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「クルイサキ」#44(最終話)

終章 残桜

「鳥がいるよ」
 少し前を歩いていた息子が振り返り、駆け寄って来た。私の元に戻った息子と共に空を見る。二羽の鳥がさえずりながら、空を飛んでいた。
 
 小学一年生になる息子の診察日で息子を学校まで迎えに行き、これから病院へ行く途中だ。少し診察時間まで時間があったので、天気もいいことだし、少し寄り道をして川辺の遊歩道を歩くことにした。
 
 今日の空は透明度が高い青だ。そのなかを白くモクモクとした雲がいくつもの大群を成して闊歩している。それらは一応に同じ方向に向かい、二羽の鳥を追っているようにも見えた。まるで広い空を遊び場として鬼ごっこをしているようだ。
 
 息子は私の手を掴みだっこをせがんだ。息子を抱き上げる。息子の顔がすぐそこにあるが、彼は空を見たまま私の方を向いてはくれない。息子の名を呼ぶと、振り向いてくれ、その愛しさに思わずキスをしてしまう。鳥のさえずりが盛大に聞こえた。冷やかされているように感じて、息子相手のキスでも恥ずかしくなってしまった。
 
 よくだっこをせがむ息子に「だっこが好きだね」と訊く。息子は「だって空に近づけるんだもん」と空を見ながら言った。

「じゃあ早く大人にならなきゃね。ママよりも大きくなるまで、ママがだっこしなくちゃいけないんでしょ」
 
 息子の両脇を抱え、空に近づくように高い高いの要領で息子を頭上に上げた。すると息子が「怖いよ、降ろしてよ」と、叫ぶもんだから、息子をすぐに地上へ生還させる。
 
 本当に怖かったのか息子は私にしがみつき「僕、ちゃんと大人になれるの」と、私のお腹に顔を埋めながら呟いた。
 
 息子を見ると、髪の毛はなく、頭皮が顕わになっている。皮膚は皺が多くて、見た目は老人のようだ。体は同年齢の子に比べると明らかに小さいが、体に対して頭は大きく、病状が顕著に息子の体に影響を与えている。だから息子の問いに「なに言ってるの、怒るよ」と、はぐらかすことしかできない。子供をきちんと大人に成長させるのが、母親の義務だとわかっていても、息子の顔を見て、そのことを約束できないことがもどかしくてならない。
 
 小学校に入学したばかりの息子はまだ人生を始めたばかりだ。彼にはもっともっと人生を謳歌してほしい。そのためには私はなんだってしてあげられる。
 
 息子は私のお腹から顔を出し、私を見上げる。なんかカンガルーの親子みたいだなと、思っていると「やっばりママのお腹って気持ちいい」と言って、私の手を握る。さっき怒るよと言ったことを本気にしてしまったのだろうか、少し甘えた表情をしている。息子といるときはできるだけ笑顔でいようと誓っていたはずなのに。反省して息子に笑顔を見せると息子も笑顔を見せてくれる。だから笑顔になるのはすごく簡単なことなのだ。

「ママの手はつやつやして好きい」「友達のママと比べて若いからうれしい」「黒い髪の毛もいっぱいあってうらやましい」と、次々と私を褒める。ここまでくると何か思惑が潜んでいると、疑ってしまう。ただ、たしかに息子が生まれてから、体に張りがあるように自分でも感じる。年を重ねていくほど、若返っているように思えるくらいだ。 
「そんなに褒めてくれて、ありがとう」

「いいよ、ママのこと好きだから。好きな人には褒めるのが一番って先生が言っていたから。おまえひゃくまで、わしゃくじゅくまで、だよ」
「なにそれ、今日のことわざ?」息子のクラスでは朝礼で一つずつことわざを教わるらしい。
「そうだよ。今日はおの日で、おまえひゃくまでわしゃくじゅくまで」と、頼りない言葉使いで彼は言う「どういう意味?」私がこう聞くのもいつもの流れだ。すると息子は得意げな顔をして、いつも私に教わったばかりのことわざの意味を教えてくれる。

「好きな人と一緒に長生きして、好きな人がいなくなるより先に自分がいなくなったほうが幸せだよって。だから先生はいつも奥さんを褒めて、いなくならないようにしてるんだって」
 
 そして息子は私の体から離れ、遊歩道を歩き出した。私も後を追う。数歩先に息子がいる。後を追う形になり、先ほどの鳥と雲の鬼ごっこを思い出した。もしも、鳥は雲に捕まってしまったら、もう鬼ごっこはできなくなってしまうのだろうか。そう頭によぎると、息子に追いつくことを躊躇ってしまう。そのまま少しの距離を空けながら、遊歩道を歩いていると、息子は立ち止まり振り返った。そして私の顔を見ながら言う。

「だから、ママは僕より先に死んだらだめだよ」我慢ができず、笑顔が崩れた。


「クルイサキ」解説しています。

クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

「クルイサキ」#30 三章 淀桜

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