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「クルイサキ」#28

さくら 17

 千絵の告白は衝撃を覚える内容であった。さくらはまだ体の震えが止まらず、呼吸が不安定になっていた。
 千絵と別れてから、すっかり陽は落ち、歩き出すと視界が狭く感じられる。世界が急激に狭まったようで、全身の細胞が密集し、圧迫されている気分になった。
 千絵の口から聞かされた亮太の過去は、千絵が亮太を虐待し自殺に追い込み、亮太は記憶が失われた。千絵は過去を書き換え、いじめが苦で亮太は自殺したことにした。そのために卒業アルバムまで千絵は細工をしていた。
たかが半人前の他人に受け止められるほどの過去ではなかった。たかが気まぐれの好奇心だけで詮索していいほどの問題ではなかった。
 無責任に人の過去に足を踏み入れ、無自覚に行動していた。そこまでして自分はいったいなにを手にしたかったのだろう。なにを自分に期待していたのだろう。
 いまは後悔している。亮太を思うと、現実はさくらの手に余り抱えきれなくて、いまにも潰されてしまいそうなほどに残酷だ。
 約束の時間はすでに過ぎていた。これから亮太と会う予定だ。亮太には当時の先生とクラスメイトに話を聞けることになったと報告していて、その成果をこのあと亮太に伝えることになっている。
 どこまで亮太に伝えていいものかと、考えながら歩いていると、いつの間にか見知らぬ住宅街に入り込んでいた。もしかしたら、亮太に会うのが怖くて、本能的に自ら道に迷ったのかもしれない。知らない場所に身を隠して、約束を反故したかったのだろうか。
 道路に等間隔に設えた街灯の真下に来るたびに、さくらは足を止める。いま抱えている葛藤の答えを探してくれるようだったから、そしてさくらの本心を照らし出してくれるように思えたから、光を求めていた。だけど、街灯のどの明かりでも、純粋たる心を照らし出すにはあまりにも貧弱すぎる。
 さくらはさらなる光を求めて空を見た。
 空には光が乏しかった。夜空に懸かる雲の動きにはぐらかされるように、さくらの葛藤はゆらゆらとうごめいている。何度となく空にアプローチをしても、答えを導いてくれる気配は一向にない。
 そのまま彼に伝えてもいいものか。さくらでさえすんなりとは受け入れづらい内容を、本人が素直に納得できるとは到底思えない。
 亮太が求めていることはわかっている。充分に理解している。彼は嘘の報告など求めていない。ただ真実を知りたいはずだ。
 だけど、それを伝えるのがつらい。
 亮太の痛みはさくらと分けあえることはできない。記憶をなくした過去に戻って、慰めることもできない。自分の無力さを痛感し、さくらは胸が痛くなる。
 結局、彼のためになにもできないのだ。空からその事実が落とされたかのように、さくらは無力感に支配された。耐えきれずにその場に座り込んでしまい、しばらく動き出せる気がしなかった。

 どれだけ逡巡しても、答えは訪れてこない。この町の夜は、曖昧な光が散在し、漆黒の闇は来ない。自分の居場所が確認できるほどの明るさが、さくらの判断をさらに鈍らせる。どこかに都合のいい答えがあるような気がして、まだ覚悟ができないでいる。
 時計を見ると一時間以上はこの場にいたことを知り、さくらは焦りを覚えた。約束の時間から二時間は過ぎてしまっている。彼はきっといまもさくらが来るのを待っていることだろう。
 亮太になにを伝えていいのかは、まだ決めかねているが、これ以上彼を待たせることはできない。なにも成果はなかったと伝え、先延ばしにするしかない。さくらは約束の場所に向かうために立ち上がった。
 視界が高くなった瞬間、人影を認めた。それはさくらに向かっていた。距離にすれば二十メートルほどだろうか。早足でさくらに近寄ってくる。
 躊躇のない足取りにさくらは奇妙な感覚を覚えた。距離が詰まってくるごとに息も詰まり、急激に不安感が押し寄せてくる。
 十メートルほど先の街灯の下に、その人影が入ってきた。明かりに照らされ、さくらは目を見張った。
 千絵だった。街灯の明かりを嫌がるかのように、光が届かない程度の位置で彼女は立ち止まる。さくらと対峙した。さくらは声を掛けられない。それは千絵の様子が明らかにおかしかったからだ。
 千絵は息を荒げ、瞳孔が開いていた。さきほどまで顔を合わせていたときの生気はまったく感じられなかった。
 まるで悪魔が乗り移っているかのようだ。魂を奪われ、千絵の肉体が操られているのではないか。さくらは奇異な彼女を目の前にして、全身に恐怖が駆け抜けた。
 畏怖するさくらを、千絵はまるで興味がないように眺めている。彼女の視線の焦点はさくらではない。彼女の定まらない視線は一体なにを捉えているのだろうか。
 そして彼女が差し伸べるようにして出した手にはナイフが握られていた。さくらは彼女の殺意を認識した。
……わたし、殺されるの?……
 言葉にならない感想が心に落ちていった。落下する先に覚悟がある。宙を飛ぶことができない自分には抗えることができず、迫り来る運命を受け入れるしかない。さくらは体が縛られている感覚になり、視線の先にあるナイフを見つめる。
 逃げようとしても足が思うように動かず、しりもちをついた。そのままの格好で後ずさりするのが精一杯の抵抗だった。
 千絵はゆっくりと迫って来る。殺人マシーンのような手馴れた様子でさくらを仕留めようとしている。
「ちょっと待ってください。落ちついてください」
 ようやく出た言葉は、あまりに他人行儀で説得力に欠けていて、随分、落胆した。すっかりあきれてしまったほどだ。
 千絵はその言葉に耳を傾けず、間合いを詰めてくる。見上げる彼女の表情は能面のようになにも感じられない。
 刃先がどこからかの光を拾い、さくらの視界に向かっている。標的は自分と宿命づけられた気味悪さを感じ、恐怖が一気に押し寄せてくる。
 亮太の過去を知ってしまったから殺されてしまうのだろうか。千絵の触れてはいけない過去を知ってしまったからなのか。だけどいま目の前にいる千絵の目には感情がない。彼女の意思をも感じられないのだ。
 このまま訪れようとする奇禍にさくらは抗えなかった。体は震え、心は恐怖が支配し、立ち向かう気力は残されていなかった。
 さくらは目の前が暗くなっていくのを感じていた。千絵が光を遮り、さくらは混乱し、現実の世界から遠ざかっていく。
 ぶつかる音と共に視界が開けた。彼女がその場で倒れたことを混乱する頭のなかで理解できた。何者かが覆いかぶさるようにして、千絵の身動きを封じている。
 彼女の手からはナイフは離されていた。さくらは地面に転がっているナイフを這い蹲りながら拾った。震える手はナイフを揺らし、さくらの動揺を表しているようだった。
 動揺を鎮めてくれたのは亮太だった。彼は震えるナイフをさくらからそっと取り上げ、さくらの空になった手を握り締める。
 彼から温度が伝わって、ようやく心が静まった。
 亮太と視線が合う。近い距離で見る亮太の瞳に吸い込まれると、懐かしい感覚を抱いた。なぜか居心地のいいその既視感はさくらの記憶を風のように横切って、心を少しだけ騒がせる。
 亮太に出会う前に、この瞳を見たような気がした。それは確信に近いように思えたのだが、その正体が掴めず、さくらを混乱させた。だけどなぜか心地よく感じる既視感にさくらはそのまま彼に身をゆだねていた。


#29へつづく

「クルイサキ」#29 

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

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