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「クルイサキ」#41

亮太 6
 
 空の青さに導かれるように、亮太が行く場所に躊躇いはなかった。ふらつくような足取りで、逃げるようにその場所へ向かっている。
 
 先ほどまでの割れるような頭の痛みは、いまは心拍と同じような感覚で、鈍い痛みがある程度に治まっている。
 
 千絵の病室に来た刑事たちはおそらく亮太を探しているだろう。刑事から渡されたナイフはいま亮太が持っている。刑事たちにしてみればナイフを奪い取られたとなると大変な失態だろう。いまごろは血眼になって亮太を追っている最中のはずだ。
 ただ刑事よりも、亮太は頭痛と共にもたらしてきた過去の記憶から逃げている。
 
 刑事からナイフを渡されたとき、激しい頭痛と共に、亮太は十年前の記憶の一片が思い出されていた。その記憶が映し出した映像は、亮太の頭のなかをすべて埋め尽くした。その映像に頭を戦略されたような感覚に陥り、煩悶しながら、その映像を振り落とすようにして、足を進める。
 
 記憶の回復は亮太がずっと待ち望んでいたことだった。だが、亮太は巡らせていた悪い想像が、いま頭のなかを支配している過去の映像と相違がなかったことに、絶望と恐怖が襲ってきた。
 
 自分は人を殺めていた。いま手に持っているナイフを触った瞬間によみがえった記憶は、亮太の体では許容できないほどの衝撃で、体がずっと震えている。
 
 ナイフを持った自分は、青年の胸にそれを刺していた。ナイフの柄が赤く染まっていく。手のひらにぬるっとした感覚がある。自分はそれでも青年の肉体にナイフを押し込める。そのときの殺意がよみがえってくる。自分は青年に抱いていた感情を刃先に込め、青年の体内で発散していた。殺意が青年に受け渡されたことを確認しナイフを引くと、青年は崩れ、倒れた。そのときの殺意にそれほどまでに悪意を抱いていないのを感じている。人の死を何度も見てきていたかのように、人の死に対して、特別な意識はなかったような気がする。その行為が自分の使命であったとさえ思えるほどだった。
 
 その場で倒れている青年を見下ろしている。少し離れたところに紙束を発見した。汚してはいけないと思いから、返り血を浴びていない服の袖を介して、それを拾う。
 
 さくらが書いた小説だった。さくらの好きだった人、織田を殺害したのは自分だった。
 
 そして自分の犯した罪をようやく認識したのか、手が震え出す。跪き、それでもさくらの小説を汚さないように、頭上に掲げていると、その小説を取り上げられた。すかさず、背後から抱き締められた。そのときの記憶では存在していない千絵だった。
 
 千絵の瞳にはすでに涙が溜められていて、彼女が笑うとその涙は盛大に流れ出した。彼女の泣き笑いはそのときの亮太に逃げ場を作った。亮太の記憶はそこで一旦暗転する。
 
 亮太は気づく。自分はそのときからいままでずっと逃げつづけていたのだと。
 
 千絵は殺人を犯した亮太に逃げ場をずっと与えてくれていたのだ。あの瞬間からこれまでの十年間、千絵は亮太の犯した罪を知りながら亮太を守ってくれていた。記憶を失った亮太に、亮太自身が犯した罪を思い出させないように、千絵はずっと亮太の傍にいて、導いてくれていたのだ。
 
 亮太は千絵に自分の過去を尋ねていた。口調を荒げたこともあった。それでも口を閉ざす千絵にむかついたことは何度もある。それでも彼女は亮太を見捨てなかった。本当の子供でもないのに、人を殺していることを彼女は知っているのに。自分はなんて愚かだったのだろう。
 
 なぜ千絵は亮太を引き取り、育ててくれたのだろうか。亮太と過ごした十年間、千絵はたくさんの愛情を注いでくれた。本当の母親ではないことを知っていた亮太は、安らぎの場を常に提供していてくれた千絵に感謝の言葉しか思い浮かばない。千絵は亮太を救ってくれた。
 
 十年前の記憶を亮太は取り戻しつつあった。これまでの記憶の断片を繋ぎ合わせると千絵が亮太に隠していた過去が想像できる。

「死んでくれない?」と、ナイフを向けられていた映像を亮太は思い出す。
 
 目の前の見知らぬ女は亮太の本当の母親だろう。その女から様々な虐待を受け、なお、死ねといわれ、遺書まで書かされた。女は持っていた卒業アルバムを奪い、その卒業アルバムになにやら手を加えていた。亮太はそのとき目にした縄跳びでその女の首を絞めた。織田を殺害したことを思い出すと、そのことも亮太は思い出していた。
 そのあとに女から渡されたナイフを持ったままその場から逃げ、そのナイフで織田を殺害した。
 自分は二人の人間を殺めていた。その事実が亮太の心に深い絶望を落とす。
 
 ただ違和感がある。女を絞殺した場面と青年を刺殺した場面との感情がどうも一致しない。青年を刺した瞬間の感触や感情は残っているが、女を殺める場面はただの映像として記憶に残っている。なにか自分ではない何者かが自分の体を使って女を殺しているかのように思える。まるで映画でも見ている感覚だ。
 
 それでも自分は二人の人間を殺めていたことは事実だ。そしてこの十年間贖罪もせず、記憶を失ったと悲劇の主人公を気取り、千絵のしてくれていたことに感謝もせずに呑気に生きていた。そして記憶が回復した、いまでもまだこうして逃げている。
 
 取り戻したかった記憶は、取り戻してみると、亮太には抱えきれない重い過去だった。
 
 千絵はこの十年間、その思いを一人で支えていたのだ。本来ならば亮太が請け負わなければならない罪を。
 
 空に導かれるように足を進め辿り着いた場所は、そんな亮太を嘲笑するかのように、花を咲かせた桜の木だった。
 
 遊歩道に下りると、桜の木は花びらを纏い、薄紅色のトンネルを形成している。前にさくらに会ったときは、まだつぼみだった桜の木は、いまは花びらを数え切れないほど咲かせている。それまでの月日はまだ過去を知らなかった亮太が、大罪を抱えるほどの過去を思い出したほどの時間であり、桜も花を咲かせるほどの時間でもあったけれど、思い返してみればあっという間だった。その時間はさくらが心にいた同じ時間で、彼女の顔が記憶に存在していたことで、短い時間だったと感じたのかもしれないと思った。
 
 足を進め、桜の木の列を横切っていく。風が吹き、桜の花びらが舞い落ちる。頭が疼き出し、桜の花びらが舞い踊るように、亮太の頭のなかも撹乱し、過去の記憶が圧迫して、二つの殺人を犯した場面が脳裏を何度も巡る。
 この十年間ずっと取り戻したかった記憶だ。それがいざ手にいれてみると、過去の映像が、自分の体では支えきれないほどの感情を押し寄せてくる。
 
 その抱えきれない感情にどうしようもなかったとき、実際にその体を捨て、別の生物に逃避したことも思い出した。



 視線は限りなく地面に近い。自分の名前は『タロウ』だ。自分の任務はさくらの生を奪うこと。さくらに対しての感情がいまの肉体では支えきれなくなっていた。
 
 いますぐこの肉体を放棄しなくてはならない。
 
 雪が降る公園で寒そうに身を震わせている人間が視線の先にいた。みすぼらしい恰好をし、野良猫のように住むところがないのか、体が汚れている。その人間に憑依を試みた。タロウを捨てるときだ。タロウの肉体は血が沸騰し、急激な速度で体を駆け巡っていた。このままでは任務を遂行するどころか、肉体が滅び、死んでしまうと思った。だからタロウを捨てるしかなかった。 
 
 新しい体を手にしたとき、血の温度は和らいだ。目下には横たわった猫がいる。名前も知らないその人間の手で猫の死体を抱え、タロウを葬った。
 
 過去の記憶が芋づる式に思い出される。七本目の桜の木まであと数歩だ。依然、頭のなかは混沌とし、理性が失いそうになる。それでも亮太はその場所へ行かなくてはいかない。なにかに導かれるようにしてその場所へ足を進める。頭のなかの映像は巡り巡ってナイフを映し出していた。いま手にしているナイフではなく、過去の映像のナイフだ。
 
 小さな男に不釣り合いに、ナイフが握られていた。そのナイフは震え、刃先の行き場を探っているように見えた。そのときナイフが必要だった。それは殺意が体を支配していたからだ。

 さくらと男が抱き合い唇を重ねていた。さくらの恍惚した表情が脳裏を巡る。その映像が、頭にこびりつき、心が鷲掴みにされた。掴まれた心が悲鳴をあげ、それから逃げるためには殺意を解消することしかなかった。目の前の小さな男の持つナイフが必要だった。

 小さな男は十年前の亮太だ。そしてさくらと唇を重ねた男は織田だ。そのことまで思い出した。
 
 ナイフを持つ十年前の亮太に憑依を試みる。そのときの亮太は容易に侵入ができるほど、心が弱っていた。まさに殺意を達成するために用意されていたかのようで、躊躇うことはなく、心に入り込んだ。そしてついさっき女を絞殺した場面が見えた。そうか、女を殺したときの妙な感覚は、この体に憑依する前の記憶だったからか。
 
 新たなターゲットに追いつくと、手を差し出すように、その対象にナイフを刺した。亮太の体で織田を殺した。掟を思い出す。ターゲット以外の人間を殺した場合、もうあの世界へは戻れない。死が存在する世界で、死が宿命づけられた瞬間だった。



 思い出した過去は、過去というよりも次元の違う世界で、もはや現実味はない。だけど思い出した過去は実際に体験した偽りない過去だ。
 
 その過去を清算しなくてはいけない。
 
 亮太は細々とした枝にいまはきれいな花びらを纏い、見事におめかしをした桜の木の列を通る。川を挟んで向かい側にも同じように桜の木は花を咲かせ並んでいる。風が運んできた桜の花びらが亮太の頭上に降り、足下には落下した花びらが水玉模様のの絨毯となる。
 
 桜の花びらが舞うこの季節は、束の間しか生きられないことを嘆くように咲く桜の木のように死があることを諭す。
 
 七本目の桜の木の前に亮太は立ち止まる。さくらと再会した『約束の場所』に、亮太は再び来た。
 
 その七本目の桜の木は亮太の特別な感情も絡んでいるのか、列をなす桜の木のどれよりも異質に見えた。他の桜の花びらよりも赤が濃い。まるでそこに死体が埋められていて、その血を養分にしているかのように。
 
 加えて、この一本だけ他の桜の木より小さい。競い合って花びらを咲かす桜の木のなかで、この場所にいることに劣等感を抱いているかのようだ。死の世界に来てしまった自分と重ねる。
 
 なぜこの世界に来てしまったのか。織田に殺意が芽生えたとき、死の世界で生きていくことに恐怖がよぎった。なぜ自分は死を迎えるために生きなくてはいけないのか。
 
 その恐怖を超えたものが彼女への感情だった。
 
 ターゲットに抱いてしまった感情は、小さな体では支えきれなかった。タロウの肉体を借りたまま、彼女の声に癒やされ、彼女の笑顔に励まされ、彼女に触れると、心地よかった。ときに涙を流した彼女を助けたいと思った。
 
 彼女に生きてほしいとずっと思っていた。
 
 七本目の桜の木の前にいると、風が肌を突き刺した。まるでこの場所だけ強風が落ちてきたかのように花びらが乱舞する。それは過去の自らの決断を叱責しているかのようだ。薄紅色の花びらが宙に舞うと、血しぶきのように赤くなり、視界を鮮赤に染める。それは織田を殺害した記憶が乗り移ったかのように。そして狂い咲く桜の木の前で、まるで約束していたのか、猫が姿を現した。
 
 所々骨の形がわかるほどやせ細った黒猫だった。黄金色の目をしたその猫の視線が向けられた瞬間、亮太は自分の体が浮遊する感覚がし、頭のなかに何者かの意思が侵入をしてきたのを感じた。


#42へつづく


さくっとストーリーだけ追いたい方は前話からがおすすめ。
前話#40

クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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