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「クルイサキ」#44(最終話)
終章 残桜
「鳥がいるよ」
少し前を歩いていた息子が振り返り、駆け寄って来た。私の元に戻った息子と共に空を見る。二羽の鳥がさえずりながら、空を飛んでいた。
小学一年生になる息子の診察日で息子を学校まで迎えに行き、これから病院へ行く途中だ。少し診察時間まで時間があったので、天気もいいことだし、少し寄り道をして川辺の遊歩道を歩くことにした。
今日の空は透明度が高い青だ。そのなかを白くモ
「クルイサキ」#43
亮太(死神)7
黒猫が死んでいる。魂が抜かれ、肉体だけとなった黒猫が花びらを咲かせた桜の木の下で死んでいる。まるで死んでしまった猫の血を養分にしているかのように、この桜の木の花びらは赤が濃い。
手に持つナイフを体の前に差し出す。自分の意思ではない。自分の体はすでに乗っ取られている。
遊歩道にさくらが現れた。心配そうな表情でこちらを見ている。そして歩き出し、こちらへ向かってくる。
「クルイサキ」#42
さくら 24
十年前は裸だった桜の木は、いまは薄紅色の花びらを蓄え、穏やかな春の陽気に合わせ、この瞬間に最高のパフォーマンスをしている。それは雲のない今日の青い空に見せつけるようにも思える。
川を挟んで両端にある遊歩道が、桜の花びらの屋根に覆われ、橋の上からはよく見えなかった。それでもさくらは彼がこの場所にいると確信があった。よく見ると、桜の花びらに覆われて、見えないと思っていた遊歩道の一部
「クルイサキ」#41
亮太 6
空の青さに導かれるように、亮太が行く場所に躊躇いはなかった。ふらつくような足取りで、逃げるようにその場所へ向かっている。
先ほどまでの割れるような頭の痛みは、いまは心拍と同じような感覚で、鈍い痛みがある程度に治まっている。
千絵の病室に来た刑事たちはおそらく亮太を探しているだろう。刑事から渡されたナイフはいま亮太が持っている。刑事たちにしてみればナイフを奪い取られたとな
「クルイサキ」#40
亮太 5
千絵の病室のドアがノックされたとき、亮太は浅い眠りのなかにいた。病室の窓から入ってくる風が温かく、椅子に座りながら、うとうととしていた。だから、そのノックの音はまどろみを遮る雑音にしか聞こえなかった。
「警察です。本多千絵さんだね」と、亮太に向かって眼鏡の男が言った「いや、彼は違うよ」と、白髪交じりの男が口を挟み、眼鏡の男をどけるようにして、亮太の前に立った。亮太は警察という言葉を
「クルイサキ」#39
さくら 22
さくらは井口と会った次の日、市民図書館へ足を向けた。井口から訊いた事件のことを調べるためだ。織田が殺害された同じ日に、そこから遠くない場所でも殺害事件があったことなど、さくらは覚えていなかった。
十年前、織田が殺害されたとき、さくらはその事実を受け入れることができず、大学に入学するまでの休みの期間なにも手につかなかった。食事をし、睡眠をとり、織田のことを意識して考えないよう
「クルイサキ」#38
亮太 4
千絵の病室に行くと、昨日と変化はなく千絵は眠ったままだった。千絵が意識を失ってから十日ほど経過している。千絵の表情からは深刻さを感じられない。胸を上下させ、呼吸を自発的にしている。いますぐにでも目を覚ましそうで、とても十日間ものあいだ、一度も目を覚ましていないことが信じられないほどだ。
十年前とは逆の立場で今度は亮太が千絵の目を覚ますのを待っている。そう思うと亮太は胸が苦しく
「クルイサキ」#37
さくら 21
「私が亮太の父親に伝えたことが、すべての原因だったのかもしれない」
抑揚がある井口の言葉が弱くなり、彼の後悔の念がその声に含まれていた。言葉が発しられた瞬間、まるで周りの空気に緊張が走り、彼をこれ以上刺激しないように熱を下げたかのようだ。
「亮太が母親から虐待を受けていることを私は亮太の父親に知らせてしまった。そのことが間違っていたことだと当時の私には気づかなかった。それば
「クルイサキ」#36
千絵 6
「僕は知っていたよ。母さんが本当の母親ではないということ」
手のひらから伝わってくる熱は、千絵の意識の底に伝わっていた。ただ千絵はなにも反応はできず、亮太の言葉もすべては理解できていない。
「だから、そんなに僕を守る必要なんかなかったのに」
亮太の声が聞こえる。
「あのときも僕を守ってくれたのは、母さんだね」
千絵は無意識に過去を見ていた。千絵が命に代えてでも亮太を守る覚悟が
「クルイサキ」#35
さくら 20
待ち合わせをしたファミリーレストランに井口は時間通りに現れた。ベージュのスラックスに、黒のポロシャツを着ている。神妙な面持ちでさくらの前に座った。これから井口が話す内容には、決して穏やかではない事柄が含まれているのだろうと予感が漂い、さくらの気も引き締まる。
さくらの携帯電話に井口から連絡があったのは、昨日の夜だった。千絵の入院を知った井口はさくらに話したいことがあると連絡
「クルイサキ」#34
亮太 3
さくらと別れ、亮太は千絵がいる病室に戻った。ベッドで眠る彼女の表情は先ほどと変化はない。亮太が持っている記憶の一番古いときからいる千絵は、十年前よりもすっかり痩せてしまった。目を閉じて眠る彼女の姿を見ていると、自分には千絵のためにできることがなにもないという絶望が込み上げてくる。
衰弱した千絵の顔は亮太と全然違っている。自分にはない精錬された美しさが備わっている「亮太はお父さん似
「クルイサキ」#33
さくら 19
きっと心のどこかでいつも思っていた。こうして言葉として聞くと、これまで小説を書くという行為に近づかないようにしていたことに気づいた。その行為は織田も近くにいて、どうしても織田も共に想起し、さくらの心をかき乱せると知っていたから。
織田が死んでから『約束の日』までの十年間、心のなかに存在する織田は十年前の姿のまま、さくらの記憶に居つづけ、しかもその記憶の織田はさくらの下らない
「クルイサキ」#32
さくら 18
さくらが病室に入ると千絵はただ眠っているように見えた。呼吸器はつけておらず自発呼吸はしているようだ。ベッドの横に置かれてある心電図のモニターのグラフが規則正しく波打っていて、一見したところ命に危険はなさそうだ。
「意識がまだ戻らないんだ」
千絵の傍に座っていた亮太が振り向いてさくらを迎えた。その顔は寝ていないのだろう、ひどく疲れている様子だった。
亮太は立ち上がり、さく
「クルイサキ」#31
亮太 2
『約束の日』に亮太はその場所から川を挟んだ反対側で彼女が来るのを待っていた。戸板橋から数えて七本目の桜の木の前に女性が来たことを認めると亮太は橋を渡り彼女の元へ向かった。
待ちわびていた瞬間が直前まで迫り、亮太は身震いを感じていた。彼女がいる遊歩道に足を踏み入れる。まだ彼女の姿は遠いが、同じ道の先に約束の相手がいる。十年近く待っていたけれど、いま彼女の姿がまっすぐな道に存在してい
「クルイサキ」#30
三章 淀桜
亮太 1
運ばれてきたアイスティーにミルクを注ぐと、グラスのなかの氷がバランスを崩して音を立てた。ストローで混ぜると氷がぶつかってさらに音が増す。本多亮太はその音が耳に心地よく、必要以上にアイスティーを混ぜた。
さくらはどのような報告を亮太にしてくれるのだろうか。さくらから当時のクラスメイトと会えることになったと連絡があった。今日、そのクラスメイトの話を聞いたあとに亮太にこ