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ROLLING ON THE ROAD〜僕が見た東京〜

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#東京

井出靖noteブログを御覧頂いている皆様へお知らせです。

井出靖noteブログを御覧頂いている皆様へ。
 
2023年1月10日に、初の自伝本「Rolling On The Road」が刊行されることとなりました!
このnoteを始める前から約5年断続的に書いていました。

僕が小学生から40歳になるまでの、実際に体験したり、影響を受けたりした東京の音楽を中心とした景色を書いています。
全編書き下ろし、376ページ(予定)になります。

一軒家で例えるな

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僕の体験した東京の90年代 第41回 人生は旅 Purple Noonが出来るまでPart.1

僕の体験した東京の90年代 第41回 人生は旅 Purple Noonが出来るまでPart.1

オリジナル・ラヴ、小沢健二君のマネージメントを終え、国内アーティストのプロデュース、クレモンティーヌらの海外アーティストのプロデュースや、ジャネット・ケイらのアルバムのアートワークらのクリエィティヴ・ディレクション、音楽評論家ではない、音楽紹介業、そして自身が買い付けを行う、レコード、洋服、小物、ポスターらを扱う店、FANTASTICAなどで多忙な中、僕は時間があれば旅に出ていた。

いや、いま思

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僕の体験した東京の90年代 第12回 小沢健二 ファンタスティカ

僕の体験した東京の90年代 第12回 小沢健二 ファンタスティカ

デビューシングル「天気読み」のリリースに向けて、フリー・コンサート後の宣伝効果に今一つ納得が出来なかった僕は、その夜の写真を使用した全面広告を朝日新聞に、と東芝EMIの宣伝部長に直訴した!
オリジナル・ラヴを辞める、と伝えたあの宣伝部長に、1年後には違うアーティストで全面広告を打ってくれ、と。いやあ、甚だ失礼だったと思う。

折角広告を出して頂いたので、自分なりになにか新鮮な恩返しは出来ないだろう

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僕の体験した東京の90年代 第11回 小沢健二 フリー・コンサート@日比谷野外音楽堂

僕の体験した東京の90年代 第11回 小沢健二 フリー・コンサート@日比谷野外音楽堂

当日は一体何人くらい日比谷野外音楽堂を目指したのだろうか?

日比谷公園の規則もあり、徹夜で並ぶのは厳禁。
告知をして、3日前からスタッフが夜回りをし、その度にお帰り頂いた。

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僕の体験した東京の90年代 第10回 小沢健二、高橋恭司との出会い、フリー・コンサート前夜

僕の体験した東京の90年代 第10回 小沢健二、高橋恭司との出会い、フリー・コンサート前夜

アーティスト写真を作成するにあたり、カメラマンを誰にしようか?
と悩んでいたある日、小沢君から、Joel Meyerowitz(ジョエル・マイロウィッツ)のような写真を撮る人はいないかな?とアイデアを受ける。
この感じいいんだよね!と「A Summer’s Day」の写真集を見せてもらった。

すごくいい!僕にとっても初めて見る色彩だった。
今でもマイロウィッツは好きな写真家で、インスタもフォロー

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僕の体験した東京の90年代 第9回 ネオアコ、él レーベル、そしてロリポップ・ソニックとの出会い。

僕の体験した東京の90年代 第9回 ネオアコ、él レーベル、そしてロリポップ・ソニックとの出会い。

話は少し80年代に戻る。

1982年にCherry Red Records(チェリー・レッド・レコード)よりリリースされた、いまでも語り継がれる名作コンピレーション・アルバム、「PILLOWS & PRAYERS 」からは多くの刺激を受けた。そういう音楽ファンは他にも多いと思う。

同じ年にLes Disques Du Crépuscule(クレプスキュール)からはThe Pale Founta

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僕の体験した東京の90年代 第8回 小沢健二 日比谷野外音楽堂への想い

僕の体験した東京の90年代 第8回 小沢健二 日比谷野外音楽堂への想い

小沢健二のマネージメントをすることになった僕だが、
オリジナル・ラヴの時のように全てプロデュースすることはなかった。
もちろん様々なアイデアは出したけれど。

天気読みのデモ、そしてレコード会社との契約、早速アルバムのレコーディングに入っていた。

小沢健二デビューにあたり、フリッパーズ・ギター時代を知る多くのファン、更なる音楽ファンに、なにが新鮮に映るかを考えていた日々だった。

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僕の体験した東京の90年代 第7回 小沢健二

僕の体験した東京の90年代 第7回 小沢健二

富ヶ谷にあった僕の事務所は地下にあって、ちょっとした異空間だった。
初めての自分だけの場所。

それは幼少期から作っていた「基地」だったかもしれない。
「宇宙」をテーマに。

デスク・スペースには銀色の鉄板がテーブル代わりに。
そこに60年代に実際に使用されていた電話、とアクリルで出来た椅子。
そこに僕が東急ハンズで毎日のように買ってきたホワイト、ピンク、ブルーの風船が膝丈くらいまでに。
それをか

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僕の体験した東京の90年代 第6回 オリジナル・ラヴ  のプロデュース、マネージメントを終了するまで。

僕の体験した東京の90年代 第6回 オリジナル・ラヴ のプロデュース、マネージメントを終了するまで。

1991年11月20日にセカンド・シングル「月の裏で会いましょう -Let's go to the darkside of the moon-」が発売。

この曲は高城剛が初めて監督したテレビ番組「BANANACHIPS LOVE」の主題歌にタイアップが決まって、さらに認知度が高まった。
でもこの辺りから、これから自分は芸能界の仕事をしていくのだろうか?と葛藤が生まれ、のちに離れることに繋がってい

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僕の体験した東京の90年代 第5回 オリジナル・ラヴ そしてクレモンティーヌ

僕の体験した東京の90年代 第5回 オリジナル・ラヴ そしてクレモンティーヌ

年が明けてから忙しさがさらに加速する。

前年「LOVE!、LOVE! & LOVE!」の録音を4月に終えたばかりなのに、
翌5月からはセカンド・アルバムの録音をスタートした。
ようやく2月に完成する。

「結晶 SOUL LIBERATION」

この頃からは、オリジナル・ラヴ以外のアーティストのプロデュースも同時進行でスタートした。

クレモンティーヌのデビュー・アルバムもその1つだ。

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僕が体験した東京の90年代 第4回 オリジナルラヴ、そしてジャズで踊るムーヴメント。

僕が体験した東京の90年代 第4回 オリジナルラヴ、そしてジャズで踊るムーヴメント。

1991年1月25日から遂にオリジナル・ラヴはメジャー・デビュー・アルバムのレコーディングに入る。

4月14日に終了。

これはリリースに先駆けて、メディア関係者向けに配ったものだ。

デビュー・シングル「Deep French Kiss」及びデビュー広告らのメイン・イメージは横浜の老舗ライブ・ハウス、エアジンで撮影。

女優の高岡早紀さんのお父上がオーナーだとは最近知った。彼女のジャズ・アルバ

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僕が体験した東京の90年代 第3回 オリジナル・ラヴとブルートニック 必然性のある偶然の出会い

僕が体験した東京の90年代 第3回 オリジナル・ラヴとブルートニック 必然性のある偶然の出会い

初の渋谷クアトロ・ワンマンを大成功に終え、
3カ月毎のクアトロでのレギュラー・ライブがスタート。

田島君のやりたいサウンドにメンバーが入れ替わり、立ち替わり。
 
そんな中、レッドカーテンの頃からのオリジナル・メンバー小里誠が去ることになる。(その後彼はコレクターズから自身のユニット、フランシスで活動中。うちのパーティにも参加してくれている。)

ベースを誰にしよう?オーディションを繰り返す。

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僕が体験した東京の90年代   第2回 ピチカートファイブとの出会い。

僕が体験した東京の90年代 第2回 ピチカートファイブとの出会い。

田島貴男君との出会いの前に、
やはりピチカートファイブとの出会いの話になるかな。

初めてピチカートのライブを見たのは渋谷パルコ・パート3だったと思う。細野晴臣さんのノンスタンダード・レーベルのイベント。
ブルートニックとピチカートファイブの対バン、に僕がDJとして参加。

まだデビュー・シングル「オードリー・ヘップバーン・コンプレックス」がリリースされたあたり。

その後、CBS SONYから出

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僕が体験した東京の90年代 第1回 オリジナル・ラヴ

オリジナル・ラヴは僕が初めてトータル・プロデュースとマネージメントを手掛けたバンドだ。

サウンドはもちろん、スタイリングからアルバム・ジャケットの
ビジュアル、ステージの演出まで全てを手掛けた。

1991年10月21日、オリジナル・ラヴ 初のホール・コンサート。
会場は渋谷公会堂。

メンバーの衣装は、僕が当時コレクションしていたスーツ、エルメネジルド・ゼニアの型をモチーフに、特注で誂えた紺の

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