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「クルイサキ」#36

千絵 6

「僕は知っていたよ。母さんが本当の母親ではないということ」 
 手のひらから伝わってくる熱は、千絵の意識の底に伝わっていた。ただ千絵はなにも反応はできず、亮太の言葉もすべては理解できていない。
「だから、そんなに僕を守る必要なんかなかったのに」
 亮太の声が聞こえる。
「あのときも僕を守ってくれたのは、母さんだね」 
 千絵は無意識に過去を見ていた。千絵が命に代えてでも亮太を守る覚悟ができたときのことを。


「僕と一緒に亮太を育ててくれ」
 
 強く握り締められた手から彼の切迫感が伝わってくる。真正面にいる洋介の視線が千絵の瞳を通り、胸のなかにまで届いた。彼の言葉は神聖な誓いのように、彼女の胸を痺れさせ、心臓を躍動させる。彼が心に入ってくることで自分は生きていられるのではないかという錯覚までした。
 
 洋介には一人の息子がいる。前妻との間にできた子供で、いまはその前妻が引き取り育てているらしい。名前は亮太で今年小学校を卒業すると洋介から聞かされていた。
 
 千絵と洋介の二人はすでに結婚を決めていた。昨年末に洋介からプロポーズを受け、彼のマンションに住み、すでに二人で生活を始めていた。
 
 亮太を引き取りたいと聞いたのは二月の上旬頃だった。亮太が前妻から虐待を受けていると洋介の口から伝えられた。
 
 亮太の担任から洋介に連絡があったらしい。亮太が母親から虐待を受けているという連絡だった。亮太の担任は洋介が離婚したことは知っており、母親が亮太を育てていることも知っている。実際に母親の元にもその担任は話し合いに行ったのだが、ますます虐待がひどくなってしまった。そして洋介のところに相談したのだという。
 
 洋介は担任の話を聞き、前妻のところに向かった。前妻は面会に応じず、亮太とも会わせてもらえなかった。洋介はそれで彼女が本当に虐待しているのだと確信したという。そして亮太を引き取ることを決意した。
 
 洋介から亮太を一緒に育ててほしいと言われても、千絵は不思議と戸惑いを感じなかった。愛した彼の子供を、まだ会ってもいないのに愛しいと思えた。千絵は使命感に身を震わせた。これから家族三人で暮らしていく、そんな想像をすると幸福感が心で潤っているのが実感できた。なにも問題はない、自分が亮太の傷を癒し、彼の母親として立派に務めあげる、そんな決意が自然と胸に込み上げてきた。
 
 亮太の卒業式の日、洋介と二人で亮太の元に訪れた。すでに先方には千絵と洋介の二人が行くことを伝えてある。千絵は亮太と会うのは初めてで、緊張をしていた。
 
 今日は洋介が千絵を亮太と前妻に紹介するくらいで終わるだろう。それでも亮太を引き取る決意を表明しておく必要があった。虐待の事実を亮太の母親にぶつけ、あなたに亮太を育てられないと、母親失格だと批難し、強硬な態度を示さなければいけない。
 
 自分は母親失格だと言える権利はあるのだろうか、という考えは心の片隅にあった。子供を産んだことがない、育てたこともない千絵が実の親子関係を破壊してもいいのだろうか。亮太たちに会う直前になって千絵は不安を覚えた。洋介に亮太の母親になってくれと望まれたときに生まれた使命感がその不安によってぐらついてきた。血の繋がりのない自分に亮太の母親が務まるのだろうか。
 
 千絵は心に葛藤を抱えたまま、亮太が暮らすアパートに来た。二階の一番奥の部屋が亮太たちの住まいだと洋介から聞かされた。
 
 洋介の後を追い階段を上りきると、千絵は立ち止まってそこから景色を眺めた。まだ会ってもいない亮太はいつもこの景色を見ている。そう思うと、まだ見ぬ亮太が愛しく感じられ、千絵の背中をひと押しした。大丈夫、自分は愛した洋介の子供も同じように愛することができる。
 
 洋介はすでにドアの前で呼び鈴を鳴らしていた。遅れて千絵がドアの前に行く。彼が数回呼び鈴を鳴らしても返事はなかった。彼は携帯電話を取り出して、前妻に電話した。
 着信音がドアの向こうでした。洋介が再びドアをノックすると、そのドアが開いた。
 
 扉の向こうに男の子がいた。洋介が亮太と呼んだ。その男の子、亮太は彼に視線を送り「お父さん、ごめんなさい」と呟くように言った。千絵が「どうかしたの?」と訊くと、亮太は千絵に視線を移した。
 
 その瞳の光は純粋たるもので、彼がこれから言う言葉が千絵にはすぐには理解できなかった。その「お母さんを殺してしまった」と、千絵に言った言葉が、まるで迷子になってしまった少年が口にしたように思えて、千絵の力でもすぐに解決できるだろうとその瞬間は思った。
 
 だから千絵は「大丈夫だよ」と答えていた。
 
 亮太の目線になるように腰を屈めた。すると亮太の手にナイフが握り締められているのが目に入った。
 
 千絵はそのときにようやく亮太の言葉を理解した「お母さんを殺した」という亮太の声は、本当に少し前に耳にした言葉なのに、一度耳を通り過ぎていき、また帰ってきたかのような感覚がした。一度千絵の元を離れ、亮太が発した力よりも巨大化して戻ってきた。すでに千絵に手に終えない現実を伴って目の前に出現した。実際に目の前にいるナイフを持った少年が、脅威となって迫ってくる。千絵の身を怯えさせ、頭を正常に働かせることができなかった。洋介に手を取られるまで、ただその場で亮太と対峙していた。
 
 洋介に手首を掴まれ引っ張られるようにして部屋に入った。足を動かしたことで、ようやく呆然を脱することができた。
 
 リビングには床にうつぶせになっている女性がいた。首には紐状のものが巻かれていた。
 
 洋介が女性の頭上で屈み、彼女の顔を覗いた。それから千絵に向かって絶命していることを伝えるように首を振った。
 
 千絵は事の重大さに言葉を失った。洋介が死体の首に巻かれていた紐状のものを外し、目の前で掲げた「この縄跳びでお母さんを締めたのか」と亮太に言った。亮太は無言で頷いた。手にしているナイフではなく、いま洋介が手に持っている縄跳びで殺害をしたらしい。
 
 それから洋介は部屋をぐるりと見渡した。そして死体の足元にあるテーブルに視線を止める。テーブルの上には手紙が置いてあった。よく見るとその手紙には『い書』と書かれていた。
 
 洋介が縄跳びを床に置き、その手紙を手に取った。亮太に向き直る「亮太が書いたのか」その洋介の表情は無念さが滲み出ていた。

 亮太が言い訳をするように涙声で洋介になにか伝えようとするが、うまく言葉が出てこない様子で過呼吸になっていた。洋介は亮太の両肩に手を乗せる。千絵は膝立ちになり亮太の背中をさすった。そしてようやく、亮太は千絵たちに伝えた。

「お母さんにナイフを向けられて、遺書を書けと脅されたんだ。そして遺書を書かされたあと、卒業アルバムを持ってこいと言われて、そのまま目の前で今日僕がもらった卒業アルバムにマジックで落書きしていった。嫌な言葉ばかり、そのアルバムに……お母さんは狂っていた。そしてこのナイフを僕に向けて死んでくれないと、お願いされた」
 亮太は泣くのを堪えるようにして、何度も息を詰まらせながら、千絵たちに語った。
 
 そしてまた卒業アルバムに落書きをしはじめたときに、後ろから首を絞めたと亮太は言った。亮太が手にしているナイフはやはり使用していないらしい。

「僕、どうすればいい?」
 
 亮太は千絵を見ていた。洋介ではなく、初対面である千絵に助けを求めていた。
 
 亮太と視線を合わせると亮太の目の純粋さがどんどんと汚れていくように思えた。救出することのできない千絵をその瞳で映すことで、亮太の心が汚れていくかのようだった。
 
 それは千絵の錯覚だろうが、その瞬間、自分の過去の行いが一気によみがえり、醜い感情が亮太に盗み見られたような感覚を千絵は味わっていた。千絵は耐え切れず、首を横に振って亮太の視線を外した。それは彼の救いの手を払ったのと同じであった。
 
 亮太は背中を見せ、部屋を飛び出していった。千絵はすぐに自分のしたことの残酷さを知り、亮太の後を追おうとした。
 
 そのとき洋介に呼び止められた。
 
 部屋には女の死体があって、洋介は息子の書いた遺書を手にしている。そんな状況でも洋介が千絵を呼ぶ声は、いつも通り千絵にとって優しい声だった。

「僕はこれから自首をするよ」洋介は床に落ちていた縄跳びを拾いながら言った。千絵はこれから洋介がすることを悟った。

「千絵、君と出会えてよかったよ」洋介が笑顔になっていた。それは失敗した料理を食べながら、千絵を慰めてくれるときと同じ笑顔だった。
 
 出会ってから三年ほど経った。彼は世間知らずの千絵の失敗をいつも笑って慰めてくれた。そんな彼と一緒にいることで、自分が自分でいられる喜びを感じることができた。その笑顔で千絵は幸福感を味わっていた。

「亮太をこれから育ててほしい。この前の約束を僕の分まで亮太に注いでほしい」
 
 プロポーズのときと同じように、洋介は千絵の手を握っていた。真正面の彼の笑顔がさらに弾けたと思うと、彼の目から涙が零れていた。嗚咽が漏れ、洋介はその場で膝をつき「亮太をよろしく頼む」と、頭を下げた。

「わかりました」千絵が了解すると、洋介は亮太のところへ行ってくれと、千絵の背中を押した。
 
 アパートから出て階段を下りた。一度、部屋を振り返り千絵は亮太を探して駆け出した。



#37へつづく


「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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