見出し画像

「クルイサキ」#40

亮太 5

 千絵の病室のドアがノックされたとき、亮太は浅い眠りのなかにいた。病室の窓から入ってくる風が温かく、椅子に座りながら、うとうととしていた。だから、そのノックの音はまどろみを遮る雑音にしか聞こえなかった。

「警察です。本多千絵さんだね」と、亮太に向かって眼鏡の男が言った「いや、彼は違うよ」と、白髪交じりの男が口を挟み、眼鏡の男をどけるようにして、亮太の前に立った。亮太は警察という言葉を耳にしても、しばらくは状況が理解できず、目の前の男たちをただ眺めていた。

「君は彼女とどういう関係かね、見た感じ息子さんかな?」白髪の男はそう言いながら、勝手にイスを滑らせてきて腰を下ろす。亮太がうなずくと、彼は満足そうな表情を浮かべた。そのあと、眼鏡をかけた男が霧島、白髪の男は神崎とそれぞれ手帳を翳しながら名乗った。そのしばらくの時間で亮太は警察だとようやく理解した。

「まだ千絵さんには話をうかがえる状態ではありませんね」霧島は神崎に向けて言った。千絵が動物のように観察されていると感じ、苛立ちを覚えた。

「母が何かしたのですか?」亮太が訊くと、神崎は後方を向き、ドアの方を向く。ドアは開いたままで、神崎は目で霧島に合図をした。霧島がドアを閉めるのを合図にしたように、神崎は鞄から何かを取り出した。亮太の目の前で掲げて見せる。

「ある場所でナイフが見つかった。そのナイフは調べてみると血液反応があった。それがそのナイフだ」
 透明な袋に入れられたナイフは禍々しく、亮太の目に刺さった。
 それを見た瞬間に頭が痛くなった。以前、千絵がさくらを襲っていたときに似た激しい痛みだった。

「このナイフが見つかった場所というのが彼女に関係があってね。彼女が前に救急車に乗せられた場所がこのナイフが見つかった場所と同じなんだ」
 
 亮太の視界が色をなくしていった。目に映る映像が力尽きていくように、明るさを失っていき、反比例するように頭痛は強くなっていく。和らげようと頭を押さえるが、まったく効果はない。

「君もそのとき現場にいたそうだね。息子さんと一緒に救急車で病院に来たことは調べがついている。このナイフに見覚えはあるかい?」神崎はもっと見ろと脅迫するように亮太の近くにそのナイフを掲げた。亮太はそれを奪い取った。すぐに霧島が亮太に手を出して取り返そうとする。だが、霧島の腕を神崎が抑えた「どうだい?なにか思い出したかい?」と神崎は言った。
 
 痛む頭のなかで、亮太はこの男は自分が記憶をなくしたことを知っているのだと思った。暗い視界のなかで神崎の視線が鋭く光って見える。野生動物が闇のなかで獲物を狙っているかのような視線が亮太に向けられていた。
 
 その光で亮太の記憶が照らされたのか、ある光景が頭を支配し、体中に流れた。ナイフを持っている自分の姿だった。ナイフを手にし、獲物を捉えていた。
 
 その獲物の顔はよく見えない。まるでその正体を知ってしまうと、もう取返しのつかないことになってしまうのを察し、寸前のところで記憶がその顔を思い出さぬようにしているのかもしれない。
 
 目を瞬かせると、視界がいまの状況の情報を知らせてきた。目の前の刑事たちは亮太に疑いの視線を向けている。横にいる千絵は依然目を覚まさないままだ。まったく状況は改善されていない。手足が震え、動悸が激しくなり、発狂しそうになる。視界が次元を失ったかのように、歪み出した。目の前にいた男たちの顔も原型を失っていく。なんとか気持ちを切らさぬよう耐えるが、もう途切れる気配がそこまで迫っている。
 
 そのとき、ベッドで物音がした。千絵が動いたのだった。はっきりしなかった視界が定まりだし、千絵の表情を捉えた。神崎も、霧島も千絵に注意が向いた。
 
 千絵は目を開けていた。そして口が動いた。言葉を発しようとしている。
亮太の感情が爆発した。亮太は何か叫んでいた。両肩を押さえられた。触れられたところから嫌悪感が体中に走り、咄嗟に振り払う。千絵とのあいだに、何者も邪魔されたくなかった。
 
 目の前の男たちの表情が醜くひん曲がっている。赤鬼のように激昂し、怒気を含んだ言葉を浴びせられた。恐怖が襲ってきた。目の前の男たちに自分と千絵の関係を破壊されようとしている。そう感じた。
 
 目の前の男を突き飛ばし、亮太は駆け出した。手には袋に包まれたナイフを持っていた。    


千絵 7

 亮太の顔を最後に見たかった。
 
 全身の神経をまぶたに集中させ、力の限り、目を開けた。
 
 亮太は戸惑いの表情を浮かべていた。刑事たちに追及され、どうしていいのかわからずにいるのかもしれない。それとも、記憶がよみがえり、自責の念に駆られているのだろうか。
 
 亮太はあのとき心に深い傷を負い、正しい判断などできやしなかった。亮太が犯した罪は決して本人がもたらしてきたものではない。

「亮太は悪くない」

 それはしっかりと声になって、亮太に伝わっただろうか。もしも本当のことを知っても自分を責めないでほしい。
 
 亮太は千絵に視線を合わせると、言葉にならない悲鳴を発した。刑事が亮太を抑えようとしたが、亮太は刑事の手を振り払う。限界がある千絵の視界の片隅でその様子は捉えていた。
 
 亮太は悪くない。刑事たちにもそう言いたかった。だけどもう彼らに届くような声は発することができない。
 
 亮太が視界から消えた。刑事もつづけて千絵の視界から消えた。

 逃げなくていい。いまは自分の傍にいてほしい。
 
 その願いをもはや千絵は声に乗せることができない。やがて刑事の怒声が遠ざかっていき、いま病室には千絵だけが残された。
 
 千絵は目を閉じる。もう開けることはないだろう。千絵は亮太との記憶を巡らせた。そうすると亮太が傍にいるような気がする。そして亮太を命の限り守るという覚悟を決めたときのことを思い出す。

あのとき、亮太の表情は正気を失っていた。
 
 亮太の顔が鮮血に染められ、瞳孔は悪魔に乗り移られたかのように、不自然に彷徨っていた。
 
 千絵はその瞬間、自分がしでかした行為の代償で、亮太は狂ってしまったのだと思った。目の前の惨劇はすべて自分が引き起こしたものだと。
 
 亮太の前に人が倒れている。おびただしい出血があり、周りの地面を赤く染めていた。
 
 亮太は定まらない目の動きをし、千絵に向いている。持っているナイフの刃は赤く染まり、刃先から行き場を失くした血が滴となり、地面に落ちていく。亮太の体に流れる血さえもが、もう耐えられないとばかりに、体内から逃げているのではないかと千絵は感じた。虐待を与えた母親の遺伝子が体内に存在していることが許せなくなり、自ら傷を作り、放出しているかのように。千絵にはそう見えた。
 
 亮太をこんなふうにしてしまったのは、実の母親ではなく自分なのだ。自分が洋介に好意を抱かなければ、こんなことにはならなかった。
 
 亮太を探している最中、千絵はずっと自分を責めていた。あの家庭を千絵が崩壊させ、亮太を孤独にさせてしまったのだから。
 
 千絵から洋介を好きになり、家庭を持っていることを知りながら彼に近寄り、洋介の家庭を崩壊させた。洋介は離婚し、亮太は母親に引き取られることになった。千絵は洋介と一緒になれることで一人だけ幸福感に浮かれていた。母親に引き取られた亮太は虐待を受けるようになり、洋介はそのことを知り、思い悩むようになった。千絵が洋介を好きにならなければこんなことにはならなかったはずだ。
 
 罪を犯しているのだ。その罪が亮太を苦しめてしまった。
 
 亮太を救えるのは自分しかいない。出産の経験がない千絵だけれど、洋介との約束は千絵に母性を与え、目の前で震えている亮太がたまらなく愛しく感じられた。行き場を失い、ナイフの刃先さえも宙を彷徨い、亮太の不安が強烈に千絵に伝わってくる。
 
 目の前の亮太を千絵は抱き締めた。亮太はそのまま気を失ってしまったようだ。いまにも折れてしまいそうな細い体をしていた。それでも千絵は強く彼を抱き締める。これからは一緒に生きていく。亮太の体のなかに、少しでも自分の遺伝子を侵入させようとでもするように力の限り。数奇の運命を背負わせてしまった亮太をこれからは自分が守っていくのだ。
 
 受けるべき愛情を千絵が奪ってしまった。その償いを千絵は命の限り尽くしていくことを誓った。自分が亮太に愛情を与えていく。亮太を全力で守る。
 
 洋介との約束は私たち家族の約束になった。千絵は埋めた亮太の背中を擦りながら、この子と二人で生きていく決意を固めた。

 いま思えば、あのときの覚悟は間違っていたのかもしれない。命を賭けて守ると誓ったものの、命をなくしてしまえば、亮太をもう守ることもできない。
 
 自分が罪を被らなければいけなかったのだ。あのとき、洋介がしたように。
 
 亮太と出会ってから、亮太を一番に思っていたはずだった。だけど、いま思い起こすと後悔ばかりが頭をよぎっていく。
 
 洋介にも謝らなければいけない。彼は再会のときを待っているはずだ。立派に成長した亮太と、その分、年を取ってしまった千絵と、再会のときは三人で家族になるはずだった。それが千絵の夢だった。亮太に洋介を紹介したかった。亮太にもちゃんと血の繋がった人がいることを千絵から知らせたかった。
 
 明かりを失った視界のなかで、千絵が見ているのは亮太と洋介が再会し、笑い合う姿だ。もうそのなかに千絵がいることはないと思うと、どうしようもなく悲しくなる。だけど、もしも天国というものがあるのならば、必ずその場に立ち会って、二人がもっと笑えるように、温かい風を吹かせて、祝福の花びらを舞わせてあげたいと、千絵は願った。


さくら 23

 さくらが病室に行くと、千絵の周囲に医者と看護師がいた。彼らは無念そうにベッドで眠る千絵を見ている。その厳しい表情に、さくらは千絵の身を案じた。
 
 看護師がさくらを認めると「千絵さんが先ほど亡くなられました」と、やっとさくらに聞こえる位の声量で伝えた。前に病室に訪れたときにも、その看護師は千絵の看病をしていて、さくらのことを覚えてくれていたらしい。
 
 看護師がさくらに礼をし、医者と共に千絵から離れる。さくらは千絵の前に歩み寄り千絵の顔を見た。前に訪れたときよりも、穏やかな表情に見え、息をしていないことが信じられなかった。千絵と出会ってからまだひと月も経っていない。彼女が意識を失って病院に運ばれても彼女が死ぬことなど、予測もしていなかった。必ず意識を取り戻し、さくらに真実を伝えてくれるものだと信じていた。
 
 もう彼女の口から真実を語られることはない。彼女が生前にさくらに話してくれた内容は正しかったのかどうかは、もはや確かめることができなくなってしまった。

「亮太さんには連絡したんですか?」千絵は背後にいた看護師に顔を向けて訊いた。
 
 すると看護師の表情がさらに険しくなった。それから看護師がさくらに伝えたことに衝撃を受けた。千絵の病室に警察が来て、亮太が逃げてしまった。逃げる亮太の手には刃物らしいものが握られていた。そのまま亮太とは連絡が取れないでいる。さくらにとって予想もしていなかった事態がいくつも看護師の口から聞かされた。さくらはそれらの情報を一度に処理することができず、混乱した。
 
 警察が千絵の病室に来た。どの事件の調査なのだろうか。そして亮太は逃げてしまったらしい。そして亮太の手には刃物が握られていた。
 
 看護師から聞いた内容はさくらの脳には受け入れられたが、そこから考えようとすると、これ以上考えてはいけないという警告が発せられ、思考を惑わせる。体に影響を与えるほど、体内の血が速度を増し、落ち着きを失っていく。たまらずさくらは病室を飛び出した。そしていますぐに亮太に会わなければいけないと、ただそのことだけを思った。それはさくらの使命であり、責任なのだと思った。
 
 病院を出ると、青い空が天を支配していた。さくらは導かれるようにして、あの場所へと急いだ。



#41へつづく

次話からクライマックスへ向かいます。
これまでのあらすじをまとめました。
一話からはこちらから。

これまでのあらすじ「ネタバレ注意」

さくらは唇を重ねた相手に死の運命を引き渡せる特殊な能力を持っていた。
その能力を排除するため死神が送られる。
10年前の死神はさくらに恋心を抱き、さくらと唇を重ねた織田を殺してしまう。
その死神は掟に背いたため、憑依して織田を殺した人間の体に魂が乗り移ってしまう。
その人間が亮太だった。
亮太は死神に体を乗っ取られる直前に実の母親を殺害していた。
その罪を亮太の父親が背負い、当時父親と付き合っていた千絵が亮太を育てることになる。
亮太の魂は死神に乗り移り、それまでの記憶を失った亮太に千絵は母親として接し、亮太が殺人を犯していたことも秘匿にする。
それから10年経過し、再びさくらの前に死神が送られる。
死神は千絵の体を乗っ取り、さくらを殺害しようと試みたが、亮太が(魂は以前の死神)さくらを助けて失敗に終わる。
そのときに落としたナイフから警察は未解決だった織田の事件の捜査が進展し、千絵に辿りつく。
千絵の看病中、10年前に織田を殺害したナイフを見た亮太は死神のときの記憶がフラッシュバックして、ナイフを警察から奪い逃亡する。

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?