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スムーズにいかないということ|「ということ。」第13回

 私は、滞りのないことが好きだ。
 大きな駅にある“動く歩道”や、すぐにお湯が沸くステンレスのケトル。気心知れた相手と取り組む仕事や、容量にずいぶんと余裕のあるスマートフォンの動作。スムーズって言葉は、とっても気持ちがいい。

 私は、停滞が大嫌いだった。上下左右、どこへも行けない状態。あれは気持ちが悪い。どこへも行けないだけならまだしも、どこへ行くべきかすら見えない状態は、もう最悪だ。不安になり、苛々する。

 ただ最近になって、「日々の生活は停滞の連続だな」と、感じている。大量の停滞が細かく連続していて、それらを引きで一度に見たとき、なんとなくスムーズに思えるだけなのだ。
 細かいものがたくさん、自分の出番を“待って”いて(待ての状態のことも、私は「停滞」と呼びたい)、回ってくる出番をこなし、また、“待て”のターンが訪れる。そしてほとんどの場合、それに許されている時間の九割九分が“待て”に割かれている。出番なんて、めったにない。

 だから、「今、停滞しているな」と思うときには、「“待て”のターンか」と、自分を納得させる術を身につけた。
 かつて停滞を嫌っていたのは、気持ちが焦るからだ。こんなところで立ち止まっている場合じゃない、早くなんとかしなくちゃ、と。焦って、息も苦しくなる。

 でも、ちょっと前の自分に言ってあげたい。「あなたの出番なんて、そうたくさんあるわけじゃないんだから。今は、“待て”よ」と。世の中には、たぶん、私が出番だった間に“待て”をしていた人もいる。逆も然りだ。小さな子どもだって、公園の遊具をじゅんばんこに使う。

 もっというと、(私の周りにもいるし、私自身もそうなのだが、)「待ち合わせの相手を待つ時間が、けっこう好きなんだ」なんて言う人がいる。会えるよろこびや、待ち遠しさを楽しめるのは素敵だ。
 でも、それなら、自分のことも待ってあげたらどうだろう?

 もっとたくさんの人が、自分のことを“待って”あげることができたなら。それは、「滞りのないこと」以上にスムーズで、最高に気持ちのいいことだと思うのだ。

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