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【小説】あしたの祈り【第2回】#創作大賞2023

 ガラスの割れる音が響き、真樹子は反射的にその音のした方向を向いた。何が起きたのかを確認するためと、指導や片づけの必要がないかを知るためである。

「こらぁ、なにしとるんじゃあ!」

 窓からグラウンドの横にある工作棟付近を見ると、真樹子と同時に採用された浜岡が、中三の男子生徒を走って追いかけるのが見えた。工作棟には、中三の教員が集まっている。駆けつける必要がないことを知った真樹子は、教室内に残る生徒たちに向き直った。

「あの先生、いかついなぁ」
 と窓の外を眺めていた藤本百合がつぶやくように言った。

 浜岡は、講師経験とその外見を買われたのか、中三の中でも荒れた男子生徒が多いクラスを担任することになったようだ。この学校では中三ばかりがこうしたいたずらをするわけではないが、男子生徒を追いかけ回す浜岡の姿は、四月半ばにして、もはや誰もが見慣れたものになりつつあった。

「よそ見しないで、さっさと終わらせましょう」
 真樹子は用意したプリントを示して、教室に残った中二の生徒五人に声をかけた。

 数学の授業をはじめてすぐに気がついたのは、生徒たちの学力の低さだった。一次関数を教えなければならないのに、2a+3aの答えがわからない生徒がどの教室にも一割はいた。中一の学習が身についていないのはもちろん、小学校の学習内容もおぼつかない。かけ算すら覚えていない生徒五人の中に、藤本がいた。

「えー、もう飽きた。おもろないわ」
 藤本は大きな声で不満をもらす。声は出さなくても、他の四人も同じ感想を持っていることはその態度からも明白だった。

「そんなこと言わないで。このプリントを終えたら、ワークブック提出と同じ扱いにするから」

 授業中に、副読本のワークブックの問題を解き提出することを、真樹子は生徒たちに課題として示した。テストの点数が取れない生徒への救済措置のつもりであったが、実際に行ってみると、授業の時間内で提出できない生徒が多数出てきた。そして、ワークブックを持ち帰ったとしても解けないであろう五人に対しては、もっと簡単なプリントを用意し、丁寧に教えるつもりで放課後に残したのである。

「大体、数学なんかできて何になんの?」
「計算できなかったら、買い物できないじゃない」

「あほやなぁ、先生。買い物のときはこれやで」
 電卓を打つ真似をする。

「いちいち買い物に電卓持ってくの?」
「ちゃうやん、スマホのアプリがあるやん」

 藤本は会話のスピードも早く、その内容は真樹子の意図通りではないものの、矛盾もない。知的には何の問題も感じさせないのに、なぜ掛け算もできないのか??小学校の先生は何をしていたのだろう。

「アプリなしでも計算くらいできるようになっとこう。ほら、あと三問やん」
 鉛筆を持ってプリントを睨んだ藤本だったが、しばらくすると
「あかん。時間やもん。帰る」
 と立ち上がった。

「ママと田中さんと出かけるし。約束してるもん」
 とそそくさと帰り支度をはじめてしまう。

「田中さんって?」
「ママの彼氏」
 文房具を、学校指定のバッグに乱暴に詰め込む。

「お母さんには先生から連絡してあげるから」
「そんなんいらんし。ちゅーか、先生、うざいねん。去年の先生は放課後残したりせーへんかったで」

 藤本はバッグを肩にかけ、教室から飛び出してしまった。

「俺も用事あるわ」
「私も」

 残った生徒も、プリントを終えることなく、次々に教室から去っていく。
 真樹子と、最後まで空欄の埋まっていないプリントが教室に取り残された。

 ガラガラと大きな音が響く。教頭が校門を閉める音だ。腕時計を見ると、もう二十一時近くになっており、職員室にはもう数名の教員しか残っていない。

「何してんの?」
 頭にポンポンと書類が当たるのを感じるのと同時に、声が降ってきた。見上げると、珍しくスーツ姿の浜岡が、真樹子の椅子の後ろにいる。

「先生、まだ残ってたんですか?」
「うん。うちのクラスの生徒が喧嘩して、さっきまで家訪行ってた」

 苦虫を噛み潰したような表情だ。始業式以降、真樹子が見る浜岡は、走っているか恐い顔で生徒に向き合っているかのどちらかで、こうして会話するのも久しぶりだ。家庭訪問も長時間かかったのだろう。顔に疲労の色が見えた。

 真樹子は半分は気の毒に思いながら、半分は活躍している姿を羨やましく思いながら、浜岡の顔を眺めた。

「そんなことより、何してんの?」
 浜岡は真樹子が糊付けしようとしている封筒を指さして訊ねた。

「うちのクラスの生徒、ずっと休んでいて。いつも留守だし、電話も繋がらないから、手紙書いてポストに入れてるんです」

 始業式の日以降、鈴木美晴の家庭には電話をかけ、何度も団地の玄関でチャイムを鳴らした。どちらも応答はなく、登校のない美晴を心配しているという内容の手紙を郵便受けに二度入れた。二度目に郵便受けの口を覗くと、請求書らしき大量の葉書に混じって、真樹子が以前入れた封書も残っているのが見えた。無駄かもしれないとは思っているのだが、それ以外の方法も思いつかず、今は三度目の手紙を作成したところだった。

「なんちゅー生徒やったっけ?」
 訊ねる浜岡に、鈴木美晴という名をつげると、すぐに、ああ、という納得したような反応が返ってきた。注意すべき生徒については職員会議で何度も名前が挙がるため、浜岡も耳にしたことがあったのだろう。

「俺んとこにも不登校おるけど、家庭には連絡つくしなぁ」
 浜岡は腕を組んだ。

 教員になったばかりの真樹子にとっては、それがこの学校に限ることかどうかはわからないが、職員会議や教員同士の話を聞くと、どうやらどの学年のどのクラスにも一人は不登校の生徒がいるようだった。教員たちは電話や家庭訪問を繰り返し、生徒に登校を促しているが、それは簡単なことではないことが、真樹子にも段々わかってきた。

 自分が卒業し、教育実習も行った、中高一貫の私立学校との違いに戸惑う。

 浜岡は、俺が言えることはないんやけど、としながらも
「あんまり根詰めたらしんどいで。ほどほどにしいや」
 と言ってポケットからキャラメルを出して真樹子に渡した。そして、自分、真面目そうやしなぁ、という言葉を付け加えた。

 頭の中で計算をする。団地の郵便受けまで歩いて二十分、そこから近いバス停までは十分、駅に向かうバスの最終便は二十二時ちょうど。今日は駅まで三十分の道のりを歩かなくても済みそうだ、と真樹子は胸をなで下ろした。

 部屋の鍵を開け、鞄を肩から下ろそうとしたとき、スーツのポケットでスマートフォンが震えた。「通話」に指を滑らせると、応答する間もなく聞こえてきたのは、
「あんた、何してたんのよ、こんな時間まで」
 という母の大きな声だった。

「何って、仕事に決まってるでしょ」
 ワンルームの部屋にある小さなテーブルに、コンビニで買った袋を起きながら、真樹子は答えた。

「何度も電話したのに」
 母親の良子からの着信は、履歴にいくつも残っていた。バスの中で確認したが、家に着いたらかけ直せばいいと、放っておいたのだ。

「仕方ないでしょ、仕事なんだから」
「こんな時間まで仕事なわけないでしょ?」

 専業主婦の良子は、娘の仕事をあまり理解していない。中学生が学校から帰れば教員の仕事は終了すると思っている様子で、その後に山のように残る仕事のことを何度説明しても、納得してはもらえない。

「だから……」
 説明しようとして、口ごもる。何度もしたやりとりを繰り返すのが面倒だった。それに??理解する気がないのだろう。

「真樹ちゃん、やっぱり大学に残った方が良かったんとちがう?」
 教員になることを??大阪府の中学校の教員になることを??反対していた良子は、真樹子が一番カチンとすることを言う。

「大学には残らないって、言ったでしょ」
「でも、真樹ちゃんのお友達はみんなな大学院に行ったんでしょう?」
「みんな、じゃない。経済とか、文系の子たちは就職してる」
「でも、理系の子はほとんど残るんでしょ?」

 確かに、良子の言うことは正しかった。真樹子が卒業した国立大学では、全体の大学院進学率が五割を上回っている。ましてや、真樹子が専攻していた理学部では、大学院に進学しないという選択自体が希だった。真樹子も進学を考えなかったわけではない。それでも進学を選択しなかったのは、教育実習が充実したものだったことに加え、所属していた数学科のゼミの研究が哲学的ともいえる高度なもので、自分の実力の限界を感じ始めたことにもあった。

「もう、決めたことだから」
 真樹子は絞り出すようにそう言うと、
「用がないんだったら切るよ」
 と言いっぱなしで、電話を切った。

 床にスマートフォンを投げるように置き、ため息をつく。良子に言われるまでもなく、自分の選択が正しかったのかどうか、真樹子は自信を持てない。けれど、今は目の前の問題をこなしていく以外の道はなかった。

 壁の時計はもうすぐ二十三時を指す。スーツを脱いで、鞄から、生徒の提出したワークブックを取り出す。明日の授業までに、提出された二十冊を採点し、返却しなければならない。それが終わったら、新規採用者研修のレポートを。明日の授業に向けて、教科書も読まないといけないし、スーツにアイロンもかけなくてはならない。明日はゴミの日だから??コンビニで買ったおにぎりを口にしながら、真樹子は赤ペンでワークブックに丸をつけていく。

 ふと思い出し、スマートフォンを拾い上げて、赤ペンを手にしたまま、LINEのメッセージ画面を開いた。大学時代の仲間のグループラインには、楽しそうなメッセージがいくつも並んでいる。その明るい内容に自分が入り込めないような気がして、真樹子はもう一度スマートフォンを床に投げた。

 副顧問となったバスケ部の朝練のために、明日は七時に学校に着かなければならない。今からやることを数え上げると、今日も睡眠時間はあまり確保できそうもなかった。

 ラミネートされた白色の紙は、中に磁石を挟み、裏返すとピンク色の紙になる。白色の方に「x」と記入し、裏のピンク色の方に「2」と記入して、真樹子はそれを教室に持って行くボックスに入れた。

 中二では多項式を学ぶことになっているが、半分以上の生徒は代入もままならない。
 多項式の解説の前に、中一数学を軽く振り返る必要があった。

 とはいえ、授業時間は決められており、その進度についても細かな制限がある。そこで、真樹子は短い時間で復習するために、空き時間に、色で示す教材を手作りしていたのである。

「それは何に使うの?」
 同じく空き時間で、隣の席に座る田辺が、真樹子の机を覗いた。

「多項式の前に、代入を振り返ろうと思って……」
 真樹子が教材の使い道を説明すると
「なるほどなぁ」
 と田辺はラミネートを裏表にくるくる回した。

「みんな、驚くほど中一の内容を覚えていなくて」
 真樹子は教材を作りながら話した。

「あー、それは理科も一緒やなぁ」
「下手をすると、小学校の内容も覚えていなくて」
「びっくりしたやろ? この学校は、市内でもトップちゃうかな、学力の低さでは」

「他の学校は違うんですか?」
「山の上の住宅地のあたりとかは、こんなことなかったなぁ」
 田辺はポリポリと頭を掻いた。

「学年によって多少の差はあるけど、この学校はしんどい子が多いな。勉強でも、家庭でも」
 田辺は教材をボックスに戻して、お茶をすすった。

 そのとき、
「中二の先生いる!?」
 と職員室前方から大きな声がした。
 はい、と田辺と真樹子が同時に立ち上がると、教頭が電話機を持っているのが見えた。

「鈴木美晴、小学生を殴ったって」
 田辺が口を開く前に、真樹子は
「私、行きます!」
 と反射的に返事をしていた。

「本当に、困るんですよ」
 四十くらいだろうか、四年生の担任だという痩せた女性が、真樹子の姿を見るや、挨拶もせずにそう言った。

「美晴さんはうちの学校の卒業生ですからね、こちらとしても責任がないわけじゃないんですが」
 前田と名乗った女性教員はそう言って、椅子に座る鈴木を見下ろした。

 真樹子は保健室の椅子に座る美晴と、ベッドに腰掛けながら手当を受ける四年生の男の子を交互に眺めた。登校中、男の子は突然美晴から殴られたのだという。

 男の子は茶色の頭を下に向け、養護教諭から頬を冷やされている。美晴は何も言わず、まるで睨むように真っ直ぐに真樹子の顔を見た。

「どうして殴ったりしたの?」
 真樹子が問いかけると、美晴の答えを待たず、すぐに前田が、
「そんなこと聞いたって、意味ないですよ」
 と口を挟んだ。

「意味ないって、どういうことですか?」
 冷たいものを浴びせられた気がした。

「前からこの子はこうなんです。この学校にいるうちから、他の子には喧嘩を売る、人の物は盗る、問題ばっかりおこして」
「でも……」

 反論しようとすると、真樹子の上から下までを値踏みするように眺める前田の視線に気がついた。その目は、大した経験もないくせに、と言っているような気がした。

「この子のお母さんはね」
 と前田は下を向く男の子を見る。

「気にしてませんって言ってくださって。大らかな方だからよかったようなもんですけど、普通だったら大事ですよ」
 畳みかけるように、前田の言葉は続く。

「やっと卒業したと思ったのに、またこの学校で問題を起こされたら」
 前田が大きなため息をついた瞬間、ちゃ、ちゃ、という声が保健室の入り口から聞こえてきた。

 振り返ると、入り口のドアから小さな男の子が顔を覗かせて、なにやら判別のしにくい声で話している。よく聞くと、ちゃーちゃ、ちゃーちゃ、と言っているように聞こえた。

 それを見た前田が、ああ、と驚くでもなく、
「鈴木の弟です。弟の、秋生くん」
 と男の子の名を告げた。少し離れた吊り目。丸い顔に低い鼻で、整った顔立ちの美晴とは似たところが見当たらない。

「言った」
 秋生の横から、秋生とよく似た顔の眼鏡の女の子が顔を出し、そう言って真樹子を見た。

「あほ、あっちいけ」
 と言いながら、女の子は誰かを叩くような仕草をする。

「誰が言ったの?」
 真樹子が聞くと、女の子はきょとんとした顔で、鼻水をすすりあげた。

「先生たちはね、大事なお話をしているのよ。ほら、なかよし学級に帰りなさい」
 前田が入り口に行って秋生たちの背中を押すのと同時に、
「あき、あっちいってな」
 とそれまで黙っていた美晴が声を出した。万引きのときに聞いた刺々しい声ではなく、やわらかい声。

 秋生は振り向くと頬をゆるめ、また、ちゃーちゃ、と聞こえる声を出した。

「ねぇ、鈴木さん、もしかして……」
 真樹子が美晴の方を向いて声をかけると、
「うるせえな!」
 と美晴は突然大きな声をあげた。

「なんやムシャクシャしとって、そしたら近くにそいつがおったし」
 美晴はベッドに腰かける茶色い髪の男の子を指さす。
「殴ってやったんや。そんだけや!」
 美晴は立ち上がって、椅子を蹴る。

「ちょっと、止めなさい!」
 前田が美晴の身体を掴もうとして振り払われ、床に崩れる。
「勘違いすんな。そんだけや!」
 美晴は真樹子の目を見てそう言うと、保健室から駆け出す。

「ちょっと待って。鈴木さん、ちょっと」
 駆けていった美晴の後ろ姿から、保健室に視線を戻す。前田は、だから言ったでしょう、と言わんばかりの目で真樹子を見て、大きくため息をついた。



 ジャージ姿のまま、真樹子は職員室の後ろの棚からファイルを探した。
 小学校から戻ってくるとすぐに授業があり、その後は副顧問となっているバスケ部の練習に付き合った。練習が終わる十八時すぎにようやく身体が空き、着替えるのは後回しにして、職員室に戻ってきたのである。

 ようやく捜していた個人情報ファイルを見つけ、自分の机にもっていく。ページを繰っていると、
「どうしたの?」
 と学年主任の岩本に声をかけられた。

「鈴木さんのことで、ちょっと気になることがあって」
 真樹子は小学校での出来事を説明した。

「その男の子は大きな怪我もないようだし、それは幸いだったんでしょうけど」
「でも、私、鈴木さんが理由なく子供を殴るのかなって、疑問なんです」
 真樹子がそう言うと、岩本はしばらく黙って頭を傾けた。やがて、
「去年から鈴木さんはほとんど学校に来ていないから、私もよくは知らないのよ」
 と岩本はゆっくりと話しだした。

「でも、そのとき、鈴木さんは、ムシャクシャしてやった、って言ったのよね?」
 真樹子は頷く。

「だったらーーこちらとしては、その通り受け取るしかないんじゃないかしら」
「でも……」
 それでは納得できない。

「米山先生の言いたいこともわかるのよ。でも、残念だけど、私たち教員の時間も限られてるでしょう」
 真樹子の返事を待たず、岩本は続けた。

「米山先生が頑張っているのはわかっているの。授業もすごく熱心だし、クラスの子たちにも関わろうとしているのはいいことだと思う。でもね、今、鈴木さんについて割いている時間と同じ時間を、クラスの生徒全員に割けるかしら?」
 岩本の言おうとしていることは、真樹子にもわかった。

「もちろん、全員平等に時間を割くなんて、本当は無理なのよ。手のかかる子もいれば、自分でなんでも頑張る子もいる。でも、私たちはクラス全員のことを考えておかないといけないでしょう?」
 正論だった。

「米山先生が頑張りすぎて倒れでもしたら、クラスの子たちは心配するし、困っちゃうわ。あんまり考えすぎないで」
 岩本は真樹子の肩を叩いて、離れていった。

 その通り受け取るしかないーー岩本の言葉を反芻する。真樹子も岩本の言っていることが正しいことはわかっていた。それでも、何か割り切れない思いが残った。

 正しくないことなのかもしれないと思いながらも、机の上に置いたファイルをもう一度開く。見れば納得して、もう美晴のことを考えなくて済むのではないかという期待もあった。

 「生徒情報」と書かれた丸秘扱いのそれには、小学校からの申し送りや生徒の家庭情報が書かれた書類が挟んである。

 鈴木美晴のページを開くと、卒業した小学校とは別に、同じ市内の別の小学校の名前が二つ記載されている。今の団地に来る前の住所も二つ。一つは同じ北川市駅のすぐ近く。その後の住所は朝日寮という施設の名前が書かれ、年表によればその後今の団地に移っていることがわかった。

 家庭状況には、当初、祖母だろうか、同じ名字で違う名前の女性の名前が書かれ、その上に傍線が引かれている。

 学業や生活面についての申し送りについては卒業した学校のものしか載っていない。しかし、年表によれば、卒業した小学校には二年弱しか在籍していないことになる。不登校、学業不振など、中学と同じ評価が並ぶが、それは二年弱の評価でしかない。

 いつから不登校がはじまったのか、その理由は??求めていた答えは見つからず、疑問がさらに深まっただけだ。

 真樹子はファイルから顔をあげても、他の仕事に向かう気になれなかった。

 教室のスピーカーから、エルガーの「愛の挨拶」が流れ始めた。昼の放送は、最初にその曲からはじまる。数十秒、その有名なメロディーが流れた後、放送部の朗読やリクエスト曲の紹介があるのだが、今日は教室の生徒たちの声にかき消され、何を言っているのか聞き取れない。

「席について」
 と生徒に向かう真樹子の声も、自然と大きくなった。

「日直さん、早く、いただきます、しましょう」
 生徒たちからも、早く、という声がいくつも上がり、日直となっていた男子生徒が黒板の前で、いただきます、とぼそぼそと声を出した。

 生徒たちは一斉に弁当箱やパンを取り出す。北川市は中学校での給食はない。そのため、弁当を持参することになっているのだが、両親が忙しいためか、コンビニで買ってきたパンを弁当代わりにしている生徒も多い。

 真樹子も教卓の上にコンビニのビニール袋をのせ、やきそばパンを頬張った。

「先生、コンビニ?」
 生徒に聞かれて頷くと、
「女子力低いなぁ」
 女子生徒の一人が、からかうように言う。

「そうなんかな」
「そら、そうやで。弁当くらい作らな、女子力あがらへんで」

 女子力、という言葉の響きに、真樹子は苦笑する。自分が中学生のときにはその言葉はあったのだろうか。中学生ですら使うその言葉を、そういえば一度も口にしたことがなかったということに気がつき、そういうところが「女子力」のなさなのかと思うと、真樹子はもう一度苦笑した。

 生徒たちは相変わらず友達とのおしゃべりに忙しい。いつもなら食べ始めたら少しは静かになるのだが、今日は静まる様子がない。家庭訪問期間が始まるということで、今日は昼休憩の後はホームルームのみで、部活動もなく早く下校することになっていた。早く帰れるということで、生徒たちが浮き足だっているように見えた。

「そういえば、藤本さんって、どうしたか、知ってる?」
 真樹子は藤本と仲のいい女子生徒二人の方を向いて聞いた。これまで欠席のなかった藤本が、今日は連絡無く休んでいる。連絡先となっている母親の携帯に電話をかけたが、「お客様の都合により……」というアナウンスが流れ、繋がらなかった。

「百合? 百合やったら、なんかお母さんの調子悪いとかLINEで言うとったで」
「いつ言ってたの?」
「さっき」
 と一旦言ってから、はっと気づいたように、
「間違えた。昨日。昨日の夜」
 と言い直す。

 学校ではスマートフォンは使用してはいけないことになっている。おそらく、隠れて使っているのだろうと思いながらも、真樹子はそれを信じた振りをして、そう、ありがとう、と答えた。

 藤本のことも心配だが、少なくともLINEのやりとりはできているようだ。もともと今日藤本の家に家庭訪問する予定だから、様子も確認できるだろう。それよりも、もし学校で携帯を使っている現場を見たら注意しないと、と考えながら、真樹子はやきそばパンの残りを口に放り込んだ。

 市営団地の高層棟は、横並びにいくつも水色の玄関ドアが並んでいる。手帳に控えた部屋番号を確認し、チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。ジャージ姿の藤本が、口に人差し指をあて、ドアの外に出てきた。

「何しに来たん?」
「今日、家庭訪問よ」
 真樹子が答えると、藤本は、ああ、と声を出して困ったような顔をした。

「何かあった? 学校も休んで」
「ママが昨日田中さんと別れて。ママ泣いてるし、学校行ってる場合ちゃうし」
 わかるような、わからないような理由だった。

「今日、お母さんに会えるかな?」
 訊ねると、藤本は嫌な顔をしながらも
「入って。でも、なるべく早く帰ってや」
 とドアを開けた。

 失礼します、となるべく明るい声で挨拶しながら、靴を脱いで室内に入る。玄関を入ってすぐにキッチンがあり、その横の部屋に藤本の母親がいるようだったが、カーテンが引かれたままで、室内は薄暗かった。

「ママ、先生来たで。家庭訪問やって」
 藤本が声をかけた方を見る。目を凝らすと、畳の上に、毛布を肩にかけた女性が座っていた。

「百合さんの担任の米山です」
 藤本は母親にティッシュの箱を渡し、毛布の上から肩を撫でている。彼女は音をたてて鼻をかみ、どうも、と小さな声を出した。

「ママ、今日家庭訪問なん、覚えてた?」
 カーテンの隙間から漏れる光で、母親が首を横に振るのが見える。金髪に近い明るい髪。三十そこそこではないだろうか、まだ若く、どこか幼さを感じる女性の顔が見えた。

「百合さんの進路など、いかがお考えでしょうか?」
 何を言うべきか迷った末、他の家庭でしてきたのと同じ質問を投げかけてみる。

 返事はなく、かわりに、藤本がため息をついて、
「空気読めよ」
 と正座する真樹子の膝を軽く蹴った。

「ママ、今日はそういうのはええやんな?」
 藤本が聞くと、母親は小さくうなずく。

「先生、何かあったらこっちから言うし。今日はもう、ええから」
 肩を押される。言葉を探しているうちに、追い立てられて、真樹子は玄関の扉の外にでていた。

「藤本さん、明日は学校来てね」
 言い終わるのを待たず、水色の扉は閉まり、鍵の閉められるガチャリという音が、廊下に重く響いた。

(続く)


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