見出し画像

「クルイサキ」#37

さくら 21

「私が亮太の父親に伝えたことが、すべての原因だったのかもしれない」
 
 抑揚がある井口の言葉が弱くなり、彼の後悔の念がその声に含まれていた。言葉が発しられた瞬間、まるで周りの空気に緊張が走り、彼をこれ以上刺激しないように熱を下げたかのようだ。

「亮太が母親から虐待を受けていることを私は亮太の父親に知らせてしまった。そのことが間違っていたことだと当時の私には気づかなかった。そればかりか正しいことをしたのだと思っていた。すべてうまくいくはずだ。良い方向に向かっていると信じていた」
 
 井口は言い終えると懺悔をするかのように歯を食いしばり、口を閉ざした。無音の時間がしばらくつづき、そのあいだ、当時の過ちを思い返し、痛みを伴う後悔をじっと受け入れているかのようだった。

「十年前の三月十日、亮太の実の母親は当時亮太と暮らしていたアパートで亮太の父親に殺害されました」
 
 その日にちを聞いたさくらは一瞬耳を疑った。
 
 さくらにとって忘れることはない、三月十日。そして十年前。
 さくらが高校を卒業した日。織田と十年後を約束した日。そして彼が命を亡くした日。
 同じ日、亮太の実の母親は亮太の父親に殺害された。
 
 亮太は十年前に事故に遭い記憶をなくしたということであった。亮太は父親が起こした事件を覚えていないはずだ。十年前、亮太は目を覚ましてから記憶喪失になり、引っ越しをして千絵と共に違う土地に移り住んだ。もしも亮太がその事件を知っていた、覚えていたのならば、きっと自分の過去を知りたいとはしなかっただろう。
 
 十年前、亮太の父親が母親を殺害した。亮太はその事件がきっかけで記憶をなくしてしまったのだろうか。実の母親が父親に殺害されたショックで亮太は記憶を消滅させてしまったのではないのか。
 
 その日、織田も殺害された。ナイフで刺されて、通り魔の犯行とされている。まだ犯人は捕まっていない。
 
 そして亮太は織田に渡したはずの、さくらの小説を持っていた。
 
 そこまで考えると、さくらは頭に痛みを感じた。まるでその先には行ってはいけないかという警告のようだ。さくらは水を飲もうとしてグラスを手にすると、指先が震えているのがわかった。小刻みに震えるグラス、氷が音を立て、なかの水が恐怖で慄いていているかのように、波打っている。

「父親が実の母親を殺害したショックで亮太は気を失い病院に運ばれました。私は亮太が入院する病院へ行ったが、亮太に会うことはできませんでした。意識は回復したということでしたが、まだ面会ができる状態ではないということで千絵さんから断られました。私は何度も面会に訪れたのですが、いつも千絵さんに断れていました。そのときは千絵さんと亮太の関係は知りませんでした。そして数週間ほどしたころでしょうか、病院に行くと千絵さんに引き留められました」
 
 井口の落ち着いた声の調子はいつしかさくらの心を静めさせていた。いまは彼の話に集中し、織田の事件はひとまず切り離して考えることにし、これ以上頭が混乱しないよう努めた。

「彼女は亮太の父親が犯した事件のことを亮太にまだ知らせていないと言い、亮太は記憶喪失になっていることをその場で伝えられました」
 やはりその事件がきっかけで亮太は記憶を損失したのだ。十年前の亮太を思い、さくらは心を痛めた。

「千絵さんはこのまま亮太の記憶が戻らなければ、事件のことは知らせないつもりだと私に言いました。それから千絵さんが亮太の母親となり、引き取るつもりだということも聞きました。千絵さんはきっと亮太の母親になることで、記憶を失ってしまった亮太を守りたかったのでしょう。亮太は実の母親から虐待を受け、父親が実の母親を殺害した、その事実を亮太に知られないためには、千絵さんが亮太の母親になり、家族となって亮太を見守っていく必要があった。彼女はそのとき、すでに覚悟を決めていた。そう言う彼女の目には揺るがない決意が込められていて、その目のままで私に協力してほしいと私に言いました」
 
 さくらは千絵の瞳を思い出した。たしかに迷いのない目だった。躊躇いのないその瞳の力が思い出された。亮太の過去について話していたとき、彼女は凛と強い存在に感じた。それなのにこの前、さくらに狂気を向けたときは、彼女の存在がこの世のものとは思えないほどの異質な力を感じた。そのときの目はいままでの千絵にない、空虚な目をしていた。

「千絵さんはもしかしたら亮太が将来、過去のことを調べに私の元を訪ねることになるかもしれない、そのときに、亮太に事件のことを知らせずにうまく納得させてほしいと彼女に頼まれました。私は亮太に対して負い目を感じていたので、千絵さんに協力をすることを約束しました」
 
 そして実際に、十年後、さくらが亮太の過去を調査しはじめたので、千絵は井口を紹介した。

「千絵さんは辛島亮太のままだったら、事件のことが露見しやすいと思ったのでしょう。引っ越してから亮太の姓を変えていました。あなたと亮太が私に会いたいと千絵さんから聞いたとき、そのことを知りました。だから亮太のことを辛島と呼ばないでほしいと言われました。クラスメイトにあなたを紹介するときにも、彼らにはそのことを伝えました」
 
 たしかに井口もクラスメイトたちも亮太の苗字を口にしなかった。
「事件のことを聞いたとき私は亮太の父親に虐待のことを知らせたことにいまでも後悔を感じています。虐待を知りながら、私は自分の力では解決せず、亮太の父親に知らせることでその問題を棚上げしてしまった。それなのに私はクラスの卒業の日、すがすがしい気持ちでした。良いクラスだった、良い担任だったと自惚れてまでいた。亮太が思い悩み、彼の父親が母親を殺害した日に」
 
 井口は頭を数度振った。自責の念に駆られているのだろう、彼が記憶をよみがえらせている姿が痛々しく思えた。
 
 うつむきがちに話していた井口がさくらに向き直った。さくらと視線が合う。

「ただ、あなたに会って亮太のことを話しているとき、これでいいのだろうかずっと心に思っていました。あなたの純粋な気持ちに、真実を隠しているのがつらかった」
 真正面から受けた井口の眼光は、教育者のころの井口に戻ったようであった。彼の道義心がさくらに真実を伝えるべきと判断した。しかし、それを汚れなく受け止めるための正義がいまの自分に持ち合わせているのかさくらは不安になった。

「千絵さんが倒れたと聞き、私は決心しました。さくらさんに私の知っているすべてを伝えようと。それを亮太に伝えるかはさくらさんに任せます」

 井口がさくらに伝えたかった真実は、予想以上にさくらの背中に重くのしかかってきた。すでに覚悟を決めていたつもりだったが、この重みに耐えられるかどうかさくらは迷いを感じはじめていた。



#38へつづく

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?