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「クルイサキ」#31

亮太 2

 店内は食事に来た人たちで賑わいを見せはじめている。先ほどまでいた学生たちはいなくなり、外の景色はすっかり陽が落ちて空は暗い。その空に抵抗するかのように人工的に作り出された白色の光がいたるところの建物から点在していて、人が住むところと区別をしている。その光景が亮太を人恋しくさせ、さくらに会いたいと思った。その感情はどうやっても抗えることはできず、胸に動悸を覚えるほどだった。
 約束の時間から二時間が経過している。
 湧き上がってくる感情は徐々に焦りを伴い、落ち着かなくなる。込み上げてくる思いは、もはやさくらに会うことでしか解消できそうもなかった。亮太は襲ってくる動悸から逃れるようにして店を出た。
 
 十年後の約束の日、彼女を遠くから見た。亮太は約束の木のある遊歩道の川を挟んだ反対側でさくらが来るのを待っていた。戸板橋から数えて七本目の桜の木の前に女性が来たことを認めると亮太は彼女の元へ向かった。
 待ちわびていた瞬間が直前まで迫り、亮太は身震いを感じていた。橋を渡りきり、女性がいる遊歩道に足を踏み入れる。まだ彼女の姿は遠いが、同じ道の先にさくらがいる。十年近く待っていたけれど、いま彼女の姿がまっすぐな道に存在している。これまで過ごした時間はこの場面に繋がっていた。
一本目の桜の木の前を通り過ぎる。鼓動はさらに不規則になり、手足の感覚が麻痺していると疑うくらいに鈍くなっている。二本目の桜の木の前を過ぎる。彼女はなにやら筒から賞状らしきものを取り出す。三本目の桜の木を過ぎる。彼女がその賞状らしきものをずっと見ている。四本目の桜の木の前を過ぎる。乱れる呼吸が聞こえる。亮太は歩く速度を落とし、平静を保とうとする。五本目の桜の木の前で亮太は立ち止まった。彼女の顔がはっきりと見えた。賞状らしきものを手にしたまま、空を見上げていた。彼女を知っている。その彼女との記憶は思い出せなかったけれど、充実した既視感が込み上げてきた。それが再会というべき出会いであるかは、亮太にはまだはっきりとわからなかった。ただ、彼女に運命めいたものを感じ、二人はこれから出会うべきして出会うのだと亮太は信じた。そして記憶がなくなる以前にすでに愛していたのだろうとしか思えないくらいに一目で彼女を愛した。心臓の高鳴りはすぐに沸点を越え、急激に押し寄せてきた感情は自分の体の容量では抑えきれないほどで、体内を巡る血液の躍動さえも体を破れんばかりに感じられた。
それまでの時間はこの瞬間のためだったのか。彼女を見つけた亮太は十年間の重みが一瞬にして吹き飛び、彼女の元に駆け出した。六本目の桜の木の前で彼女が空に向かって声をあげた。反射的に亮太は立ち止まり返事をした。
そして、彼女に近づき七本目の桜の木の前で再会した。彼女は必ず自分を覚えてくれているはずだと確信があった。
 しかし、彼女は自分のことを覚えていなかった。亮太は混乱する。もしかして彼女も記憶をなくしてしまったのではないかと疑った。
 なぜ彼女の小説を持っていたのか?そしてなぜ彼女に運命を感じたのだろうか。亮太は逡巡した。
 彼女との会話のなかでも、自分と彼女の繋がりは小説しか見い出せなかった。だけどその小説もなぜ亮太が持っているか彼女もわからないと言った。彼女は自分ではなく違う人に渡したのだと言った。
 あの小説は自分のために書かれた小説ではなかったのか。ましてや、他の誰かのために書かれたものだった。
 そのとき、亮太の心のなかで急激に湧きあがってくる感情があった。それは嫌悪感に満ちていた。吐き気がするほど醜い感情で自己嫌悪を覚えた。
 十年間眠っていた感情が彼女と出会ったことで、次々と起き出した。もう大人になったと思っていたが、まだいろんな感情が眠っていた。彼女への気持ち、そして彼女を独占できていない現状に対する苛立ちが複雑にこんがらがって心を乱した。
 まだ眠っている記憶と共に、もしかしたら自分にはもっと危険な感情が眠っているのかもしれないと亮太は思った。

 外の空気は自分の体が火照っていたことを知らせるには充分過ぎるほど冷たく、まるではやる気持ちの亮太を諭すかのように冷静な態度で亮太を迎えた。
 さくらはいま何処にいるのだろうか。何の手がかりもなく、亮太は周囲を見渡す。当てなどなかったが、足を踏み出した。
 街灯の光が乏しい通りを亮太は周囲を窺いながら小走りしていると、歩道に設えてある植え込みに眠ったように横たわっている猫がいた。興味本位で近づき、注意して見てみるとその猫は死んでいた。まったく外傷はなく、少しくすみかかった白色の毛並みをしたその猫は、わずかな光に照らされ、まるで魂だけを奪い取られたかのように、神々しい。
 そのとき激しい頭痛が亮太を襲った。
 頭が割れんばかりに響いている。強い握力で頭を握り締められているかのようだ。たまらず亮太はその場でうずくまった。
 痛みのある部分はもはや自分の体の一部ではなく、新たに生み出された意思のある生物のようだ。その生物の鼓動が亮太の頭のなかで反響している。決して共存してはいけないという本能が働いて、なんとか自分にしがみついている。気を許すとすぐにでも意識を奪われそうになり、亮太は頭を強く何度も叩いて、抵抗する。
 そのあいだに映像が見えた。途切れ途切れで正体がつかない映像が三段跳びをするかのように、距離を急激に縮めながら脳裏に迫ってくる。
 猫の死体だ。先ほど見た猫ではなく、記憶に映し出されたその猫は黒色の毛をしている。
 その猫の顔がこちらを向いている。絶命の瞬間に目を疑うようなことがあったのか、猫は目を大きく開き、彼を見ていた。
 彼は赤い首輪を持っていた。引きちぎられいてすでに輪の形状は成していないが、それは横たわる猫から引きちぎられた首輪だと彼は知っていた。
 猫の死体を見つけ、亮太の過去の記憶がよみがえってきたのだろうか。亮太は頭に手を当てながら痛みが引くのを待っていると、女性の声が聞こえた。亮太は直感的にさくらが呼んでいると思った。亮太は立ち上がり声のする方向へ駆け出した。
 街灯の真下、白色の空間に探していた人はいた。さくらは座り込んでしまっていて、腰が抜けているかのようだった。さくらの向かいには亮太に背を向けた女性が立っていた。スポットが当たっているかのように、二人の空間は別次元にあった。異変を感じた亮太は走る力を強めた。
 二人まで五メートルほどに近寄ったとき、さくらと対峙していた女性の顔が見えた。目は焦点が定まっておらず、顔が青白かったが、その女性は千絵だった。街灯の明かりのなかで彼女は魂を奪われたかのように、とても生きている人間に見えなかった。
 千絵にはナイフが握り締められていた。それを確認したとき、再び頭が割れるほど響きはじめた。フラッシュバックが襲ってくる。頭のなかに映像がよぎった。亮太は反射的にその映像は恐怖が宿っていると感じた。だから亮太はその映像から逃れるかのように千絵の体に体当たりした。千絵がさくらから遠ざかり、もつれるようにして亮太と千絵は倒れた。千絵の手からナイフが離れた。ナイフの先の光がひどく禍々しく感じられた。亮太はそれを見ていることができず、立ち上がると反射的にナイフを蹴って遠ざけた。
 千絵は糸が切れた操り人形のように、その場で仰向けに倒れ、動かなかった。
 亮太はさくらの様子を窺った。さくらはナイフを手にしていた。体を震わせその場に座り込んでいた。亮太が近づきさくらの手からナイフを慎重に奪い、彼女の震えた手を握り締めた。視線が合うと、彼女は身をこちらへ寄せてきた。
 目の前にさくらがいた。亮太はナイフを地面に置き、彼女を抱き締めた。


#32へつづく

「クルイサキ」#32


「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


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