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「クルイサキ」#33
さくら 19
きっと心のどこかでいつも思っていた。こうして言葉として聞くと、これまで小説を書くという行為に近づかないようにしていたことに気づいた。その行為は織田も近くにいて、どうしても織田も共に想起し、さくらの心をかき乱せると知っていたから。
織田が死んでから『約束の日』までの十年間、心のなかに存在する織田は十年前の姿のまま、さくらの記憶に居つづけ、しかもその記憶の織田はさくらの下らない冗談に付き合って笑ったり、絵を描く真剣な横顔だったり、さくらを抱き締めたときの恥ずかしそうな表情だったり、いろんな姿を見せるものだから、織田を思い出すと、まだ生きているような錯覚を感じていた。
もう会えなくしまったとわかっているのに、あの日交わした約束で彼と再会し、その後を共に歩んでいく夢想を描いてしまう。そんなこともう叶わないことはとっくに知っているはずなのに。
だから織田の記憶を呼び起こすような行為は極力避けてきた。作家になると織田に宣言した手前、小説イコール織田に結びつき、小説のことを考えると織田が脳裏を駆け回る。そしてさくらの思考を麻痺させるのだった。
ただ亮太にこうして声にして言われると、自分がいかに脆弱な心だったことを知らされる。織田の死を受け入れられないために、小説を書こうとはしなかった。織田を言い訳にして、これまで逃げてきたのだ。彼に話した作家になるという願望は、織田がいなくても目指すことはできたはずだった。もう会うことができなくなった織田に伝えた夢を、本人がいなくなったといって放置していた。
目の前にいる亮太は織田ではない。亮太は生きているし、織田は死んでしまってもう会えない。亮太に顔を向ける。こうして向かい合うことができるのはお互いに命を燃やしているからで、それは決して当たり前のことではない。どちらかの命が尽きればそれはもう永遠に来ない。いま目の前にいる亮太の言葉は貴重で、小さな声でもさくらにしっかりと届く魂の込められた言葉を亮太は紡ぐ。
「僕はこの十年間、その小説に励まされてきた。過去の記憶を失ったことに絶望したときにその小説を読み、そして十年後にその作者に会えるかもとずっと期待をしていた。さくらさんが書いてくれた小説があったから、そんなに苦しい十年間でもなかった」
なんで自分が勇気づけられているのだろう。いま千絵が意識不明だというのに。本当はさくらが彼を励まさなくてはいけないのにと思いながらも、亮太の言葉が心に染みてくる。放置していた夢がかまってもらえることで、喜びを感じているかのようだ。
「さくらさんの小説をまた読んでみたい」
亮太の表情が真剣で、心から言ってくれているように思った。
「こんな下手くそな小説なのに。また読んでみたいの」
自分が十年前夢見たことの始まりは織田に感化されてのことだった。彼の描いた空の絵に感動し、自分も自らの手でなにか作り上げたいと思った。そして彼と夢を共有したかった。織田と共に夢を追い掛けることで、彼と同じ空にいたかったのだ。
織田がいなくなって、織田の理想としていた空はなくなってしまった。見上げてもさくらが追い求めていた空はなくなってしまい、そこに夢は置き忘れてしまったと思っていた。だけど隣で頷いている亮太を見ていると、また書いてみたいという欲求が沸きあがってくる。空は完成をしない。だけど完成を目指し、何度も失敗作を作りつづける。織田と共に見た空はすでに闇になってしまったかもしれないけれど、織田と見たひとつひとつの空は完成するために必要な空だったと思えてくる。
「だけどこの十年、まったく書いてこなかった。また書けると思う?」
さくらが尋ねると、亮太はなにかを思い出そうとするように、視線を空に向けた。そして空で捜し物を見つけたかのような表情を見せ、さらに得意顔になってさくらに言う。
「さくらさん、桜の木は冬の寒い時期があるから、花を咲かせることができるんだよ」
勿体つけた亮太の言葉にさくらは悔しいけれどはっとした。ただ亮太の言葉に感動したのではなく、過去に同じようなことを織田に言われたことがあったからだ。
さくらの記憶は十年前の冬の川辺の遊歩道を呼び出していた。あの日少し気まずかった織田と偶然出会い、さくらがうまく小説が書けないことを伝えると、織田はその言葉を用いてさくらを励ました。
「十年もの長い間、眠っていた花はどんなきれいな花を咲かせるのだろう。十年ものあいだ咲くのを我慢してきたのだから、ここぞとばかりに綺麗な花を咲かせると思うんだ」
亮太はさらに得意げになって言う。その姿が織田と重なった。
十年前の寒い冬の日の記憶がよみがえり、体内が妙に活気出した。織田と気まずかった時期、たしか飼っていた猫を追って、その場所に行くと偶然織田と出会った。あの日を思い出すと、また創作をしようという気になってくる。この十年間は良い小説を書くための期間だったと思いたい。
さくらは持っていた小説を膝に置き、両の手のひらを見た。十年前の冬の日、綿雪がこの手のひらで溶け、さくらの体内に浸みた。そのときの感触がずっと体内を巡回していて、亮太の言葉で呼び戻され、いまさくらを感懐させる。胸に押し寄せてくる強烈な熱は、きっとあの日の冷たかった感触が、体内を巡り、熱を帯びて熱情となり押し戻ってきたからだろう。
「その瞬間に立ち会いたいな」
亮太がふいに呟いた一言が妙にすっきり心に落ちた。枯れていた芽に待ち焦がれていた水が注がれたように。
作家を目指した理由は織田が描く空の絵がきっかけだった。彼の絵に触れると、感動の波が押し寄せ、自分も人に感動を与えたいと思った。そしていま目の前にいる亮太はさくらの小説をまた読みたいと言ってくれている。
「母さんもそれを望んでいる。その小説は僕が持っているもののコピーなんだ。母さんの鞄に入っていた。コピーをしてまで、さくらさんの小説を持っておきたかったんだろう」
さくらは手にした小説をめくった。なぜコピーまでしてさくらの小説を持っていたかったのだろうかと、疑問を抱きながらページを進めていく。そして最後のページになり、閉じたときに最後のページの裏側にそれはあった。
『さくらさんの言葉に勇気をもらいました。亮太をこれからよろしくお願いします』
小さく丁寧な文字で、申し訳なさそうに左端に配置されたその言葉は、さくらがこうやって見ることを前提に書かれたものだと思われた。
まるでもう亮太との関わりを断つような言葉だ。虐待をさくらに伝えた千絵は亮太にそのことが知られ親子の関係が消滅してしまうと予測したのだろう。
そしてこの小説のコピーはさくらに手渡そうとしていたのだろう、最後のページの言葉はさくらに向けて書かれている。
千絵はいつのタイミングでさくらに渡そうとしたのか。千絵は意識不明になり、おそらくは千絵の望んだ形でなく、おそらくはさくらに手渡される前に千絵が倒れてしまって亮太の手に渡ったのだろう。
もしも、千絵からさくらにこの小説のコピーを渡されたとしたら、千絵がさくらを襲う理由がますます理解しかねる。この言葉の意味をそのまま受け止めると、亮太に虐待をしていたことを後悔し、亮太の母親の資格はないとまで思いつめ、さくらに亮太のことを頼もうとしたと考えられる。
それなのに、なぜ千絵はさくらを襲ったのだろう。千絵の告白を聞いたさくらが亮太に伝えることを封じるために、千絵はさくらを殺そうとしたと思っていた。そう、彼女はさくらにナイフを向け、あの瞬間確かな殺意をさくらに向けていた。
だとしたらなぜさくらに亮太の過去のことを話したのだろうか。そもそも千絵の方からさくらに話をしてきたのだ。それならばわざわざさくらに告白をする前に、さくらの口を封じればいいのだ。千絵の過去の虐待のことをさくらに話す前に。それとも千絵の告白を聞いたあと、心変わりをしたとでもいうのか。
さくらが千絵の文字に目を落としながら、その意味について考えていると「母さんからなにか聞いているよね」と、亮太は言った。
はっとして亮太に顔を向ける。さくらは言葉に詰まり、二人のあいだに沈黙がつづく。
見つめる先の亮太の表情がにわかに不安げな表情に変わっていく。さくらが亮太にすぐに返事ができないのは、千絵から聞いた過去を亮太に伝えるべきか判断に迷っているわけでなく、亮太の放った言葉で、頭に浮かんだことがあったからだ。
千絵は本当に真実をさくらに伝えたのだろうか。
この十年間、千絵は亮太の過去の虐待を隠したいから、引っ越しまでして見知らぬ場所に移った。亮太が自殺を企て、記憶を失い、過去を亮太に知られないようにしてきた。それなのにさくらが亮太の過去を探るものだから、さくらを殺害して、亮太を虐待させていた過去を露見されないようにしようとした。
そこまでして亮太に虐待していたことを隠したかったのか。
だったらなぜさくらにそれを伝えた?
やはり疑問は堂々巡りし、さくらに納得できる答えが見つからない。それで亮太に千絵の告白のことを伝えてもいいはずもない。さくらは千絵の話をいまの段階では伝えられないと思った。
「千絵さんは君のことを本当に大事に思っている。だからもう少し待ってくれない。千絵さんの意識が回復したら、私が千絵さんを説得するから、千絵さんから話してもらおうよ」
「そうだね。いまは母さんが元気になるのを待とう」
亮太の声に覇気はなかった。さくらは千絵さんの容態を引き合いにし、時間稼ぎをしてしまったことに後悔が込み上げてきた。
亮太は「母さんのところに戻るね」と言い、院内に戻っていく。さくらは追い掛けることもできず、亮太の背中を見送ることしかできなかった。
#34へつづく
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