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僕の体験した東京の90年代 第41回 人生は旅 Purple Noonが出来るまでPart.1

オリジナル・ラヴ、小沢健二君のマネージメントを終え、国内アーティストのプロデュース、クレモンティーヌらの海外アーティストのプロデュースや、ジャネット・ケイらのアルバムのアートワークらのクリエィティヴ・ディレクション、音楽評論家ではない、音楽紹介業、そして自身が買い付けを行う、レコード、洋服、小物、ポスターらを扱う店、FANTASTICAなどで多忙な中、僕は時間があれば旅に出ていた。

いや、いま思えば旅をまず組み、その隙間にプロデュース仕事を入れていた。

だからプロデュース仕事は、常に10ヶ月先まで毎日"予約が取れないレストラン"状態だった。

1番長い時は1ヶ月くらい。
例えばLAから最終目的地ヒューストンまでゆっくりと。
ご存知の通り、アメリカ内で時差が発生するから慣れないと厄介。
あと州を跨ぐ時は要注意。州によって制限速度が違うので。
真っ暗な道を走ってると突然警察が、、、なんてことも。

まあ、そんな旅を続けていると、いま何処に居るのか、今後どうなるのだろう、とかが段々と薄れて行く。

まるで人生そのもののように。

こうした旅を経験し、続けながら、2枚目のソロ・アルバムに着手し始めた。
1995年にLonesome Echoがリリースされた時には、既に録音を始めていた。

最初にアルバム・タイトルを決めた。

「Purple Noon」

不朽の名作映画「太陽がいっぱい」の原題から。


映画を観た人ならばわかると思うけど、最後のどんでん返しは忘れられない。人生は最後までわからない。

いまでも旅の途中だけど、まあ、かなり後半かな。

Purple Noonは当時35歳の自分に(自分と、ではない)向き合って作った作品だ。音のコンセプトもすぐに決まった。

メインは壮大な生演奏によるストリングス!
そこにダウン・テンポのビーツが。

僕が幼少期から影響を受け、常に頭の一部にあるムード音楽!
それの最新スタイルがイメージだ。

曲ごとに国内外のボーカリスト、その人しか出せない「声」。
そしてその人の演奏しか出せない「音」を求めて、世界中を旅することだった。

グランド・ビートからダウン・テンポ、後のトリップ・ホップに変化したように、僕も自然とそうしたトラックを作るようになっていた。

あるトラックはレコードをサンプリングして。
またあるトラックはドラムを録音して、それをバラしたり、組み立てたり、、、

アルバム・タイトルが出来ていたので、曲のタイトルも並行に進めて行った。

前に雑誌で読んだけど、マッシヴ・アタックも曲タイトルを決めることから始めるらしい。

イメージに合わせたプリプロ作業をしながら、生演奏に差し替えるダビングからスタート。

この頃は既に多数のプロデュース仕事で、自分達で打ち込みやアレンジをしていた。ストリングスはちょうど独立したばかりの金原千恵子ストリングスに。またストリングス・アレンジも同じ村山達哉君に。
金原さんのストリングス、村山君のストリングス・アレンジとは本当に多くの僕のプロデュース仕事でお願いしたなあ。
僕だけではなく、小西康陽君や大沢伸一君、朝本浩文君らも彼らと!
チーム的に役割が出来ていたので、手探りの中、Lonesome Echoを作った時よりは自分のスキルもあがっていた。

ある曲には打ち込みから生演奏のウッドベースに差し替えたり、別な曲のメロディを朝川朋之さんによるハープに差し替えたり。


当時シタールに凝っていたので、吉祥寺で羅宇屋なる店を手掛けていたシタール奏者の若林さんにお願いしたりした。(ちなみに、BONNIE PINKの泡になったのシタールも若林さん)

ある程度のトラックが見えてきた頃、国内でのフィーチャーするアーティストの録音が始まる。

まずは高橋幸宏さんにお願いした。

前回のブログでも書いたけど、ユキヒロさんのアルバム、「サラヴァ!」とかもう大好きだった。


オリジナル・ラヴの頃、"ヒトデ派"という、みんなでボーリングをするだけの集まりみたいなものがあり、その会長がユキヒロさんで、当時頻繁にボーリング場に通っていた。

ある夜、デカいヒトデ派の大会が東京プリンスホテルそばにあった、
芝ボーリング・センターで開催。

なんと、僕が優勝してしまった!!!
確か2ゲームトータルで390はいったはず。
(写真のその時の優勝トロフィー!)

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写真41-1

(*宝島 1992.4.9号)

当時そんな関係だったこともあり、事務所の方たちとも仲良かったので
ボーカルをお願いしてみた。
ユキヒロさんは、当時は他の方のアルバムにボーカルで参加したことがまだなく、、、事務所の方から、ドラムの録音料金ではいかがでしょう?と嬉しい提示をして頂いた。

ユキヒロさんの楽曲は、作詞はクリス・モズデルが担当してくれた!
クリスはご存知のようにYMOの楽曲の作詞家でも知られている。

彼のソロ・アルバムも好きだった。
ユキヒロさんから、クリスに作詞はどう?と言われ、僕が彼に会って作詞を依頼。青山のスパイラル・カフェで会ったのが初めてだったかと。

当日レコーディングまで来てくれて、発音の微妙なアクセントまでアドバイスをしてくれていた。

FBでいまも繋がってはいたけど、コロナ禍前の3年くらい前、僕の店の前での突然再会は驚いたな。僕のThe Million Image Orchestraのライブにも来てくれた。

いま思えば、いとうせいこう君がアルバム「建設的」でデビューしたレーベルは高橋幸宏さん、鈴木慶一さんが設立したT.E.N.Tレーベルだったし、僕のプロデュース2作目の「アンファン2」ではムーンライダーズのメンバー周りの鈴木さえ子さん、矢口博康さんも参加していた。

そして、清水靖晃さん。

マライヤからのダンサブルなソロ作品も好きだったけど。
「北京の秋」は格別だった。

「Purple Noon」にはまさにあの音色がないと!すぐに打診した。

曲は、ザ・スペシャルズの共演でも知られる、ジャマイカン音楽のレジェンドの一人、リコ・ロドリゲスの曲から「Some Day」に決めていた。

余談だけど、「北京の秋」のアルバム再現ライブはたった一度だけ、
法政大学の学館で行われたのであった。
もちろん見に行った!こんな母校は胸を張れる。

フィーチャリング・アーティストとの交渉から始まり、
快諾後、キーの決定でメインのストリングスをダビングする。
プロデュースの通常作業だけれど、自分の作品だとやたら慎重に緊張する。
20人以上の豪華大編成だ。
ストリングスは金原千恵子ストリングス。

日本でのレコーディングは無事に済み、次は海外に。

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