自己紹介
こんにちは、よしです。
ご訪問ありがとうございます。
「ただ、すきをあつめる。ただ、ことばにする。ゆるゆる。」というスタンスで、書きたいときに書きたいだけ、noteを書いています。
記事投稿も6年目を迎えました。
いつもスキやコメントなどありがとうございます!
これまで、好きなもののこと・学び・過去のこと・今のことなど、いろいろなことを書いてきました。
この記事では、私のことを一つの記事にまとめてみました。
気になるところだけでも、つまみ食い的に読んでもらえると嬉しいです🫶🍔🌿
ざっくりプロフィール
ジャンル別すきなもの一覧
アニメ・漫画:『夢のクレヨン王国』『宇宙兄弟』『バクマン。』
ゲーム:『どうぶつの森』『とっとこハム太郎シリーズ🐹』『牧場物語』
ドラマ:『カルテット』
映画:『おおかみこどもの雨と雪』
俳優:菅田将暉、高橋一生、有村架純
漫画家:槙ようこ
作家:あさのあつこ
音楽:Aqua Timez、Mrs. GREEN APPLE
YouTube:撮って笑って旅をして(とったび)
推し:屋久島
好きなこと:音を全身で浴びる、アコースティック、走る感覚、内省、今の気持ちを絵にする
特性診断など
MBTI:ISFP(フィードバック講座での自己選択)
ストレングスファインダー上位10:収集心/内省/慎重さ/適応性/自我/司令性/戦略性/活発性/最上志向/回復志向
VAK診断:身体感覚優位(と診断されることが多いです)
じっと考えていることが多いかもしれません。好奇心が湧いたり、必要だと感じた時のフットワークは軽めです🏃♀️
今目の前にある課題に対して冷静に、あらゆる可能性や手札を用いて対処することが多いかもしれません。
身体感覚を楽しみたい!今ここ人間です!
🧚♀️ 🧚♀️ 🧚♀️
【家族構成・幼少期】
ホットケーキのいい匂い。
母や、他のお母さんやその子ども、優しい先生と過ごしたほんわかな記憶。これが一番古い記憶です。
大好きな思い出。
保育園に通う前、乳児保育所での記憶なので、たしか3歳くらいだったと思います。
小さい頃から姉と一緒に絵を描いたり、教えてもらったり。「描くこと」がいつも身近にありました。小学校1年生になると習字を習い始め、中学生まで続けていました。なので、「書くこと」もとても身近なことでした。
2つ下には弟がいて、私よりも要領が良かったので、お世話をした記憶があまりありません。
弟とは、姉と弟の関係であることをお互いにしっかり認識しながら、対等な関わり、友達のような感覚で育ちました。
きょうだいの上下はきょうだい間で大切にする。けれど親は全員に平等に接する、が母の教育方針でした。
弟とは日が暮れてボールが見えなくなるまで外で一緒に遊んだり、口喧嘩をすることもあり(だいたい私が感情的になって負ける)、とても仲が良かったです。
保育園の頃は先生とよく手紙を交換していました。毎日のように手紙を書いていて、ただただ、純粋に楽しかったのを覚えています。
保育園の頃からエレクトーンも習い、みんなで弾くアンサンブルが好きでした。1人1人の音が心地よく合わさり調和する、気持ちよく音が混ざる感覚がなんとも楽しく感じていました。
動くことも好きで、ただひたすらに走ることに喜びを感じたり、水泳やテニスをしていた時期もありました。高校ではバスケ部に所属していました。
2、3年続けたら飽きてやめたくなることも多かったのですが、習字とエレクトーンだけは中学・高校まで続けました。楽しい友達と、同じ学びを通じて時間を共有できることに喜びを感じていました。
習字はなぜかとても得意で師範レベルまで上達したのですが、音楽はどう頑張っても楽譜がスラスラ読めず、発表会ではよく緊張して頭が真っ白になっていました。みんなで弾くのは好きでしたが、1人で弾くのは苦手でした。
【中学】人への苦手意識・言葉は怖い…音楽に救われる
中学生になり、最初はとても楽しかった学校も、好きの裏返しからクラスメイトに嫌なことを言われ始めました。学校へ行くこと自体に怖さを感じるようになりました。
元々人と関わることへの苦手意識はなく、自然と人へ好奇心を持つタイプだったのですが、この頃から人と目を合わせることが怖くなっていきました。
何だか胃が痛いな…という身体的な不調も増えていきました。
中学2年生の頃に「言葉は怖い」を心底体感し、私自身言葉に対してかなり慎重になりました。どんな言葉も人を傷つける可能性があることを知り、口数が減っていきました。
さらに対人関係のストレスから、人とご飯を食べている時に過度に緊張し、手が震えることに悩むようになりました。自分では緊張や震えをコントロールすることができず悩みました。
震えを見られたら笑われ、今後給食が食べられないかもしれないという恐れから、給食が半分くらいしか食べられなくなりました。(大人になっても症状が続き、のちに会食恐怖症だと知ります)
それでも、「高校へ進学したい」という気持ちが大きく、とてもつらい日々でしたが未来のために学校には休まず通いました。
その時は、上手く言葉にできる自信がなかったり、これ以上状況が悪くなることが怖くて誰にも相談できませんでした。
けれど日々を救ってくれたのが、音楽でした。
同じ目線で、繊細で美しい情景を描くAqua Timezの曲に惹かれていきました。Aqua Timezの音楽や詩との出会いは、私の感性を繊細に、豊かにしてくれました。
小さなものに目を向ける力、自然を慈しむ感覚はこの頃からより醸成されていった気がします。
中学生になり家にパソコンが置かれたことから、デザインをすることにも没頭します。ブログを運営しながら依頼を受け、パソコンのお絵描きツールで画像の編集やデザインをしていました。
顔は見えないけれど誰かと繋がっていること、喜んでもらえることが楽しく感じていました。
【高校】部活と勉強漬けでモヤモヤ。初めて自分で選ぶ大きな選択
それから高校生になると忙しさからブログ運営はしなくなり、毎年Aqua Timezのライブに行くようになりました。
音楽を受け取りたい気持ち、そして感謝伝えたくて、同じ気持ちを共有したくて、よく1人でライブに行っていました。現地でTwitter(X)で知り合った友達と会うこともよくありました。
一方学校では、心からやりたいことをやっているというよりも、将来のためにやっているような、特にやりたいことも浮かばない高校時代でした。部活と勉強三昧で心が荒んでいて、家族に対しても終始不機嫌でした。
幼馴染から誘われバスケ部に入部し、練習はかなり大変でしたが、今後の進路のために辞めないでいようと3年間続けました。
大変ではありましたが、部活では先輩と話すことが楽しく、「よしえりー」「よしちゃん」という愛称で先輩や後輩から親しんでもらい可愛がってもらっていました。
土曜日も部活があったため、中学生の頃からの胃の痛みも放置して部活と勉強をしていました。背中まで痛くなり日常生活に支障が出ていましたが、以前病院でもらった薬が全く効かず、何度行ってもお金の無駄だと思って我慢していました。
高校2年生になり、中学生の頃に通っていた病院から違う病院を母に勧められ行ってみた所、十二指腸潰瘍・胃潰瘍寸前であることが分かりました。
胃が痛いことはストレスがかかると誰しもあることだからと思っていましたが、原因がピロリ菌であることがわかり、適切な病院へ早めに行く大切さを実感しました。
そして、高3の進路選択の時期がやってきました。
できるだけ偏差値の高い大学に行くこと・両親に対しあまりお金の負担をかけない方がいいと思っていたので、何となく方向性としては興味のある国公立大学を推薦枠・前期・後期と受験しましたが落ちました。
今考えると、気持ちが乗っていなかったのと、心身の不調やモヤモヤによって勉強は定期テストを乗り越えるだけのものになっていました。
落ち続けた結果、パッと浮かんだのがデザインでした。
当時テレビで流れていた福岡県のお土産「とっとーと?」というお土産のCMとパッケージが好きでした。こんなデザインをして「買う人を楽しい気持ちにさせたい、持ち帰った先でも楽しい体験を届けたい!」という気持ちから、芸術系の大学も2つ受験しました。
最終的に通うことになる山口県の芸術短大では、入試の面接で、先生に、「とっとーと?」が好きだという話をしました。
県外の芸術短大にも合格していて迷ったのですが、県外の短大は私にとってまた辛い2年間になりそうな予感を感じたり、馴染めそうにない感覚がありました。一方県内の短大は、雰囲気が合う・校舎が綺麗・ここで学びたい!という感覚があり、この直感を信じて県内の短大を選びました。
母の言葉の影響も多少あったかもしれませんが、初めて『自分で選ぶ大きな選択』だったように思います。
【短大】商品企画やデザインに没頭、楽しい!
短大入学後、陶芸・彫刻・絵画・写真・インテリアデザイン・イラスト・漫画・芸術の歴史など、芸術全般を学びました。
めっちゃ楽しかった!!!
友達にも恵まれ、励ます・褒める文化のある仲間と2年間を過ごしました。このとき時間をともにした友だちとは、今も変わらず会って絵を描いたりしています。
1年生の時に商品の企画やデザインの楽しさにハマり、最終的には商品企画・デザイン、グラフィックデザインを専攻しました。卒業制作はお土産の企画とデザインを提案し、好評をいただきました。
今あらためて見ると、未熟で少し恥ずかしい…けどとてもイキイキとしていました。
美術館でのプレゼンも、姉に「よしえちゃんじゃないみたいだった!」と褒められたりしました。
【2013年20歳〜】印刷会社でデザイナーに。喜びと激務
短大卒業後、新卒で山口県の印刷会社に入社しました。インターンシップでお世話になっていたこともあり、ようこそと迎え入れてくれるような期待してくれているようなスタートとなりました。
あらゆる要望に対応し、短い期間で仕事を納めていく部署に配属されました。先輩の丁寧な指導と計画のもと、デザイナーとして着々と成長しました!やったことないことにも向上心を持って取り組むことを大切にしている部署だったため、本当にたくさんのことを身につけることができました。
最初はコピーすらまともにとれなかったのですが、先輩も後輩も上司も素敵な方ばかりで、たくさんのことを教えてもらい、とても恵まれた中で仕事をすることができていました。
デザインしたものがモノ(印刷物)となり、たしかに誰かの手に届いているという実感が、私にとって大きな喜びとなっていました。
休日はテトリスのように予定が埋まっていて、常にどこかに出かけていました。
休日は楽しく過ごしながらも仕事量が日により大きく波があり、日をまたぐ勤務が何日も続くこともありました。
家庭の事情があり実家から往復2時間かけて通っていたため、仕事と運転で徐々に体力を奪われていくような日々でした。朝方帰ってきて、1〜2時間寝てまた出勤することもよくありました。
20代前半は特に残業が多く、1年の2/3は体調を崩していました。それでも「頑張る!」という精神が根底にあるからか、無理して皆勤賞並みに出勤していました。
身体の不調と併せてメンタルの不調も出てきて、心療内科に向かいましたが、「何か違う気がする」という直感から車を降りられず自宅に引き返しました。
その後すぐにテレビで東洋医学の特集が目に留まりました。東洋医学は心と身体の両方、今のことだけでなく過去のこと含め総合的に診て判断することを知りました。ネットで近くに先生がいないか調べた所、(たしか)東洋医学の名医○選に選ばれている先生が、自宅から徒歩15分の場所に開業していることを知りました。
入社2年目である22歳の時に漢方薬局の先生に出会い、初対面で会食恐怖症のこと、悩んでいる全てのことを初めて話せたのは先生でした。そして毎月30分〜1時間定期的に話すようになり、漢方を処方してもらったり鍼治療をしてもらったり、考え方や養生方法を教えてもらうようになりました。
身体の弱い部分の扱い方が分かり、先生のアドバイスを元にメンタル面も変わっていき、体調を崩すことが少なくなっていきました。
これまで内科に行っても、「ストレスですね」と言われ根本解決しなかったのですが、中医学や漢方に頼ると、体質を改善することもできるのだと驚きました。(その後、20代はずっと中医学にお世話になっていきます)
先生は自分の弱さをそのままに、ポカポカと温かい方で、診断や処置も的確、患者さんが辛い時は自分のことは横に置いて助けてくれました。
そして、私が自分で身体の変化を自分で感じられること、自分の力で選んでいけることをずっと信じてくれていました。やってみてどうなるか・どう感じるかの答えは患者さんの中にある、患者さんを信じ委ねる。同じ処方でも感じ方や受け取り方は人それぞれ。正解はなく、まずやってみて・飲んでみて、自分の中で気づいていく、そんな時間が多かったように思います。
とにかくいつも話すのが楽しかった!!!
身体のこと・心のこと・仕事のこと・家族のこと・恋愛のこと、何でも話しました。そして、いつも距離感を大事にパートナーシップを築いてくれていました。このような関わりの中で、自然と毎月小さな新しいことに取り組んでいました。先生は難しい話はしないため、中医学が気になり始め、自然と自分で調べたり学ぶようにもなりました。
(この後コーチングを学び始め、先生の関わりはコーチのようだったと気づく)
中学高校時代の十二指腸潰瘍の罹患から、早めに適切な病院に行くことを学んでいたため、偶然ではありますが、良い治療方法・先生に巡り会えて良かったです。
とはいえ激務だったため、毎年のようにインフルエンザに罹患していました。特に気の抜ける年末休暇の時期にかかっていました。
それから仕事の疲れから、大好きなAqua Timezの解散前のツアーすら行く気が起きなくなっていました。
Twitter繋がりの友達がチケットを取ってくれ声かけてくれたり、ライブ会場では何も言わず何も聞かず、ただそばに居続けてくれた友達もいました。本当に感謝しています。今でもそのライブは鮮明に覚えています。
【2018年26歳】何もできなくなり仕事を休む
睡眠不足や過労、不規則な生活が続き、先輩に仕事をお願いされても「なぜ私がやらなきゃいけないの?」と思うことが増えていきました。さらに、リアクションしようとすると涙が出そうで反応ひとつできなくなったり、何もないのになぜか涙が出てしまうことが続きました。
仕事をしに会社に行っているのに、なぜこのような反応しかできないのか、明るく出社しようとしてもどうしてもできない。元気が出ない。会社や部署の目標、自分の目標を達成できない。したくない。なぜやろうとしてもできないのか、とても葛藤していました。
「自分の中の正しさや世の中の正しさ」の基準に従えない、自分の中で何が起こっているのか分かりませんでした。
仕事に行こうと身支度をしたりご飯を食べることはいつも通りできるのに、身支度をしながらご飯を食べながらどうしても涙が止まらない日もありました。たまにそういう状態の日もあり、その時は仕事をお休みしました。
何も嫌なことはないので、いつか泣き止むかなと涙を流しながら出社する日もありました。自分の中に職場に貢献できるだけのエネルギーがない感覚がありました。日常的に大変だったので本当は最低限できることをやっているだけでも十分なんですが、私の部署は「向上心を持つこと」「常に新しいことに取り組むこと」を方針として掲げられていたので、そこにコミットしたい自分がいました。
その後上司に相談し、ひとまず有給休暇を1週間まとめて取らせてもらうことになりました。前向きな理由以外で休暇を取る人がいなかったので、自分の気持ちや状態を話したらどうなるか怖く、詳しく話すことはできませんでした。
上司は、まだ休みが足りなかったら1ヶ月とか休んでもいいよ、必ず戻ってきてね!と明るく声をかけてくれました。
お休み中は何もやる気が起きず、ほとんどの時間を布団の中で過ごしました。布団の中では小説を読んでいました。元々小説を読むことが好きだったわけではなく、小説を読むことしかできなくなっていました。
向上心も何も必要ない、紙の本と私だけの静かな空間にいられることがとても幸せでした。“紙の本”というモノは、2つとして同じものはなく、唯一無二。今“この本”を読んでいるのは私だけなんだ。という感覚がとても心地よく感じていました。
その時に出会った本が『ふたご』(藤崎彩織)、『羊と鋼の森』(宮下奈都)の2冊でした。
『ふたご』は、「できなくても大丈夫」を何度も思い出させてくれる本で、そばにあると安心できる本でした。何度も「大丈夫」をくれました。
『羊と鋼の森』はちょうど映画が公開されていて、映画館まで足を運びました。本を読むこと意外にできたのは、映画を観に行くことくらいでした。
観に行って気づいたのは、やっぱり私は本だから好きということでした。心地良い紙の存在感が好きで、パッケージデザインが好きな理由とも共通していそうです。
あと、おそらくこの時期に自覚していったのですが、ドラマや映画などの1時間以上の映像を集中して見ることができなくなっていました。集中できない・考え事をしてしまう・身体がしんどくなる・30分おきに休憩を入れたくなるような感覚がありました。
(のちに落ち着いてから、家族からは「あの時うつ状態だったよね〜」と言われました)
1週間お休みする中で、今の働き方は長くは続けられないと思うようなりました。
1週間休んでも回復しきった感覚はなく、1年は休まないといけないような感覚がありました。
ですが、1週間後に1週間分の回復状態で出社しました。
「これ以上休んだら会社へは二度と戻れない」と思っていました。
それから、上司は私が回復しきっていないのを察してくれたのか、他のチームへの異動があり、夜遅くまで働くことがなくなりました。徐々に体力も回復していきました。いつも部下をよく見て素早く対応してくれる上司に感謝の気持ちと感動、尊敬する気持ちがありました。
仕事量が減ったことで徐々に回復していける可能性を感じつつ、このまま続けても迷惑をかけるだけだと思い、会社を辞めた方がいいのか迷うようになりました。
その時感じたのが、
「仕事を辞めても続けても、どこに行っても“自分の正直な気持ちを伝えられないこと”が壁になってくる」ということでした。
【2019年27歳】「言葉は怖い」けれど「言葉にしていく」
何から始めたらいいのか、どうしたらいいのか分かりませんでしたが、その頃から「言葉にしていく」を意識し始めました。
思うことを言葉にしてみようと2020年からはnoteも書き始めました。
言葉にすることは苦手だけれど、書くことは馴染みがあり、始めやすく感じていました。また、noteの文字の羅列の美しさが、言葉にする気持ちにさせてくれました。
今もnoteを書き始めた当時と変わらず、「ただ、すきをあつめる。ただ、ことばにする。ゆるゆる。」のスタンスを大事にしています。
職場では相変わらず人間関係もよく、様々な案件に挑戦させてもらい、以前にも増してお客さんに喜んでもらえることも増え、周りの方のおかげでデザイナーとしてさらに成長していきました。
先輩が「人への頼り方」を背中で教えてくれたことも、私にとって大きな学びとなりました。後輩の私を先輩が頼ってくれ、姿から頼り方を学んでいきました。
あれもこれも自分がやらなきゃ、絶対に言われたことをやらなきゃ、チームに貢献しなきゃと、無理して黙って自分で自分を追い込んだことで心の不調が現れたのだと気づいていきました。
それから徐々にではありますが、「今〇〇が苦しい」「〇〇をお願いできないでしょうか?」と周りに適切に頼れるようになっていきました。
ここまで至るのには2,3年かかりました。
本当に、徐々に、徐々に、でした。
チーム単位で仕事をすることが多く、先輩との関わりや後輩育成を通じたくさんのことを学びました。自分でやると早いことも、何人かで仕事を分けることでみんなで仕事をできる範囲が増えていく。一見遠回りのようでいつか強大な力となる、近道になる。
そして、まず自分から頼ることでパートナーシップが育まれ、相手の素敵な部分にも気づけるのだと実感していきました。私も頼れる仲間であり続けたいと、逆説的ではありますが、苦手な同僚へもまず感謝の気持ちを持って接するようになりました。理不尽だと思えることも、まず感謝の気持ちで全てを受け取ってみました。
というのも、私はこれまで根っこの部分であまり感謝の気持ちを持つことができていませんでした。形から入っていくと何か気づくこと、拓けることがあるかもしれないと思っていました。
その後、苦手な同僚からとても信頼してもらうことができ、私が大変な場面では、自身が悪く思われることは顧みず助けてくれることもありました。
【2021年28歳】コロナ禍と希死念慮
コロナ禍で仕事量が減り、定時で帰宅できる日が多くなりました。
空いた時間で会食恐怖症のコミュニティー活動へ参加したり、コーチングを学び始めたのもこの時期でした。
楽しいけれど、慣れないことの多い日々でした。
この時期、会食恐怖症の症状を知ってもらってから関係性を築きたいと思い、知人に思い切って自分の症状について話しました。すると、思ってもみなかったような反応が返ってきました。その時相手の言動に怒りの気持ちが湧きましたが、自分が傷ついたことに対して私自身がしっかり寄り添うことはできませんでした。感情を味わいきれず、「私は欠けている」という気持ちが少し強くなったような気がしています。
「1人で、自分の中で症状をコントロールできるようにならねば」と、強くなることを望むようになっていきました。
また、職場では、向上心を持たない人はこの部署に必要とされていないというプレッシャーも重なっていました。無意識に、自分を守るために生きていくために、得たいものを得るために自分を強くしていこうとする行動が多かった気もします。
以前よりもプライベートの時間もあり、やりたいこともできて充実しているはずなのに、拭うことのできない虚しい気持ちに包まれていました。コロナ禍も重なり、人との直接的な繋がりが断たれていることも私にとって苦しいものでした。
それから、何も辛い出来事はなく平穏な日々なのに「死にたい」と感じることが増えていきました。何も辛い出来事はないので、原因が分からない。解決のしようがない。原因があれば解決策を見つけて行動すればいい。でも原因が見当たらない。何もない。順調に仕事をしている時、お風呂から上がって着替えている時ふと、ただ頭の中にポツリと浮かんでくる、漠然とした気持ち。
でも実際に命を断ちたいわけではない。何ならめちゃくちゃ生きたい。
言葉が浮かぶだけで、心も身体もまあまあ調子はいい。
原因を探ろうとすればするほど、漠然とした「死にたい」について考えなければならず、ドツボにはまる感覚がありました。
鍼治療を1回すると、1ヶ月間は希死念慮が心の中からなくなることはあっても、完治することはなく、この後2023年頃まで2年以上症状が続きます。
コロナ禍が明け、直接的な人とのつながりを感じられることが増えたり、2023年頭に流れるように環境が変わる(退職する)ことで、いつでも休んでいいと自分自身へ許可が出せるようになっていきました。
休むことや寝たい時に寝ること、自分の欲求を叶えることへの許可を出し、満たすよう行動することで症状が出なくなりました。
人と直接会えるって最高!!!私はいつ休んでもいいんだ。いくらだって休んでいい。
人と会うこと、眠ること。人として体験したい喜びや欲求を無視し続けた結果だと気づいていきます。
が、この頃(2021年)は気づけず、この課題と向き合っていました。オンラインでカウンセリングを受けるなど、自分の気持ちや出来事を、少しずつ整理したりしていました。
【2022年29歳】家族全員の前で怒る・泣く
「言葉にすること」を積み重ねる中で、自分の中の違和感や感情に気づいていき、29歳の時、私の怒りは大爆発します。
家族内では誰かが担わないといけない役割(弟の学費の一部を立て替えること)を私が担っていたため、とてもストレスが溜まっていました。とはいえ弟のことは大好きで。生まれた順で恵まれるなんておかしいから、私が一時的に我慢すればいいと思っていました。
ちょうど激務だった頃と立て替える時期が重なっていて、弟の卒業まで仕事を安易に辞められないプレッシャーと闘っていました。
無事弟は卒業できたものの、私は疲れ果ててしまったため、この時間で失ったもの(心身の健康)を返してほしいと怒りが湧いてきました。
姉や弟は実家を離れていたため、離れているのでお互いの気持ちや状況がわからず、私はきょうだいを憶測で疑ったり、なぜ私だけこんなに大変な思いをしなきゃいけないの?と思うことが徐々に増えていきました。
その後、コロナ禍や就職がきっかけとなり、家族全員が再び集まり、実家を離れていた姉も弟もともに暮らすことになりました。
再び家族みんなで住むようになり、私のつらさを少しでもわかってくれていると思っていたけれど、意外と寄り添ってもらえなかったりもして、怒りが溜まっていきました。
誰かに頼った方がいいと思い、オンライン上でカウンセリングを受けながら、伝えたいことをテキストベースで言葉にしていきました。伝えるタイミングが来たら、この整理できた言葉を伝えようと準備していました。
その時は、思ったよりも早くやってきました。
29歳になって家族の前で泣きながら怒るとは思っていませんでした。
母の後押しがあり、全ての気持ちを出し切ることができ、家族ひとりひとりとも納得いくまで話し合いました。目を背けず、必要以上に感情的にならず向き合ってくれた家族にとても感謝しています。
私の悪い部分や誤解、離れていたから分からなかったお互いの苦しみも分かり合うことができました。
伝え合うことができてよかったです。
今思うと、同年にコーチングスクールでコーチングの基礎を学んでいたことも、良い影響を与えていたと思います。
「言葉は怖い」と話さないことで壁にぶつかり、仕事やプライベートで行き詰まることで、「言葉は怖いけれど、言葉にしていこう」と決意したタイミングがあったからこそ、家族と言葉でしっかり向き合うことができました。
言葉にすることで発生する痛みも、言葉にしないことで起こる痛みも経験しました。
「言葉は怖い」を痛いほど経験してきたけれど、「言葉にする・伝える」に向き合い続ければ、諦めなければ分かり合うことはできるのだと思いました。
【2023年30歳】10年勤めた会社を辞める。「家族」と「健康」
それから入社して9年目の夏、いつものように仕事をしていたのですが、ふと「いつ会社を辞めるんだろう?」と疑問が湧きました。
何もかも順調なのに、頭では全然辞めたくないのに、不思議でした。
以前から、往復2時間かけて車で通勤するのが体力的にも精神的にもきつく、目も身体もとても疲れていました。
身体が、「あまり長くは続けられない」と言っていることは分かっていました。しかし、私はそれを無視しようとしていました。だってそれ以外何も不満はないし、仕事も好きだし職場の人も好き。残業も随分と少なくなった。
するとある日、はっきりと辞める日付が降りてきて困惑しました。
(いきなりスピリチュアル🪐)
それからいろいろな方に相談し、決める・手放す怖さをものすごく感じながら、直感を信じていいのだと確信に変わる出来事があり、退職を決意しました。
頭で考えて現状維持を選んでしまう私を、直感を確信に変える出来事が後押ししてくれました。
高校卒業後の進路選択以降、二度目の『自分で選ぶ大きな選択』でした。2023年の1月のことでした。
突拍子もない辞め方のように見えますが、これから何を大切にしていきたいかを考えた時、かなり明確になっていることに気づきました。
大切にしたいものの一つとして、「家族」「健康」がありました。そして、会社と家の往復2時間運転するしんどさを味わい続けることは難しいと身体が感じていることも合わさり、退職を決めました。
「言葉にする」ことへの怖さを感じながらも、「伝える」ことをしていきたいとも思っていました。
とはいえ心残りや、もっと最善策があったのにと後悔したくなかったので、退職したい旨を上司に相談してからは、なんとか残る術がないのか上司と探りました。
在宅勤務できないか打診もしましたが、難しいようでした。どこにも突破口がない状態でした。
それから退職の手続きを進めていき、退職の日まで最大限の感謝の気持ちで毎時間を過ごしていきました。
最後の日は、あたたかな言葉をかけてもらいながら、応援していただきながら退職しました。
本当に前職の方達にはお世話になり感謝しています🌸
▼退職した日に書いた記事
「伝える」ことをしていきたいと思っていた矢先、退職月とその半年後に、2回、数百名の前で自分のことについて語る場が用意されました。
人前で話すことは得意ではありませんが、こうして声をかけてもらうということは、体験や気づきを「伝える」ということに何かしらのニーズや使命があるのだと思うようになりました。
【2023-2024年】無職。行きたいところへ自由に飛びまわる!
退職後、早く次の仕事を見つけないと!と数ヶ月は焦って仕事を探していましたが、どうもこれはしたくないと心が反応し葛藤していました。
それから、「今は好きなことをたくさんしていいんじゃない?」という母の言葉から、たくさん好きなことを味わいに行くことにしました。
前職では、毎日ヘトヘトで土日は無理やり楽しむ、あるいは楽しめない事もあり、モヤモヤしていました。
なので、これまでしたかったことを全部やってみよう!と決めました。
普段からお世話になっている先輩に退職後の過ごし方についてアドバイスをもらい、「やりたいことリスト100」を書き出しました。
(「〇〇したい」ではなく「〇〇する」と書くのがポイントでした。恐ろしいくらい本当に叶っていく…!)
やりたいことが、もうそれは、無限に出てくる。行きたいところもやりたいことも、学びたいこともたくさん!
▼隣県の福岡県宗像市の一人旅から始まり、
▼東京・大阪(ゲシュタルト×コーチング、エサレンマッサージ)
▼宮崎(高千穂)👹
▼初めての屋久島(春)
▼2度目の屋久島(冬)
▼京都(お灸体験)
▼小田原💖
他にも、北海道(会食恐怖症繋がりの仲間に会いに)、名古屋と京都(THECOACHオフ会)など、いろんなところに行きました✈️
フューチャーマッピングを書くことで、こんな恋人と出会いたいという恋人とも出会い、楽しく濃い時間を過ごしたりもしました。私らしくいることで、出会いも変わってきました。
後にお別れすることになりますが、今でもお互いのことを大切に思い、何も隠さず応援し合う間柄です。
出会うことができ、本当に良かったと思っています。
それから、以前から興味のあった中医学をスクールで本格的に学び始めたり、身体から知ることが気になりソマティック講座を受講したり、以前から声の探究に興味がありボイスコーチングを継続的に受けたりもしました。
プロセスワークやメンタルモデル紐解きの体験もしました。
▼ボイスコーチング
▼プロセスワーク
▼ソマティック講座
中医学を学ぶきっかけになった近くの大好きな漢方薬局の先生が亡くなるという出来事もありました。
先生のおかげで、体調を漢方と食養生と鍼治療で整えることができ、仕事を10年続けることができました。ありがとうございました。
約1年間思うように過ごしてみることで、自分について深く知ることができたり、自分自身の変化や可能性を感じることができました。ゆっくりと自分に気づく・自分に還っていくような時間を過ごしました。
また、いろいろな出会いから、視野が広がったり、捉えられる幅が変化することで、自分の器も広がっていきました。
意図して退職したわけではありませんでしたが、いつの間にか希死念慮も消えていきました。
退職後もずっと付き合っていくものなのだろうなと観察していましたが、自分の欲求にようやく気づくことができました。
休むことや寝たい時に寝ること、自分の欲求を叶えることへの許可を出し、満たすよう行動すること。
人と直接会えるって最高。
私はいつ休んでもいい。
いくらだって休んでいい。
人と会うこと、眠ること。
人として体験したい喜びや欲求を満たしていこう。
退職当初はすぐに仕事を見つけないとと焦っていたのですが、自由に過ごすことを後押ししてくれた母と先輩、そして見守ってくれた家族と友人に感謝しています。
【2023年・春夏】手のデッサン100枚と会食恐怖症
『コンパッション・マインドトレーニング講座』『自分の中にARTを持て』などの数ヶ月〜半年の連続講座にも参加しました。
『自分の中にARTを持て』では、アートでの表現をたくさんしました。デザインこそ素晴らしいと思ってきましたが、仕事を辞める数年前からアートや自己表現にアンテナが立っていました。
講座の最初の方で、「自分の手が醜い」と感じていることに気づきました。私自身、中学生以来悩まされている会食恐怖症の症状の中でも、手の震えが気になっていました。なので、あまり自分の手を直視したくないと思ってきました。
手が醜いと感じている私自身に改めて気づいたことは、とてもインパクトがありました。
それから、講座中そして講座後も自分の手をデッサンしていました。絶対に、何か自分の中で変化が生まれると信じていました。
最初は全然上手く描けず、それでも上手く描こうとしてストレスを感じていました。
それからおそらく、キャリアブレイク中に100枚近く手のデッサンをしたと思います。徐々に線が柔らかくなり、手を触りながら、手が心地良いと感じながら描くことも増えていきました。
アートを通じて、自分の手を愛おしく思えてくる時間を過ごしました。
講座の最後には、「I am 巨匠!」と胸を張って言える自分になることができました。
物心ついた頃から、手に触れられることも繋ぐのも、苦手でした。誰に何を言われたわけではないけれど、相手が心地よいと感じていないのではないかと思ったり、嫌われたくないと思っていました。
しかし、人と手を繋ぐことや触れることのあたたかさを知りました。自分らしくいられる時間が増えていきました。
これまで、会食恐怖症を直視したくない、だから隠したり無理に頑張って生きようとしていました。
しかし講座の参加を通じ、少しずつ自分を信じたり大切にすることができるようになり、たくさんの人との出会いも重なり、徐々にありのままの自分を受容していくことができました。
ありのままを出せた自分に祝福と、関わってくれたみなさんと講座を開いてくれた方、ともに歩んでくれた方々に感謝しています。
どうしても人は属している環境に影響を受けがちですが、所属を1つ手放してみると、自分らしさを再び取り戻していくような、本来の自分に還っていくような体験をしました。
【2023年・秋】会食恐怖症の方を支援するカウンセラーに
2023年7月にコーチ仲間であり、ハーバード教育大学院を卒業されているまなみさんがファシリテーターを務める「パブリック・ナレーティブ」のプログラムを修了しました。
そして、これまで少し嫌悪感を抱いていた「コンパッション」ともこの頃出会います。
「コンパッション・マインド・トレーニング」の講座では、自分を大切にできない・思いやりを受け取ることができないことに気付いたり、
怖い場面こそ思いやりを渡すことで、心地良い循環を作ることができる。そこには知恵と勇気がいることを体感していきました。
「パブリック・ナレーティブ」でスピーチの内容を考える中で、少数派の人たちが悩む世界が本当に嫌で義憤を感じている自分に気づき、今私にできることは何だろうと考えた時、会食恐怖症のカウンセラーの募集が目に留まり、カウンセラーになるべく学び始めました。
資格を取得し、同年10月から会食恐怖症の方へ向けたカウンセリングを始めました。
▼当時の思い
その後、同年冬から「食べなくてもいいカフェ 九州」のデザインや、対面営業のスタッフをさせていただいたりもしました。
福岡放送で会食恐怖症が取り上げられた際、食べカフェ九州の様子も紹介されました。認知の高まりを感じています。(一瞬私も映っています)
食べカフェの準備を進める中で、2023年末は、こんな気持ちで2024年を迎えようとしていました。
支援側に回るなど、芯を持って自分らしく生きることで、会食恐怖症がぐっと良くなる出来事もありました。
▼私が自分の願いに気づき、変わるきっかけになった小田原でのワークショップ
【2024年・春】コーチングスクール最後のコース(5ヶ月間の旅へ)
そして翌年2024年4月から、THE COACH ICPでコーチングをより深く学び実践し体現していくため、インテグレーションコースという最後のコースで歩みを進めています。
2021年に基礎コースと応用A・Bコースを修了し、毎月数回の練習セッションをしていました。最後のコースであるインテグレーションコースが私の中で「未完了」として長く残っていました。
しかし、受講したいという気持ちと時間や体調が合致せず、見合わせていました。
ある日、「4月だ」という直感が降ってきたのと、春から夏にかけて動いて何かに取り組むのは人間として、生き物として自然な状態だと感じたので、受講を決めました。
THE COACH ICP ™というコーチングスクールで、「インテグレーション・コーチング®️」を学んでいます。
私自身がコーチングを受けることが起点となり会食恐怖症がよくなっていったということがあり、コーチングを会食恐怖症の方にもぜひ受けていただきたいと今は思っています。
会食恐怖症の方全員がコーチングが最適というわけではありませんが、ひとつの手段として提供していきたいと思っています。
そして、コーチングだけでなくカウンセリングもできる存在として、会食恐怖症のどのフェーズどの状態でも寄り添える人でありたいと思っています。
これまではがっつりデザイン領域にいましたが、キャリアブレイク中にアートに可能性を感じ、今後「描くことを通じた右脳的な気づき」を組み込んだコーチングのご提供を考えているところです。
この辺りについてはまた別の記事で触れたいと思います。
たくさん私のことについて書いてきましたが、どの人の人生もとても尊く、美しい。
嘘偽りなく、そう感じています。
コーチングやカウンセリング、アート、デザインという手段を通じ、おひとりおひとりの人生を応援しています。
あなたの話も、ぜひ聞かせてください。
▼コーチングはこちらから受付中です(会食恐怖症以外の方も、どなたでもセッションを受けることができます)
▼カウンセリングはこちら(こちらは会食恐怖症の方限定です)
🧚♀️おわりに
この記事を書く中でも新たに身体の不調が見つかるなど、自分の身体が弱いことにも降参し始めました。周りからすると本当に、「ようやく」だと思います。
誰かと生きていきたいなと思うようになりました。
そして、私も私のできることで、誰かの助けになりたい。
私の後ろには、たくさんの頼れる人たちがいる。
そして私の周りには、たくさんのワクワクがある。
何も隠さず、これが私だと、人として生きるよろこびを味わい続けたい。
安心していたい。
ワクワクし続けたい。
大丈夫だよって伝えたい。
たくさんありがとうって伝えたい。
誰もがありのまま、安心してつながる🫶
お読みいただきありがとうございました🌕
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