとつ、ひとつ、実現していきます。日本の皆さん、世界の皆さん、ふくしまに来て、見て、食べて、私たちの声を聴いてください。

FUKUSHIMA NOW ~福島の今を知る動画スペシャルサイト~福島県知事メッセージ「2023年3月11日のメッセージ」


まがへれ!ふくしまで見で、食べで、聴いでいくはげな!!


1日目-楢葉町

みんなの交流館ならはCANvasへ。

この施設は津波で被災した家屋の柱などを施設の一部に使われているという。当日「3・11特別企画展 みちのうえ」が開催されており、見られなくなった風景や祭りを展示していた。

1日目-富岡町

東京電力廃炉資料館へ。

予約の必要な資料館。1時間と90分のコースがあるがいずれも無料。
館員が事故と廃炉事業について丁寧に説明してくれる。
開始時の館員の一言目
「この度は申し訳ございませんでした」
今でも忘れられない。

回転寿司屋の看板も、一皿100円(税込105円)のままだ。帰還困難区域もまだ残っている。


1日目-大熊町 

中間貯蔵工事情報センターへ。

中間貯蔵について詳細を全く知らなかったので、現地で見て学べるというのは非常に有意義だった。
見学コースもあるみたい。いつか見てみたい。


1日目-双葉町

東日本大震災・原子力災害伝承館へ。

「3.11メモリアルイベント」に向け、キャンドルが並べられる。

「原子力郷土の発展豊かな未来」双葉町役場前の国道6号線側にあったそう。

地域の暮らしに「原発」は当たり前にあった。

津波もそうだし、身近だった「原発」によって変わってしまった風景もある。


屋上に行くことができるので上ってみる。

追悼花火が上がった。

「3.11」を描いたキャンドル。書かれたメッセージ一つひとつに重みを感じた。何時見てもこみあげてくるものがある。

ところで、当日は2023年3月11日で震災当日は平成23年3月11日。
レシートといった券の日付が「23.3.11」が多く、不思議な心地がした。

2日目-広野町

広野町防災緑地へ。

原発だけでなく、津波の被害も大きかった浜通り。
川や海の堤防と道路が一つになって津波から街や人を守る「多重防御による防災力の高いまちづくり」を行っている。

2日目-楢葉町

岩沢海水浴場

サーファーたちが集う。彼らの朝は早い。
中央右に見えるのは広野町にあるJERA広野火力発電所だ。

2日目-富岡町

富岡駅へ。

駅の周辺地図を見ると「帰還困難区域」が残っている。
これでも2018年当時訪れた時よりも小さくなっているが、区域がなくなるのはもっと先なのだろうか。

6国へ少し向かったところに、訪問前日に建立された慰霊之碑がある。
前日夜ホテルに帰ってきて付けたテレビで知った。

「全町民が避難を強いられた未曾有の原発事故は地域の営みや人と人とのつながりを破壊した 行方不明者の救助・捜索を充分にできなかった後悔 長い避難生活で心身ともに疲弊し失われた命へのやりきれなさを今を生きる我々の胸には大きな傷が残っている あれから十余年故郷富岡町はいまだ復興の途上にいる」

とみおかアーカイブ・ミュージアムへ。

富岡町の想いを発信するためにとった平山さんの行動は早かった。2011年8月「富岡は負けん!」と書かれた横断幕を国道6号沿いの歩道橋に掲げた。ライブカメラが設置された場所から、各地の避難先で暮らす離れた町民に向けたこのメッセージは、心の込もった魂の横断幕として大きな話題を呼んだ。

福島ではたらく、移住きっかけマガジンー双葉郡8町村の繋がりを大切に。ゼロからのまちづくりに挑戦中

被災した町民は、原発事故の影響により故郷をも離れないといけなくなってしまった。川内村をはじめ町外に逃げる。

「川内に足を向けて寝らんない」

館内で企画展「震災遺産を考える2023〜完全再現・安全対策本部〜」が開催されていた。

当日は震災当時の文化交流センターの様子が再現されていた。空間として遺すことで後世に伝える試みで、緊迫感が伝わってくる。

3月12日、12年前の今日、全町民が避難を急ぐ。
「みんな 川内村へ」のバインダーを残して。

被災した後、さらに人と街と長期間離ればなれになることを想像できるだろうか。

特定廃棄物埋立情報館リプルンふくしまへ。

放射性物質に汚染されたごみの埋立処分に関して学ぶことができる施設。
やはり、行ってみないと知らぬままになっていたことが多い。


夜ノ森地区へ。

駅舎が新しくなっていた。

こちらは2018年3月当時(3月11日の旅-プロローグ②も読んでいただきたい)。
ずいぶん変わった。

初めて訪れた2018年当時は帰還困難区域のため行けなかった、夜ノ森駅東側へ。

家が壊され、当時を知らずとはいえ、面影は見えない。夜ノ森の桜、咲く時期に行きたい。

2日目-大熊町

熊町地区。

2018年に通った時と感じが異なった。

こちらは2018年3月当時。たしかに、もっと家が密集していた(3月11日の旅-プロローグ②も読んでいただきたい)。

避難が長期間にわたったため、家屋の損傷や動物による荒らしはひどくなっているうえ、放射線のホットスポットとなってしまう。


解体を進めることで除染と復興事業も進められるとして公費で解体を行っていたそうだ。故郷に帰ったとき、家がないと拠り所がなくなってしまう。補助と思い出とどちらをとるか…町民の皆さんは大いに悩んだことと思う。

「地球にやさしいエネルギー原子力 人にやさしい大熊町」


2日目-双葉町

双葉町中心部へ。

14時48分で止まったままの時計と街と特急ひたち。

2020年に常磐線は全線復旧となり、品川・上野〜仙台をひたちが往復している。
双葉町の駅前は22年8月末に帰還困難区域から解除されたばかり。
そのため、ほかの町内の中心部に比べて復興が進んでいないようだ。

2日目-浪江町

浪江町立請戸小学校へ。

故郷を離れざるを得なくなっても、心は、せめて墓はここに在りたい。
故郷は簡単に捨てられない。

請戸漁港の近く。奥に第一原発がみえる。

浪江駅と公園。

いわき方面に向かう上り列車が入線していた。

2018年3月当時は、運賃表も線路も分断されていた(3月11日の旅-プロローグ②も読んでいただきたい)。

近くの公園では「新町にぎわいマーケット」が開催されていた。

前回誰もいなかった公園に活気が戻っていた。

2018年3月当時の様子。

2日目-相馬市

持ち主不明の写真が並ぶ。本人に、家族に届きますように。

最後に

東日本大震災から10年目にして三陸をまわり、12年目で浜通りをまわった。
執筆時点でまもなく13年経とうとしている。
ただ、記録としてnoteに遺したように、当時においても復旧・復興に終わりは見えていない。

今はもう遅いとかなんてない。訪れてみませんか?
防災について、街について、人について、故郷について考えてみませんか?

時間が経っても、現地に行ってみることで次につながることがあると思う。

やはり災害大国。
熊本や能登で大地震に見舞われ、大きな被害を受けた。ただし被害や事情は地域によってさまざまだ。

落ち着いたら行ってみませんか?

最後になりますが、東日本大震災をはじめ、地震等の被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族に心からお悔やみを申し上げます。また、被災地域の一日も早い復興をお祈りいたします。


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