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「クルイサキ」#42

さくら 24

 十年前は裸だった桜の木は、いまは薄紅色の花びらを蓄え、穏やかな春の陽気に合わせ、この瞬間に最高のパフォーマンスをしている。それは雲のない今日の青い空に見せつけるようにも思える。
 川を挟んで両端にある遊歩道が、桜の花びらの屋根に覆われ、橋の上からはよく見えなかった。それでもさくらは彼がこの場所にいると確信があった。よく見ると、桜の花びらに覆われて、見えないと思っていた遊歩道の一部だけ凹んだ部分があり、そこから遊歩道の一部分が覗けた。さくらから右手側の桜の列で、そこに人影も見えた。あの場所は七本目の桜の木だ。やはり亮太は『約束の場所』に来ていた。
 
 戸板橋から遊歩道に下りる。すると桜の花びらのトンネルに入ったかのように、圧倒されるほどの桜の木に迎えられた。陽光が桜の花びらの薄紅色をより鮮明にし、見上げれば、桜の花びらを身につけた枝たちから、青い空が覗ける。織田と見たかった光景がさくらの目の前で拡がっていた。だが、いまのさくらに感動するような余裕はない。前方にいる亮太の様子が明らかにおかしかったからだ。
 
 まるで地球の引力に引き込まれるのではないかと思えるくらい、体が前方に傾き、頭は垂れ、両手もだらんと垂れ下がっていた。そして片手に持つナイフの刃先が妖気に輝き、桜の木に囲まれた亮太は妖艶に演技でもしているかのように体を左右にふらつかせながら、その場所に存在していた。さくらに気づいて、顔だけをこちらを向ける。
 
 さくらはゆっくりと亮太に近づいた。手を伸ばせば触れられる距離だ。

「千絵さんが亡くなったわ」

 亮太はなにも言葉にせず、ゆったりとした動作で体をさくらに向けた。神経が愚鈍になり、脳の命令がうまく体に伝わらないのか、ぎこちない動きだった。亮太の目がなにも映し出さないのか空虚で、その瞳の奥には永遠の闇にでも繋がっているのか、深い穴ぼこのようで、潤いがまったく感じられない。光を遮断し、この世界を拒絶しているかのようだ。さくらは以前に同じような目をした人物と出会っていた。千絵がそうだった。同じようにナイフを持ち、刃をさくらに向けたとき、こんな眼力をしていた。
 
 だが、そのときと違ってさくらは恐怖を感じなかった。逃げ出したいとも思わない。目の前の異常な様子の亮太を助けなければいけないと思った。それが自分の使命とさえ感じていた。
 
 亮太の横の桜の木の下に、黒猫が横たわっているのが見えた。顔がこちらを向いていて、前に見たことのある黒猫だと直感的に思った。もう命はないのだろう、黄金色に光っていた目が白く濁っている。
 
 さくらは再び亮太に視線を向ける。呼び掛けても反応を示さず、さくらをただ見ている。興味もなく、ただそこにさくらがいることも理解できていないのだろうか。彼の瞳は無そのものだ。 

「千絵さんが死んでしまったの」さくらはナイフを持つ亮太に再び話し掛ける。風が吹き、桜の花びらがいっせいに舞う。亮太は反応しないが、さくらの言葉に見えない何かの力が応じているかのようだ。背中を押されている感覚にもなった。

「千絵さんは君の実の母親ではなかった」それからさくらは井口の話を亮太に伝えた。亮太には聞こえてもいないかもしれなかったが、構わずにさくらは声を出し、抑揚をつけ、彼に言葉を浴びせる。そうすることで、彼にこの世界に戻ってきてほしかった。生きている言葉を掛け、生きている表情を見せ、いま生きる世界に興味を持ってほしかった。それでも亮太はさくらを直視したまま立ち尽くしたままだ。井口の話を伝え終わっても彼は身じろぎひとつせず、空虚な目でさくらを見ている。

「織田を殺したのは君なの?」体から漏れたように、小さな声でさくらは言っていた。なんでそう呟いたか、さくらにもわからなかった。気がつけば根拠もなく声に出していた。もしかしてなにも反応を示さない亮太に腹が立ったのかもしれない。だけど、いざ言葉にしてみると、その可能性があることに気づいた。十年前、織田が殺された日に亮太の両親の事件が起きている。そして亮太はさくらが織田に渡した小説を持っていた。そして織田はナイフで胸を刺されて死んでしまった。亮太がいま持っているナイフはもしかして、十年前に使われたナイフではないのか。
 
 亮太の実の母親は絞殺であった。ナイフは使用されていない。だけど織田の殺害にはナイフが使用されている。犯人はまだ捕まっていない。

「織田を殺したのはあなた?」今度ははっきりと言葉にした。

 亮太の口からうねり声が漏れた。さくらの言葉にようやく亮太は反応らしいものを見せた。

「だから私の小説を持っていたのね」
 
 亮太の瞳孔に光が宿ったように見えた。厚い雲に隠れて光が届かなかった月光が、雲が晴れて、月夜の空にするかのように。さくらに光が届けられ、心のなかに隠れていた勇気を見つけ出す。

「私の小説おもしろかった」さくらが言うと、亮太は反応を示した。瞳にわずかだけど光が点在した。そしてしばらくして「うん」と、呟いた。
 
 亮太が正気を戻したかのように思えたが、しばらくして眼光が怪しくなっていく。亮太はいま何者かと戦っているのかもしれない。さくらを見る彼の両目の光が定まらず、彼の瞳の奥の世界が激しく移り変わっているようにわずかな光が揺れ動いている。 

「私も殺してみる?」
 
 その言葉はさくらが知っている亮太ではなく、他の何者かに向けてさくらは言った。いま亮太の体なかにいるもう一つの人格に挑発をする。きっと亮太の体をその人格が乗っ取ろうとしているのだ。そしてさくらをいま手にしているナイフで殺害しようとしているのかもしれない。十年前もそうして織田を殺害したのだろう。
 
 さらにさくらは手を広げ亮太のなかにいるもう一つの人格にけしかける。なにか悪魔払い場面でこういうのを見たことがあったからの行動だったが、考えてみるともう一つの人格を表に出しては逆効果なのではないかと頭によぎった瞬間、案の定彼が向かって来た。もしかして本気にしてしまったの?さくらは大いに後悔した。
 
 まず首に亮太の熱を感じ、それからさくらの背中に手が回された。ナイフの持っていない方の手だ。さくらは身動きがとれない。力が強い。亮太の体を操っている人格の力が強いのか、それとも、劇的に亮太は正気を取り戻し、もう一つの人格に反抗するために力が強くなっているのか。いま亮太の体を動かしているのはどっちの人格なのだ?
 
 亮太は強引にさくらの口を唇でふさいだ。さくらは彼にされるままで顔を上にされる。空が見えた。桜の花びら越しに青い空が見える。もしかして七本目の桜の木が小さいのは織田の導きで、この瞬間を空から見ようとしていたのもしれないと思った。
 
 しばらくのあいだそのまま時間は過ぎた。さくらは抵抗をしなかった。彼はさくらが知っている亮太であることを確信したからだ。伝わる熱に温かみを感じ、春の訪れのような、生命の息吹が注ぎ込まれる感覚が、全身を駆け巡る。比べてはいけないのかもしれないけれど、織田との口づけの感覚がよみがえってきて、さくらは高揚感に支配された。
 
 まるで永遠にこの七本目の桜が花びらを咲かすことも不可能ではないと思えてくるから不思議だ。きっといまの光景はずっとさくらの記憶にありつづけ、これからもさくらに命を燃やすための燃料になっていくのだろう。さくらの心のなかでこの桜の木はずっと花を咲かせ、いつでも思い出すことができる。そしてここから見えるいまの空も、きっと、ずっと、さくらのなかに居つづける。この青い空は限りなく完成に近くない?そうさくらは織田に問い掛けた。亮太に抱かれながら、そう思うのは不謹慎なのかもしれないけれど、悪いのは約束の日に来なかった織田だから。しょうがないよね。
 
 亮太はさくらから離れるとごめんと呟いた。目が合うと照れて彼は目を逸らした。逃げた彼の瞳にはまばゆい光が点在し、命が感じられた。亮太は体を支配していた何者から自分を取り戻し、生還したのだ。

「君が生きていくためのおまじないだ」と、柄になく亮太は言った。視線もしっかりとさくらに合っていた。

「きっとこれでうまくいく」
 なにか覚悟を決めたような精悍な顔つきで亮太は言った。
 
 そして彼はさくらから後ずさりし離れていく。ナイフを自分の体に向けた。さくらが叫ぶと、彼は崩れ落ちた。強い風が吹いたのか、桜の花びらが一斉に宙を舞った。まるで桜の木から逃げるように。この世界から逃げようとするように。その花びらは赤く、青い空の中で踊っていた。


#43へつづく

ラスト2話です。さくっと物語を知りたい方は#40からがおすすめです。
「クルイサキ」#40


クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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