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「クルイサキ」#43

亮太(死神)7
 
 黒猫が死んでいる。魂が抜かれ、肉体だけとなった黒猫が花びらを咲かせた桜の木の下で死んでいる。まるで死んでしまった猫の血を養分にしているかのように、この桜の木の花びらは赤が濃い。
 
 手に持つナイフを体の前に差し出す。自分の意思ではない。自分の体はすでに乗っ取られている。
 
 遊歩道にさくらが現れた。心配そうな表情でこちらを見ている。そして歩き出し、こちらへ向かってくる。
 
 怖くはないのだろうか。ナイフを持った男になぜ近寄って来るのだろうか。さくらは知らないかもしれないが、二人の殺人を犯しているのに。それに加えて自分はいま死神に乗っ取られた体を持つ、元死神なんだ。知らせて逃げるように伝えたくても、その術は持ち合わせておらず、彼女に思いは届けられない。
 
 顔だけががさくらの方へ向く。さくらが近づいて来るのを待っている。ターゲットはさくらだ。なぜさくらをこの世界から消さなければならない理由も知っている。彼女はこの世界では特殊の能力を持つ人間だ。だから死神のターゲットになっている。
 
 十年前同じ指令を与えられた死神は過ちを犯してしまった。さくらに好意を持ち、彼女の命を奪うことができなかった。与えられた任務を放棄した。その報いは死の運命を定められた世界に行くこと。たどり着くところは死という永遠の無の世界だ。人間は死に行くための最後の行いなのだ。
 
 存在したときは永遠を知っていたはずだ。それが一時、記憶は失われ、いまの世界で生きることとなり、心のどこかで死を意識しながら、最終終着点の永遠の死に向かい時間に身を任せている。
 
 死ぬのは怖い。意識しないようにしても、意識せざるを得ないほど強烈な恐怖の力を持っている。
 
 それをさくらにも向けるのか。
 
 体は支配され、歯向かうことはできない。意思は無視され、視界でさえも思いのままにならない。さくらが向かって来る。逃げてくれと叫ぼうとするが、もちろん声も出ない。そして体もさくらに向かう。彼女に狙いを定めていた。
 
 手を差し出せば触れられる距離まで彼女は来た。それはナイフが届く場所だ。それでも、勿体つけるように、手を下そうとしない。さくらに視線を向けたまま微動だにしない。ただそのおかげで彼女を瞳にずっと映すことができている。
 
 花を満開に咲かせた桜の木の前に立つ彼女はとても綺麗だった。まるで永遠に咲きつづける桜の木のように、刹那的に美しい。花びらが舞い踊るなかで、彼女は憂いたまなざしを向けている。自分を心配してくれているのだろうか。ただ、いまこの視界に彼女は存在していることによって、彼女が危うい状況に置かれているのならば、彼女をこの視界から逃れさせなくてはいけない。死神の手の掛かる範囲から離れさせなくてはならない。それは自分の視界から、世界から、彼女を解き放つことである。さもなければ彼女をこの手で殺めてしまうのだ。彼女の存在しない世界はもう想像できない。だから彼女より先に自分の世界を終わらさなくてはいけない。だけど体は思うように動かない。自分の世界はすでに侵略されてしまった。
 
 彼女の声が聞こえる。彼女は視界に存在したままだ。彼女の潤んだ唇が開く「千絵さんが亡くなったわ」
 
 様々な感情が押し寄せてきた。だけど体は動かず、涙も込み上げず、発散することができない。千絵の優しい表情、声、手の温もり、千絵と触れた多様な記憶が受動する感覚を手一杯にするが、それにしても致命的に発散できる感覚が愚鈍すぎる。もはやなにも抵抗はできないのか。
 
 さらにさくらは言葉をつづける。そのひとつひとつに心が震える。さくらの声が身に染みる。冬の寒さで眠りから覚める桜の木のように、彼女の声が、動かせられない体に再び力を呼び覚ます。まだできる。まだ冬眠状態なだけなんだ。再び体を動かせるはずだ。なによりもさくらの声に反応したい。
 
 織田を殺害した。さくらが夢見ていたことを台無しにしてしまった。どれだけ謝罪しても言葉は足りない。それなのにまだなにひとつ彼女に言葉を届けていないではないか。生きているあいだに、彼女と触れ合えているあとわずかな時間で、彼女に思いを伝えなくてはいけない。
 
 十年前、さくらを初めて見たとき、任務の最中だった。思い返せばあのときは恋心なんてもの知りもしなかった。それが彼女が自分の世界に存在したとたんに、世界が変わった。
 
 世界に光が射し込み、いままで殺伐としていた感情が豊かになり、その光に感情のベクトルが向かう。その光源はさくらだった。だからさくらが悲しい表情を見せると、世界は侘しくなり、さくらが違う世界に行こうとするとそれを阻止した。自分がいる世界は彼女が中心に回っていた。
 
 視界のなかで彼女は生きている。生命の力を訴えている。ただいまは死神に狙われている。彼女を救うために、死神の手から解き放つために、なにができるのだろうか。
 
 自分の世界を取り戻すんだ。死神に体を操らせないようにすればいい。心を強く持とう。死神になんて心を支配されない。気持ちが彼女に伝えようと気力を探し、絞り出す。

「織田を殺したのはあなた?」彼女の言葉が突き刺さる。

 さくらから織田を奪ったのは自分だ。自分を見てほしかったから、自分を知ってほしかったから、同じ世界にずっといたかったから、彼女をずっと見たかった。彼女が手の届かないところに行ってほしくなかった。たとえ永遠を捨ててでもあの瞬間、彼女が自分の世界にいてくれればそれでいいと思った。だから織田がさくらを手に入れる前に、織田を殺した。
 
 さくらに謝らなくてはいけない。さくらに言葉を出して。そう願うと視界が鮮明になっていく。希望の光が射し込まれたかのようだ。気持ちを強くし、光をもっと大きく取り込むのだ。わずかな時間でいいから、自分の体を操れる時間がほしい。彼女に集中していると、ようやく彼女の問い掛けに反応ができた「小説おもしろかった?」彼女の声に時間をたくさん使ってしまったけれど「うん」と口を動かせた。勇気が一斉に湧いた。
 
 それでも自分の体の状況はまだ掌握しきれていないのがわかる。神経が朦朧とし、どの意思に従えばいいのか迷っている感じだ。

「殺してみる?」

 彼女の一言で死神が反応をしたかのように、体が震えだした。視線がナイフの刃先を見る。そして再び彼女に向いた。
 さくらが手を広げている。彼女に触れたい欲求に支配された。
 彼女に近づく。どの意思に従って体が動いているかはまだわからなかった。自らの意志は彼女に向かっていたが、死神の意志もそう体を動かしている可能性はあった。そして彼女に触れた瞬間、自らの意志が勝ったことを知った。触れた感触が熱を帯び、全身に伝わっていく。体中の細胞が覚醒していくのを感じる。十年間慣れ親しんできた体に再び吹き込まれた熱は、全身に喜びを満ちさせて、さらに高くなっていく。
 だけど喜びにいつまでも浸ってるわけにはいかない。自分にはわずかな時間しか残されてはいない。
 
 力づく彼女の唇をふうじた。それからの時間は永遠だった。彼女と唇を合わせているあいだ彼女から永遠を知れた。
 
 強い風を感じた。視界は閉ざしていたけれど、急に強く吹いた風は、きっと桜の木から飛び出したばかりの桜の花びらを舞い踊らせているのだろう。それまで永遠にしがみついていた桜の花びらは、桜の木から離れてしまえばもう戻ることはできない。そのことを受け入れられず狂い、あとは散ることしかできない。
 
 目を開けた。かろうじてまだ体をコントロールしていた。光がよみがえった視界が映し出した空は美しく、青だった。その空の下、青い空中に赤い花びらはやはり舞い踊っていた。
 
 彼女から離れると、束の間知れた永遠がするりと遠ざかっていった。この体に他の者が宿っているうちに永遠を終わらさなくてはならない。持っていたナイフの刃先を自分の方へ向け、強く押しつけようと、体に命令をした。だけど想像よりも愚鈍な動作になった。もしかして、体を再び乗っ取られてしまったのかと思った。最後のときはまだどちらの意思が体を動かしているのかはわからなかった。ただ望み通りにこの体にナイフを突き刺すことはできた。痛みはさほど感じなかった。
 
 この肉体から勢いよく飛び出していった赤い血は狂った血が混ざっていたのだろう、重力を無視し、空へ昇って行くようにして飛んでいく。この命が尽きてしまえばどこにこの体や意思は向かっていくだろう。身軽になった自身はたどりついたその場所からも彼女を知ることができるのだろうか。
 
 もうすぐに死が訪れようとしている。あれだけ死に怯えていたのに、いまはそんなに恐怖を感じない。死ぬのはただ産まれる前に戻るだけなんだ。これからは永遠に咲くさくらの下で、この魂は眠り、ずっとさくらに力を与えていけるのなら、死もそんなに悪くない。


#44 終章 残桜 へつづく

クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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