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「クルイサキ」#32

さくら 18

 さくらが病室に入ると千絵はただ眠っているように見えた。呼吸器はつけておらず自発呼吸はしているようだ。ベッドの横に置かれてある心電図のモニターのグラフが規則正しく波打っていて、一見したところ命に危険はなさそうだ。
「意識がまだ戻らないんだ」
 千絵の傍に座っていた亮太が振り向いてさくらを迎えた。その顔は寝ていないのだろう、ひどく疲れている様子だった。
 亮太は立ち上がり、さくらに千絵の横に座らせるように促した。
「自分で呼吸もしているし、脳にも特に異常はないらしい。ただ目を覚まさない」
 亮太はさくらの背後に位置を変え「十年前の僕もこんな感じだったのかな」と、小さな声で言った。
 千絵の呼吸が聞こえてくる。顔色は少し蒼白に見えるくらいだ。静かに目を閉じて眠る千絵を目の前にしたさくらは、昨夜の彼女との著しい差に戸惑いを感じずにはいられない。
 昨夜、千絵はさくらを襲い亮太に止められたあと、彼女は突然に意識を失った。亮太が呼び掛けても反応がなく、さくらは救急車を呼び、この病院に向かった。
 さくらは亮太と共に救急車に乗って病院まで行ったが、慌しく手術室に運ばれた千絵を見送ったあと、特になにもできず、亮太に促されて帰宅した。亮太はそのまま千絵に付き添い、彼女の無事を祈っていたはずだ。
 家に帰ってもさくらは眠ることができなかった。千絵に突きつけられたナイフの本気さ、そのときの彼女の異常な眼光を何度も思い出し、昂ぶる感情はどうしても抑えることができなかった。ただ目を閉じて、つい先ほどまでの出来事をベッドの上で何度も思い返した。
 やはり自分が襲われたのは千絵の過去の過ちを知ってしまったからなのだろうか。だけど千絵は自らさくらに告白してきたのだ。十年前、亮太を虐待し自殺に追い込んだこと、そして記憶を失ったことで亮太の過去を隠蔽したことを。それがあとになって千絵はさくらに告白したことが亮太に知られることを恐れたのだろうか。思い直した千絵はそれを知ってしまったさくらの口を力ずくで封じようとした。
 いま目の前にいる千絵は目を閉じ、なにも語ろうとはしない。しばらく無音の時間がつづく。振り向くと亮太と視線が合った。悲しそうな顔をしていた。彼はまだ知らない。千絵が彼を虐待していたことを。十年前、目の前にいる彼女に理不尽な暴行を受け、命を絶とうとまでしたことを。さくらは亮太の不遇に心を痛めた。千絵の行いは決して正しくはなかったが、虐待の過去を亮太に知らさなかったことだけは、もしかしたら正しかったのかもしれないとも思った。
 しばらくのあいだそのまま亮太の瞳を見つめていた。昨夜、彼と同じように視線を合わせたときに抱いた既視感がよみがえってくる。やっぱりこの目の感じ、どこかで見たことがある。
 無言のまま亮太の目をずっと見ているさくらに、亮太は千絵の前ではできない話があると思ったのか「外で話そう」とさくらを誘った。
 
 二人で病院の中庭に入っていくと、芝生の生きた匂いがした。昨夜、眠れず倦怠感を覚えていた体が回復していく気がした。ベンチに腰を掛け、上半身を伸ばした。亮太はそれを見守りさくらのストレッチが終わると、隣に座った。
 亮太の横顔を覗くと彼に抱き締められたことを思い出す。あのとき、亮太と間近で視線が合い、おもわず亮太の胸のなかに身を埋めると、震えが止まり、支配していた恐怖が一気に消え失せた。代わって自分を見失いそうになるほどの、高揚感が体全身を駆け抜けていった。
 そのときの感情がいまになって急に恥ずかしくなってきて、亮太の横顔から視線を逸らし、前方に視線を向ける。車椅子に乗った三十代半ばほどに見える男性が、その奥さんなのだろうか、男性と同じくらいの年をした女性と会話をしていた。男性の片足がギブスで固定されているが、二人は幸せそうな笑顔をしていた。さくらはいつの日か亮太とあんな風に笑い合えるときがくるのだろうかと思った。いまの亮太は憔悴している様子だ「昨日、当時のクラスメイトに会うって言っていたよね。なにかわかったの」と、さくらに尋ねる亮太の声はかすれていて、覇気もない。
「そんな大した収穫はなかった。だけど、井口先生やクラスメイトから当時の学校での様子を聞いてきたから、千絵さんが回復したらまた伝えるわ。いまは千絵さんが良くなることだけを考えましょう」
 さくらは千絵からの話をまだ亮太に伝えていいのか決めかねていた。千絵はいまだに意識不明の状態であるし、亮太に千絵からの告白のことをそのまま彼に伝えたとこで亮太が救われるとは思えない。いまはまだ亮太に伝えられることは、クラスメイトから聞いた当時の亮太の様子くらいだろう。亮太が自殺をしようとした動機まで彼に伝えることはまだできない。
 答えを出すことは正解であろうと不正解であろうと、責任を伴うことをさくらは過去に身を持って経験していた。まだ自分にはその責任を果たせるだけの確固なる正義を持ち合わせてはいない。臆病だけど正直に言えば、千絵から伝えられた亮太の過去を、彼に伝えることが怖い。さくらの心にはまだ癒えない傷が残っていて、その傷が亮太に伝えることを嫌がっている。
 大学を卒業し、さくらは新聞社に就職した。この地方ではそれなりに名の通った新聞社だ。高校時代に夢見ていた小説は織田の事件があってからは書いていない。何度か書こうと試みたが、どうしても織田を思い出し、思考が織田に支配されてしまう。だから、事実を調べなんの想像も含まず、ただただ記事にする新聞記者になろうと思った。
 入社して三年目に市内で殺人事件が起き、さくらはその事件を担当することになった。
 被害者は三十歳の女性で、すでに犯人は自首をしていた。事件はその犯人が自白をし、不自然な事柄もなく収束に向かっていた。
 被害者の女性には小学二年生になる女の子がいることを知り、さくらはその女の子と接触した。女の子には父親がいなくて、家族は被害者の母親だけだった。
 初めて担当する殺人事件だった。地方の新聞社ではなかなかこんな機会は訪れない。さくらは残された女の子の話を記事にすることで、他社よりも優越した記事にしようと意気込んでいた。
 さくらはその女の子に話を聞くことができた。一度ではなく何度か話を聞くことができ、女の子との関係も良好だと思っていた。なんなら母親を失ったショックを自分が慰めてあげているとまで感じていた。良い記事が書ける。さくらは手応えを感じていた。
 さくらの記事が掲載されたあと、女の子に会いに行った。感謝を伝えるためだった。
 女の子はさくらを見つけると足早に駆け寄って来た。さくらは女の子の視線の高さになるよう腰を屈めて彼女を迎えた。
「お母さんは殺されるほど悪い人だったの」純朴な声で女の子は言った。
 突然の女の子の問い掛けにさくらは言葉をすぐに返すことができなかった。女の子はさくらにはかまわず独り言を呟くように、言葉をさらに並べていった。
「なんで死んじゃったの」「私の代わりに死んじゃったの」「もう会えないの」「死んだらどうなるの?」
 さくらは女の子の言っている意味がすぐには理解できなかった。女の子の声がまるで楽器のように胸に鳴っただけ。その振動が全身に響いて、現実の世界から遠ざかっていくような感覚を抱いていた。
 いつの間にかさくらは自分の両親の死を思い出していた。それから彼女が言っていることが徐々に理解できてきた。女の子はまだ母親の死を受け止められていないのだ。
 少し考えれば当たり前のことだ。こんな小さな女の子に死を理解できるわけがない。自分もそうだったではないか。それなのにさくらは自分のことを優先し、女の子の心情など深くも考えないで、事件のことを女の子に無神経に伝えていた。そして女の子のことを記事にした。
 なんて愚かなことをしていたのだろう。さくらは自責の念に駆られた。さくらは女の子に対してなにも答えることができず、立ち尽くすことしかできなかった。女の子はもう一度同じ質問をした。
「お母さんはなんで死んじゃったの」
 さくらは女の子と対峙したまま、質問の答えを模索した。両親を亡くした経験がさくらにもある。
 母はさくらを出産するときに命を落とした。母は自分の命が危険だと知りながら、さくらに生を与えるために、出産を決意した。
 父はさくらが交通事故に遭った際に、病院に向かう途中に命を落とした。
 女の子が呟いた問いは、そのままさくらの疑問になり、女の子の声から幼きさくらの声と変わり体内で反響する。
「なんで死んじゃった?」「さくらの代わりだったの?」「なんで自分じゃなかったの?」
 さくらは目の前の女の子が幼き自分の姿と重なった。
 まだ死をよく理解できていなかったころ、身近の人の死がこれからの人生においても、ずっと重みを与えてくることをまだ知らなかった。
 そのときの自分に対しても、いまのさくらはなにも言葉が見つからず、幼きさくらとの間に答えがない問題を前にして、過去の自分と二人して絶望に暮れている。
 気がつくと女の子はすでにさくらの前から姿を消していた。さくらは女の子に、そして過去の自分に答えを導くことはできなかった。
 たださくらの都合だけのために、女の子に母親の死とその犯人の背景をも知らせ、深い心の傷を負わせたのは確かで、その行いは間違っていることだけはわかった。
 さくらは新聞社を辞め、いまは小さな会社の編集ライターとしてなんの責任のない記事を書いている。
 きっと誰もさくらの記事に感動もせず、暇つぶしに眺めているだけなのだろう。十年前に織田に言った夢は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
「作家になる」
 強がりに口にした言葉だったけれど、あのときは織田に肩を並べたくて、さくらの心のなかで芽生えた願いだった。いまは水を遣るのをせず、すっかり枯れてしまった。織田が死んでしまって、どこを探しても織田の存在が不確かで、夢見ていたことは空に隠されたかのように、空白だ。
 この十年間、自分は何をしてきたのだろう。
 思えば亮太の過去を手伝ったのも、もしかしたら過去の自分を正当化したかっただけなのかもしれない。織田が死んでからなにも成し遂げなかった自分に、免罪符を得るための行動だったのだろうか。
 あの約束の日に亮太と出会ったことが偶然ではなく、亮太がさくらの小説を持っていたから、亮太と出会った。約束の人に会えなくなってしまったとしても、十年前に交わした約束は破られてはいなかった。
 約束を破ったりはしない。織田は十年前に誓ったではないか。
 さくらは空を眺めた。今日の空はあの日よりも、白みを帯び、陽光を蓄え、空全体が活気づいている。所々に散在する綿雲がプカプカと浮かび、春の陽気を際立たせている。そう同じ空はひとつとして存在しない。
 さくらは横を向き、亮太と顔を見合った。
 何度も見た亮太の目はなぜか心が安らぐ。さくらのことを理解していると勝手に思っているからだろうかと考えていると、亮太は視線を逸らし、さくらの目の前に紙束を出してきた。それは過去にさくらが織田に渡した自作の小説だった。
「もう小説は書かないの」と、亮太は言った。その表情があまりにも織田と似ていたからさくらは戸惑った。


#33へつづく

「クルイサキ」#33

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜


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