三石陽平
コレクションのベースボールカードでチームオーダーを作成。2022年シーズン終盤時の記事です。
亮太(死神)7 黒猫が死んでいる。魂が抜かれ、肉体だけとなった黒猫が花びらを咲かせた桜の木の下で死んでいる。まるで死んでしまった猫の血を養分にしているかのように、この桜の木の花びらは赤が濃い。 手に持つナイフを体の前に差し出す。自分の意思ではない。自分の体はすでに乗っ取られている。 遊歩道にさくらが現れた。心配そうな表情でこちらを見ている。そして歩き出し、こちらへ向かってくる。 怖くはないのだろうか。ナイフを持った男になぜ近寄って来るのだろうか。さくら
さくら 24 十年前は裸だった桜の木は、いまは薄紅色の花びらを蓄え、穏やかな春の陽気に合わせ、この瞬間に最高のパフォーマンスをしている。それは雲のない今日の青い空に見せつけるようにも思える。 川を挟んで両端にある遊歩道が、桜の花びらの屋根に覆われ、橋の上からはよく見えなかった。それでもさくらは彼がこの場所にいると確信があった。よく見ると、桜の花びらに覆われて、見えないと思っていた遊歩道の一部だけ凹んだ部分があり、そこから遊歩道の一部分が覗けた。さくらから右手側の桜の列で
亮太 6 空の青さに導かれるように、亮太が行く場所に躊躇いはなかった。ふらつくような足取りで、逃げるようにその場所へ向かっている。 先ほどまでの割れるような頭の痛みは、いまは心拍と同じような感覚で、鈍い痛みがある程度に治まっている。 千絵の病室に来た刑事たちはおそらく亮太を探しているだろう。刑事から渡されたナイフはいま亮太が持っている。刑事たちにしてみればナイフを奪い取られたとなると大変な失態だろう。いまごろは血眼になって亮太を追っている最中のはずだ。 た
亮太 5 千絵の病室のドアがノックされたとき、亮太は浅い眠りのなかにいた。病室の窓から入ってくる風が温かく、椅子に座りながら、うとうととしていた。だから、そのノックの音はまどろみを遮る雑音にしか聞こえなかった。 反射的に音のする方を向くと、背広姿の男が入ってきた。黒ぶちの眼鏡をかけた、痩せ型で背が高い男だ。その後からもう一人入ってきた。こちらは重心が低くどっしりとした印象だ。白髪交じりで、顔は皺が多く、とっつきにくい印象を受けた。眼鏡の男が背広の内ポケットからなにやら取
さくら 22 さくらは井口と会った次の日、市民図書館へ足を向けた。井口から訊いた事件のことを調べるためだ。織田が殺害された同じ日に、そこから遠くない場所でも殺害事件があったことなど、さくらは覚えていなかった。 十年前、織田が殺害されたとき、さくらはその事実を受け入れることができず、大学に入学するまでの休みの期間なにも手につかなかった。食事をし、睡眠をとり、織田のことを意識して考えないようにして、ただ生活をこなすだけの日々を過ごしていた。 大学に入学してから新しい生
亮太 4 千絵が意識をなくしてから十日が経過していた。そのあいだ亮太はウィークリーマンションから千絵の入院する病院まで毎日通っていた。 亮太は自分に眠っているはずの記憶をよみがえさせる理由でこの町へ来た。始めは二週間の予定でウィークリーマンションを借りた。それが、千絵が入院することになってしまい、これからどれくらいの滞在期間が必要なのか目途がつかなくなってしまった。とりあえず亮太はウィークリーマンションの延長を申請し、千絵の回復を待つことにした。 千絵の病室に行く
さくら 21 「私が亮太の父親に伝えたことが、すべての原因だったのかもしれない」 抑揚がある井口の言葉が弱くなり、彼の後悔の念がその声に含まれていた。言葉が発しられた瞬間、まるで周りの空気に緊張が走り、彼をこれ以上刺激しないように熱を下げたかのようだ。 「亮太が母親から虐待を受けていることを私は亮太の父親に知らせてしまった。そのことが間違っていたことだと当時の私には気づかなかった。そればかりか正しいことをしたのだと思っていた。すべてうまくいくはずだ。良い方向に向かっ
千絵 6 「僕は知っていたよ。母さんが本当の母親ではないということ」 手のひらから伝わってくる熱は、千絵の意識の底に伝わっていた。ただ千絵はなにも反応はできず、亮太の言葉もすべては理解できていない。 「だから、そんなに僕を守る必要なんかなかったのに」 亮太の声が聞こえる。 「あのときも僕を守ってくれたのは、母さんだね」 千絵は無意識に過去を見ていた。千絵が命に代えてでも亮太を守る覚悟ができたときのことを。 「僕と一緒に亮太を育ててくれ」 強く握り締められた
さくら 20 待ち合わせをしたファミリーレストランに井口は時間通りに現れた。この前のランニングウェアとは違い、ベージュのスラックスに、黒のポロシャツを着ている。神妙な面持ちでさくらの前に座った。これから井口が話す内容には、決して穏やかではない事柄が含まれているのだろうと予感が漂い、さくらの気も引き締まる。 さくらの携帯電話に井口から連絡があったのは、昨日の夜だった。千絵が入院してから一週間は経っていた。 千絵の入院を知ってさくらの携帯電話に連絡を寄越したらしい。千
亮太 3 さくらと別れ、亮太は千絵がいる病室に戻った。ベッドで眠る彼女の表情は先ほどと変化はない。亮太が持っている記憶の一番古いときからいる千絵は、十年前よりもすっかり痩せてしまった。目を閉じて眠る彼女の姿を見ていると、自分には千絵のためにできることがなにもないという絶望が込み上げてくる。 衰弱した千絵の顔は亮太と全然違っている。自分にはない精錬された美しさが備わっている「亮太はお父さん似だから」と、千絵は鏡を見ながら肩を落としている亮太を、背中からよく慰めていた。
さくら 19 きっと心のどこかでいつも思っていた。こうして言葉として聞くと、これまで小説を書くという行為に近づかないようにしていたことに気づいた。その行為は織田も近くにいて、どうしても織田も共に想起し、さくらの心をかき乱せると知っていたから。 織田が死んでから『約束の日』までの十年間、心のなかに存在する織田は十年前の姿のまま、さくらの記憶に居つづけ、しかもその記憶の織田はさくらの下らない冗談に付き合って笑ったり、絵を描く真剣な横顔だったり、さくらを抱き締めたときの恥
さくら 18 さくらが病室に入ると千絵はただ眠っているように見えた。呼吸器はつけておらず自発呼吸はしているようだ。ベッドの横に置かれてある心電図のモニターのグラフが規則正しく波打っていて、一見したところ命に危険はなさそうだ。 「意識がまだ戻らないんだ」 千絵の傍に座っていた亮太が振り向いてさくらを迎えた。その顔は寝ていないのだろう、ひどく疲れている様子だった。 亮太は立ち上がり、さくらに千絵の横に座らせるように促した。 「自分で呼吸もしているし、脳にも特に異常はないら
亮太 2 店内は食事に来た人たちで賑わいを見せはじめている。先ほどまでいた学生たちはいなくなり、外の景色はすっかり陽が落ちて空は暗い。その空に抵抗するかのように人工的に作り出された白色の光がいたるところの建物から点在していて、人が住むところと区別をしている。その光景が亮太を人恋しくさせ、さくらに会いたいと思った。その感情はどうやっても抗えることはできず、胸に動悸を覚えるほどだった。 約束の時間から二時間が経過している。 湧き上がってくる感情は徐々に焦りを伴い、落ち着か
三章 淀桜 亮太 1 運ばれてきたアイスティーにミルクを注ぐと、グラスのなかの氷がバランスを崩して音を立てた。ストローで混ぜると氷がぶつかってさらに音が増す。本多亮太はその音が耳に心地よく、必要以上にアイスティーを混ぜた。 さくらと待ち合わせた時間より二十分が過ぎている。前にさくらと千絵と三人で話をしたファミリーレストランだ。夕暮れの時間、店内はオレンジの光が射し込んでいる。外を見ると夕日に染まった街並みが美しくて少し優しい気持ちになる。亮太が入店したときから騒いでい
千絵 5 黒い空が見える。 いつの間にか陽は沈んで、空は暗い。僅かに点滅する星で、まだ目を開けていられることをやっと理解する。 体に張り巡らされていた糸が切れてしまったかのように、自分の体はいうことを利かなくなってしまった。いま、できそうなことは、目を閉じることだけだ。 おそらく目を閉じてしまえば、再び開けることはできないだろう。確信に近い予感が、千絵に諦念を抱かせる。 目の前に闇が迫っているのに恐怖が襲ってこないのは、ついさっきまで自分の体が操られた現実がそれを
さくら 17 千絵の告白は衝撃を覚える内容であった。さくらはまだ体の震えが止まらず、呼吸が不安定になっていた。 千絵と別れてから、すっかり陽は落ち、歩き出すと視界が狭く感じられる。世界が急激に狭まったようで、全身の細胞が密集し、圧迫されている気分になった。 千絵の口から聞かされた亮太の過去は、千絵が亮太を虐待し自殺に追い込み、亮太は記憶が失われた。千絵は過去を書き換え、いじめが苦で亮太は自殺したことにした。そのために卒業アルバムまで千絵は細工をしていた。 たかが半人前