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言葉は、拠り所にもなるし、自分を縛るものにもなる
日々言葉を使っていると、言葉を使っているのと同時に、言葉に使われている、と感じることがある。
言葉に救われている、と感じると同時に、言葉に縛られてしまっている、と感じることもある。
自分ではうまく表現できないモヤモヤを言語化できたとき、他の人がまさに同じようなモヤモヤを言葉にしていた時、拠り所が見つかったような、そんな感覚になる。
「ああ、自分のモヤモヤってこういうことだったのか」
少し安心する。
決してモヤモヤしていたのは自分だけではなかったんだ、と。
例えば、「何者かになりたい」という表現がそうかもしれない。
「何者かになりたい」という表現を最初に考えた人はすごい。今までたくさんの人が言語化できなかったモヤモヤをシンプルに表現していると思う。けれど、言語化されてしまったことによって、「自分は一体、何者になりたいんだろう」と考えてしまうことが増えたような気もする。
— おがたのよはく | note (@yohacu_ogata) April 28, 2021
前にこんなツイートをしたけれど、将来や人生に悩む漠然とした感覚を見事に一言で表せていると思う。
ただ、言語化されたことで拠り所になる一方、言語化されてしまったことで、「何者かになりたい」という欲求に必要以上に縛られてしまうこともある。
「自分は何者なんだ」
「何者でもない自分に価値はあるのだろうか」
「あなたってポジティブな人間だよね」といった「自分は◯◯な人間だ」という言葉も、拠り所にも縛りにもなり得る。
そういう意味では、言葉は紙一重だ。
拠り所にもなるし、時には、自分を縛り付けてしまうものにもなり得る。
ただ、結局は「拠り所」としての性質が強いのではないか、と思っている。
「何者かになりたい」の話で言えば、「“何者かになりたい”という欲求に今縛られているな」ということさえも言語化できれば、それは拠り所になる気がするからだ。
言葉が誰かの拠り所になるように、言葉が自分の拠り所になるように、ていねいに言葉を選びたい。ていねいに表現をしたい。
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