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「クルイサキ」#39

さくら 22

 さくらは井口と会った次の日、市民図書館へ足を向けた。井口から訊いた事件のことを調べるためだ。織田が殺害された同じ日に、そこから遠くない場所でも殺害事件があったことなど、さくらは覚えていなかった。
 
 十年前、織田が殺害されたとき、さくらはその事実を受け入れることができず、大学に入学するまでの休みの期間なにも手につかなかった。食事をし、睡眠をとり、織田のことを意識して考えないようにして、ただ生活をこなすだけの日々を過ごしていた。
 大学に入学してから新しい生活を慌ただしく過ごすようになって、やがて意識せずにも織田の死を忘れる時間もできるようになった。
それでもふとしたときに、織田を思い出した。彼の顔とか、声とか、彼からもらった絵とか、抱き締められた感触や、初めてのキスの緊張感や、笑顔の安心感とか、いろんな記憶が堰を切って流れてきて、どうしようもなく悲しくなるときもいまだにある。
 
 なんで死んでしまったの?

 さくらがこんなに悲しくならなくてはいけない理由は彼が殺害されたからで、その事件は未解決である。もしも、あの日織田が殺されたりしなかったら、いまごろは、織田と再会できて、さくらの理想としていた日々を過ごしていたのかもしれない。
 
 いままで織田の死をまだ心のどこかで受け止めることができないでいた『約束の日』までの十年ものあいだ会うことができなかったのは、約束通り彼はパリで絵の修行をしているからだと、都合のいい妄想も抱いていた。
 
 当然、織田はその日約束の場所に現れるはずもなく、妄想は砕かれた。
織田は死んでしまった。知ってはいた。覚悟はしていた。もう会うことはできず、声を聞くこともできず、触れることもできない。彼は同じ世界に、もういない。

 考えることもなく、理解していたはずなのに、それでも『約束の日』はこの十年で一番、織田の死を実感した。

 それから彼に会える時間が限りなく貴重だったことに思い至った。十年前、彼と出会ってから彼が死ぬまでのおよそ一年間は織田が生きていることが当たり前だったし、彼と会えない時間でさえも、織田を思い、自分都合の妄想も抱いた。それは彼が生きていることが前提にあった。それが彼の死がすべてを否定する理由となる現実になった。
 
 織田のことを思い出すと、必ず最後に行き着くのは、彼は死んでしまったという現実だった。十年前の彼と交わした約束でさえも、その現実によって否応なく否定され、現実から目を背けるためには、彼の死を忘れさせてくれる妄想を抱くしかなかった。
 
 その妄想も約束の日に無残にも砕かれて現実に直視せざるを得なくなると、織田が殺された理由を知りたい気持ちが強くなった。なぜ、織田と会えなくなってしまったのだ。なぜ、殺されなくてはならなかったのか。
 
 同じ日に、もう一つ殺人事件が起きていた。織田が殺された近くの場所で、しかも、その関係者が織田の持ち物を持っていた。この二つの事件にはなにか繋がりめいたものを感じずにはいられない。
 
 図書館に入りさくらは資料室から当時の新聞の縮小版を借りた。すぐに探していた記事は見つかった。

『20××年三月十日、○○市内に住む辛島藤子さんが死亡しているのを、通報を受けて、駆けつけた警官が辛島さんの自宅にて発見した。現場にいた男が首を絞めたことを認めたためその場で男を殺人容疑で逮捕した。居合わせた男は被害者の元夫で名前は□□洋介容疑者。犯行後自ら通報し事件は発覚した。□□洋介容疑者の供述によると。子供の親権のことで口論となり、近くにあった縄跳びで首を絞めたと語っている』

 井口の言った通り、織田が殺された日にその周辺で殺人事件が起きていた。さくらが住む地域の殺人事件なのに、これまでまったく知らなかった。当時はそれほどまでに自分を見失っていたのだろう。

 この記事には亮太の存在は書かれていない。だが被害者の辛島という苗字は卒業アルバムに記されていた亮太の苗字と同じだ。井口の話に間違いはないだろう。
 おそらくは、この事件がきっかけで両親がいなくなってしまった亮太は千絵に育てられることになり、いまに至っている。
 千絵がなぜ亮太を育てることになったか理由はわからない。ただ千絵は記憶喪失になってしまった亮太にその事件のことを知らせようとせず、さらには亮太がいじめを苦に自殺しようとしていたと偽装し、そのことが露見されそうになると亮太の本当の母親に虐待されていたことも千絵がしたと嘘をついてさくらに伝えた。
 
 千絵は亮太が記憶喪失と知ったとき、おそらく亮太の父親が母親を殺害したことを隠そうとしたのだろう。記憶が回復しないように千絵はあらゆる細工や虚偽を行い、本当の両親の存在を亮太から遠ざけようとしていた。
自殺の原因をまずは学校のいじめということにした。それが破綻しそうになると、虐待を自分が行ったということにした。千絵は自分が悪者になってでも、亮太の母親の立場にこだわった。
 
 井口の話を聞き、さくらは亮太の両親の事件のことを知った。そして千絵は亮太の本当の母親ではないことを知った。
 
 井口の話を鵜呑みにすれば、実の母親に虐待された亮太は自殺を決意した。では一体どのタイミングで亮太は記憶をなくしてしまったのだろうか。 自殺を図ったときか、それとも父親が母親を殺害した瞬間を目撃したときなのだろうか。
 
 なにかのきっかけで記憶を失ってしまった亮太は、いまだに両親の事件のことを知らされず、偽りの過去に振り回されている。真実を知ろうとしている亮太にさくらはなんとかしてその希望を叶えてあげたい。
 
 だがその前に、たとえ井口からの話が真実だったとしても、まだ謎は残っている。なぜ織田に渡した小説を亮太が持っているのだろうか。
 
 亮太が記憶をなくした日にさくらは織田に小説を渡している。つまりその日にしか織田と亮太は交わることはない。
 
 織田が殺された理由に亮太が関わっているのかもしれない。
 
 十年前、織田が殺された日に亮太は織田と接していた。それとも千絵と織田に関わりがあったのか。どちらにしても織田から第三者にさくらの小説が手に渡るとしたらあの日しかない。
 
 一体、あの日さくらが織田と別れたあとに何があったのだろうか。
 
 もしも、亮太の記憶が回復すればその謎が解けるかもしれない。そのために井口から聞いた話をすぐにでも亮太に伝えようとも思ったが、すぐにその考えを打ち消した。千絵の眠っている表情が頭に浮かんだからだ。
 
 亮太に両親の事件を知られないように千絵はこれまで嘘をつきつづけてきた。それは正しいことか、間違っているのかをさくらは判断することはできない。千絵の正義は亮太が中心にいるからこその思考であり、その正義を千絵の意識が戻らないあいだに悪に変えてしまうのは違う気がする。
 
 やはりいまは千絵の回復を待ち、彼女の言葉で亮太に伝えてもらうのがいいだろう。千絵を説得するのが自分の役目ではないかとさくらは思った。
 
 市立図書館を出て、千絵が入院している病室に向かう。いまさくらにできることは千絵の回復を願うことだ。
 
 千絵の入院する病院へ行く途中、背後から気配を感じた。いつだったか同じ感覚を抱いたことがあった気がする。
 
 振り返ると、猫がいた。黒い毛並みのやせ細った猫だ。黄金色の眼光がさくらの視線と交わった。さくらはなぜかその視線からなかなか目を離すことができなかった。身動きを許されず、数秒間のあいだ、その猫と対峙していた。
 
 しばらくしてその猫は去っていった。まるでさくらの前に見えない不吉なものが届けられたかのような異様な感覚が残された。 


#40へつづく
「クルイサキ」#40

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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