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「クルイサキ」#34

亮太 3

 さくらと別れ、亮太は千絵がいる病室に戻った。ベッドで眠る彼女の表情は先ほどと変化はない。亮太が持っている記憶の一番古いときからいる千絵は、十年前よりもすっかり痩せてしまった。目を閉じて眠る彼女の姿を見ていると、自分には千絵のためにできることがなにもないという絶望が込み上げてくる。

 衰弱した千絵の顔は亮太と全然違っている。自分にはない精錬された美しさが備わっている「亮太はお父さん似だから」と、千絵は鏡を見ながら肩を落としている亮太を、背中からよく慰めていた。

 亮太には家族と言える存在が千絵しかいない。たとえ顔が似ていなくても、性格も違っていても、亮太にはたった一人の家族なのだ。

 だから昨日のさくらへの愚行を目の当たりにしても亮太に千絵を憎む感情はいっさい湧いてこなかった。倒れたままでいる千絵に駆け寄り、目を覚まさないでいる千絵がこのまま眠ってしまうことを想像すると、亮太の記憶に存在する千絵がすべて消滅するような気がして、恐怖が押し寄せてきた。ただただ目の前の千絵が心配で、自分の無力さに愕然とし、自分の感情など何も役に立たないという現実から目を背けたくもなる。

 覚悟はしていたはずなのに。

 亮太は過去を知るために約束の場所を訪れた。失った記憶を取り戻し、自分自身と真摯に向き合えるように。そのために伴う痛みを受け入れる準備はできているはずだった。

 ただ亮太が過去を知ろうとする行為は亮太以外の人も傷つけてしまっている。それは亮太の予想外のことであった。さくらは千絵に刃物を向けられ、千絵は意識を失い、いまだに目を覚まさないでいる。

 自分が過去を知ろうとしたことで千絵を追い込んでしまったのだろうか。 
 さくらに協力してもらったことで、さくらを危険にさらしてしまったのか。
 亮太の過去には露見されてはならない秘密が隠されていて、それは触れてはならないパンドラの箱のように、決して手を出してはいけなかったのだろうか。

 それを確かめたくても目の前の千絵はまだ眠ったままで亮太の疑問に答えてくれる気配は一切見せない。

 たしかに自分の過去は明るいものではないと亮太は思っていた。記憶を失う前の時間を知る人は周囲には千絵しか存在せず、こうした環境は千絵が作為的にもたらしたものだと感じていた。つまり亮太の消えた過去は辛い時間だったと想像できた。落書きだらけの卒業アルバムの存在も、亮太の心に暗澹なる影を落としていた。

 それでも亮太は過去を知りたかった。失われた時間は永久に長い時間だったとなぜか感覚的に亮太は思っていたのが理由の一つでもある。
 根拠はない。だが、目を覚ます以前の時間が、それこそ比べようにもない時間を失ってしまった感覚が、頭の一部分で疼いていた。そして千絵がナイフをさくらに向けている瞬間を見たとき、亮太の頭に激しい頭痛が襲った。  長く疼いていた頭のその部分を中心にしてドクドクと波を打つように、亮太の頭を締めつけた。
 つづいて痛みと共に映像が襲ってきた。それはいままでに記憶のない映像だった。亮太は記憶を失う以前の記憶だということを本能的に理解した。ただその映像には恐怖が宿っていた。
 
 そのときさくらには奇禍が迫っていた。ようやくすべて思い出せる予感はあったが、さくらの救出に急いだ。頭の痛みにも耐えきれそうでなかった。そして恐怖からも逃げたかった。
 
 千絵を突き飛ばした瞬間、激しい頭痛は治まっていった。目の前にさくらがいて、引き寄せられるように、彼女に触れた。
 
 よみがえった映像ははっきりとせず、いまだに現実感がない。だから、あのとき瞬間よぎった映像が、本当に亮太の記憶がもたらせてきたものとは断言はできない。ただ少し時間が経ったいまでは本当の自身の記憶のように思い出すことができる。
 
 暗い靄に囲まれ、ナイフの刃先の光が自分に向かってきている。対する相手の体は女性のようだ。自分の目線にナイフがあり、その奥に少し膨らんだ胸が見える。
 
 恐怖が襲う。危機が迫っている。その感覚がする。

「死んでくれない?」

 女性の声が響いた。その言葉は亮太の頭のなかで反響し、恐怖が増幅する。亮太はそれに耐え切れず、頭を振り集中を解放し、現実に戻った。求めていた過去の記憶をこれ以上知ることを体全体で拒否している。そして想起された映像は脳裏にまで纏わりつき、亮太を煩悶させる。
 
 千絵と二人で過ごした十年間、亮太にとってその時間は亮太のすべてだ。失われた時間が例えどれほどにまで長かったとしても、千絵と過ごした十年間はかけがえのない貴重な思い出として心に刻み込まれている。
 千絵を見る。
 記憶のなかの女性はなぜ亮太を殺害しようとしたのか。ようやく思い出した記憶の一端は悪意に満ちていて亮太を怯えさせ、亮太はこれ以上過去を知ることに恐怖を感じた。

 亮太は両手で千絵の手を握った。
 
 おそらく十年前に亮太に向けられた悪意が、亮太に恐怖を与えている。その恐怖の正体を千絵は知っている。
 千絵に尋ねたいことがたくさんある。だけど込み上げてくる自分の過去についての疑問は言葉にするのは憚れた。目を閉じている千絵の顔が悲しく見えたからだ。
 亮太は願いを唱えるように、千絵の手を介した両の手のひらに思いを込める。

 母さん、なんで僕を育ててくれたの?
 
 千絵を非難するでもなく、十年間ものあいだ無償の愛情を注いでくれた千絵に、素直な疑問を千絵に問い掛ける。ずっと胸に秘めていた亮太の思いだ。
 
 記憶を失ってもこれまで育ててくれた。感謝を両手で千絵の手に注いでも、目を覚まさない千絵に、亮太は言葉以外に千絵と会話できる手段が見つからないことにつかの間嘆くが、二人しかいない部屋で、無音の空間だからこそ、いましか伝えられない気持ちを伝えられるのではないかと気づく。
 
 母さん、ありがとう。
 
 普段は恥ずかしくて言葉になんかできやしない言葉を、亮太はこの際、千絵の手のひらに伝えた。


#35へつづく

「クルイサキ」#35

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜


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