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ラオスがよくわかるnote(人口、気候、言語、民族、宗教、歴史、豆知識など。特にインドシナ戦争との関係が興味深い。)

前回に引き続き、今回もお勉強っぽい内容のnoteです。ラオスを旅していると、歴史が気になってしょうがなくて、色々また読んでいました。ネットで見つけたわかりやすいものをベースに、素人ながらに僕が情報を足した形です。共産主義国ラオスについてこのnoteで一緒に学びましょう!笑

なんたってまたまた情報量がてんこ盛りなので、掻い摘んで興味のある部分を読んでくださいね◎

参考にしたのはこちらです
第1章 概観(国土、民族、気候、社会、歴史等)

https://www.jbic.go.jp/ja/information/investment/image/inv_Lao011.pdf


■正式国名
ラオス人民民主共和国
Lao People’s Democratic Republic

■ラオスの国旗
青いメコン河に映る満月をモチーフ
革命で流れた人々の血を表す赤色が上下を覆う
青は繁栄、白い丸は国民統合を象徴する

人口

約 669 万人(2014 年推計)
2014~2015 年の人口増加率は 1.9%
平均寿命は 67.6 歳
年齢別の人口構成
生産年齢である 15〜64 歳が人口の 61%
これから労働市場に参入してくる 0~14 歳が 35.5%
平均年齢は 21.6 歳
周辺国と比べて最も低い

他の国の人口
中国 36.8 歳
タイ 35.1 歳
ベトナム 28.7 歳
ミャンマー27.6 歳
カンボジア 23.7 歳

地理

■国土
ラオスの面積は 23.7 万 km2(日本の本州の面積とほぼ同じ)
インドシナ半島を北から南へ流れるメコン河に沿って長く延びる内陸国

■国境を接する国々
東:ベトナム(アンナン山脈に沿って)2,130km
西〜南:タイ(主にメコン河に沿って)1,754km
北:中国
南:カンボジア
北西:ミャンマー

北部
500 メートルを超える山岳地帯に盆地が点在

中部〜南部
メコン河沿いに平野が広がる

東部
アンナン山脈が南北に走るため山がち
森林被覆率は 40.3%(2010 年)

北部
焼畑耕作の減少で森林が回復

南部
商品作物(ゴム、キャッサバ、コーヒー、サトウキビ)の大規模栽培
開発が進み、森林は減少傾向

首都

ビエンチャン特別市
人口は 79.7 万人
人口の約 1 割を占める
日本との時差は 2 時間(タイ、ベトナム、カンボジアと同じ時間帯)

気候

気候
熱帯モンスーン気候

■季節の区分

雨季(6~10 月)
・例年 8~9 月に最も降水量が多い
・年によってはメコン河やその支流で洪水となる

乾季(11~5 月)
・ 11~1 月:冷涼な季節
・ 3~5 月:酷暑(最高気温は 40 度近い)
・例年 2 月頃に、冬から夏へ季節は一気に変わる

洪水

ラオスの雨季
6 月から 10 月頃まで
例年 8~9 月は最も雨の多い月
ラオスの首都ビエンチャン
メコン河の河口から 1,500 キロ弱
標高は 200 メートルに満たない

メコン河は傾斜が非常に緩やか
→メコン河上流で降った雨がビエンチャンに到達するのに約 1 ヶ月かかる

雨の多い年はメコン河やその支流沿いで洪水となる
増水は非常に緩やか
住民は高床式の住居に住み、増水をやり過ごしたり、高台に住む親戚を頼って移動する

洪水についての歴史

1966 年
町の中心部が広く冠水

2008 年
ラオス政府が全力を挙げて、メコン川沿いに土嚢で堤防を築く
浸水を最小限にとどめる努力
この洪水の経験から、ビエンチャンのメコン河沿いに新たな堤防道路が築かれ、公園の整備が行われた。

2009年
台風 16 号(ケッサナー)がラオス南部を襲い、アタプー県では洪水によって死者が出た

2011 年
台風 4 号(ハイマー)、台風 8 号(ノック天)がラオス中部へ侵入
洪水など大きな被害を与えた

近年
地球温暖化の影響か、南シナ海からベトナム中部へ上陸した台風が、アンナン山脈を越えてラオス中部・南部を襲い、山岳地帯に大雨を降らせ、突発的な洪水を引きおこすケース増加

ラオス
水力発電ダムの建設が進んでいる
多雨によって貯水池の水位が上がりすぎた際に一気に放水する
下流の河川流域の洪水被害が深刻化するなどの問題も

民族

少数民族の国ラオス
ラオスは人口の半数近くが少数民族
それぞれ独自の言語や文化を持っている

少数民族
山岳地域に多く住む
北部山岳地帯や南部のメコン河沿いには少ない

北部の少数民族
中国からこの数百年以内に南下してきた人々が多い
中国文化の影響が強い

ラオ族
人口の 55%を占める
メコン河沿いの平野

それ以外は少数民族
カム族(11%)、モン族(8%)など 49 民族で構成

カム族など
モン・クメール語族
北部(ルアンパバーン県・ウドムサイ県)や南部の高原地域に多い

モン族など
ヤオ(ミエン)族なども。
北部山岳地帯の東部(ルアンパバーン県、シェンクアン県)

アカ族など
シナ・チベット語族
北部山岳地帯の北部(ポンサリー県、ルアンナムター県)

通俗的な 3 分類
・低地ラオ族(いわゆるラオ族)
・中地ラオ族(モン・クメール語族)
・高地ラオ族(モン・ミエン族、シナ・チベット語族)

モン族

モン族は正月に餅をつき、コマを回す。
日本と似た風習を持つ。

一部の人々は、第 2 次インドシナ戦争時に米国側に協力戦後、モン族の多くの人たちが米国へ亡命。

現在、ラオスに住むモン族は46 万人。
それに対して、米国には 26万人。

民族のアイデンティティや一族の結束が強い。正月に着る民族衣装をラオスに住むモン族が刺繍して作り、米国に住む親戚が毎年買うなどして援助するケースが多い

近年のインターネットの普及米国に住むモン族とラオスに住むモン族の若い男女がネットを通して知り合いになり、結婚して米国に渡るケースも多い

ラオスにおける少数民族のトピック
※特に多数派を占めるラオ族とモン族の関係

外国人が想像する以上にセンシティブな問題?
ラオス人との会話では口にしないほうが良い?

言語

公用語はラオス語
※ラオス語はタイ標準語と方言程度の違いしかない
メコン河を挟んで対岸に当たるタイ北部や東北部の言語とほぼ同じ

人口の約半数を占める少数民族
それぞれ独自の言葉を持つ
そのほとんどは自分の民族の言葉と公用語であるラオス語の両方話せる

宗教

人口の 3 分の 2 が仏教徒(66.8%)
それ以外はアニミズムなどを信仰
キリスト教徒も 1.5%ほど

教育

現行の教育制度
「五・四・三制」(小 5、中 4、高 3)
2009 年に導入された

大学・専門学校は 3~6 年
義務教育は、小学校の 5 年間のみ

従来、就学率の低さが問題だった
近年は外国援助などによって山岳部の村落のほとんどに小学校が造られた
就学率は大幅に改善されつつある
しかし、小学校の増加に対して教師の育成が追いつかず、教育の質が問題
退学率や留年率は依然として高い

高等教育
2002 年までビエンチャンのラオス国立大学が唯一の国立大学だった

大学の開設
・北部ルアンパバーン(2003 年)
・南部チャンパサック(2002 年)
・サワンナケート(2009 年)
※現在、4 つの国立大学がある

近年の経済発展に伴い私立の大学・専門学校の設立が急増
その数は 50 校を超える
その多くは、英語・会計・ビジネス管理など実用的な教育を行う単科大学

ラオス政府
工場の増加に伴う労働力需要に対応するため、
技術・職業訓練校の設立にも注力

通貨

ラオスの通貨:キープ(kip)
1 キープ は0.0072 円。
お昼ご飯の海鮮チャーハン:25000キープ=179円

1990 年代〜 1996 年
1 ドル=700~900 キープと比較的安定

1997 年 7 月
隣国タイに始まったアジア通貨危機

〜2002 年
1 ドル=10,000 キープを超えて下落

2003 年以降
アジア通貨危機(※)から脱した
鉱産物などの輸出が順調に伸びた

2014 年 6
1 ドル=8,064 キープ
1 円=79 キープ

2024年2月9日時点
1 キープ は0.0072 円
1円=139.34キープ

アジア通貨危機
1997年にアジア諸国で発生した経済危機。通貨急落・金融混乱が起きた。
タイが中心で、不良債権や経常赤字が原因。急激な通貨下落や金利急騰が広がった。多くの国で経済に深刻な影響を与えた。

歴史年表(16世紀〜)

ランサーン王国の誕生〜仏領インドシナ時代。

ラオス
14 世紀にファーグム王が建国したランサーン王国(「百万の象」の意)に起源を持つ。都は現在のルアンパバーン。

16 世紀
ランサーン王国は興隆するビルマに押されていた
ルアンパバーン→ビエンチャンへ遷都

ランサーン王国の首都=ビエンチャン
インドシナ各地を結ぶ交易都市

17 世紀
最盛期を迎えた
海上交易の発達とともに徐々に勢力を失った

18 世紀
ランサーン王国
ルアンパバーン、ビエンチャン、チャンパサックの 3 つの王国に分裂

19 世紀半ば以降
フランスがベトナム・カンボジアへ支配を拡大

1887 年
仏領インドシナ連邦を設立
翌年にラオスも保護国として連邦に編入された

※内戦→ラオス人民民主共和国樹立の流れ


1949 年
ランサーン王国:フランス連合内の協同国として名ばかりの独立を果たした

パテートラオ臨時政府樹立

※パテートラオ

北東部の山岳地域を押さえる左派勢力。
フランスからの完全独立を目指す。北ベトナムと協力。
首相:スパヌヴォン
国防大臣:カイソン・ポンヴィハン

王国政府
中立国としての立場を取った
メコン河沿いの諸都市を押さえる
次第に右派及び米国との協力を強める
左派勢力・北ベトナムと対決

1960年 - 1975年
第二次インドシナ戦争(※)
隣国ベトナムでの戦争の影響で、ラオスでも内戦が激化

1975 年 4 月
北ベトナム軍がサイゴンに入り南ベトナム政府が無条件降伏

1975年8 月
パテートラオ軍がビエンチャンに進駐

1975年 12 月
ラオス人民民主共和国の独立が宣言された

インドシナ戦争の補足

第一次インドシナ戦争
1945〜1954年
当時フランスの植民地であったフランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの脱植民地化をめぐってベトナム民主共和国とフランス共和国との間で勃発した戦争。単に「インドシナ戦争」と言うと、「第一次インドシナ戦争」のことを指し示す。

第二次インドシナ(ベトナム)戦争

第二次インドシナ戦争(=ベトナム戦争)
1960 - 1975年
分断された南・北ベトナムの統一、ラオスにおける左右両派の主導権、カンボジアにおける左右両派の主導権をめぐって展開した戦い。ベトナム戦争、ラオス内戦、カンボジア内戦の総称。

当時南北に分断されていたベトナム内での戦争
北ベトナム:社会主義(ソ連、中国)のベトナム民主共和国
南ベトナム:資本主義(アメリカ)のベトナム共和国

冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争

ベトナムの南北両国では以前から対立が続いていた。

南ベトナム国内
北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(共産主義サイド)が活動
→南ベトナム(資本主義サイド)の警察や軍などと争い発生

南ベトナムの同盟国アメリカ
以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助

1964年8月
トンキン湾事件(※)を契機としてアメリカが全面的な軍事介入を開始

トンキン湾事件
1964年8月
北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件。これをきっかけに、アメリカ合衆国連邦政府は北爆を開始、本格的にベトナム戦争に介入することになったと評される。しかし、1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手。事件の一部はアメリカ合衆国が仕組んだものだったことを暴露。

南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入
アメリカ軍は、北ベトナム軍・解放戦線(共産勢力)側によるゲリラ戦を相手に苦戦。最終的に和平協定を結んで撤退。

1975年4月30日
北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させた。ここまで戦争は続いた。

***

北ベトナムの味方
同じ東側諸国に属する社会主義国
・ソビエト連邦(ソ連):軍事顧問を派遣
・中国:防空作戦部隊や工兵部隊を派遣
・北朝鮮:空軍のパイロットを派遣

南ベトナムの味方
西側諸国に属する資本主義国
韓国:28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣
オーストラリア:3,000人の部隊を派遣
タイ、フィリピン:2,000人の部隊を派遣
ニュージーランド:戦車部隊や医師など200人を派遣
台湾:心理戦や農業部門で関与。間接的な協力。
日本:医療関係で協力

両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果に

1973年
パリ和平協定締結
アメリカ軍などは撤退→その後も戦闘は続いた

結果
北ベトナム側(社会主義)の勝利
南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊
この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大

ラオス内戦
ラオス王国とパテート・ラーオが戦った


カンボジア内戦
クメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦った

※ラオス・カンボジアでも社会主義国側の勝利
結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった

歴史年表(1975〜)

1975 年
ラオス人民民主共和国設立
農業の集団化、計画経済の導入
社会主義の建設を進める
しかし、農産物・消費物資の著しい欠乏が発生

1979 年
社会主義化を一時中断

1983 年
再び社会主義化の推進を行った

1986 年
ペレストロイカ政策を実施したソ連共産党の指導。ラオスでも市場メカニズムの利用と対外経済開放を柱とする新思考政策が導入。

1980 年代後半〜1990 年代初頭
ソ連・東欧諸国で共産・社会主義政権が相次ぎ瓦解
ラオス政府は危機感から新思考政策を本格化
西側諸国からの援助・投資を積極的に取り入れていく

1991 年
憲法制定(但し、2003 年に改正)

1997 年 7 月
ASEAN へ加盟
同月に隣国タイで始まったアジア通貨危機の影響を受け、経済は低迷
ラオス政府は景気の刺激を目的として、多くの国境を外国人に開放
大量の観光客が流入し、ホテル・レストラン・観光業が急速に発展。

2003 年
アジア通貨危機の影響を脱し始めた
オーストラリア資本が開発した大規模なセポン金銅鉱山が操業開始
鉱産物の輸出が大幅に増加
→経済発展に弾みをつけた

■ラオスの開催した会議・イベント等
2004 年:ASEAN 議長国として首脳会議
2009 年:ASEAN 加盟国のスポーツ競技会である SEA ゲーム
2012 年: ASEM 会議
→国際社会での存在感を増している

2013 年 2 月
WTO への加盟

陥落と解放:インドシナ戦争

第 2 次インドシナ戦争を見る視点について

1975 年 4 月 30 日
第 2 次インドシナ戦争終結

北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンへ入り
南ベトナム政府が無条件降伏した

第 二 次インドシナ戦争(=ベトナム戦争)の復習

ベトナム戦争
当時南北に分断されていたベトナムの南北間で勃発した戦争
・北ベトナム:社会主義(ソ連・中国)のベトナム民主共和国
・南ベトナム:資本主義(アメリカ)のベトナム共和国
冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争。

ベトナムの南北両国では以前から対立が続いていた

南ベトナム国内
南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムの共産主義側にに支援された反政府組織)が活動→南ベトナム(資本主義側)の警察や軍などと争っていた

南ベトナムの同盟国、アメリカ
以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助

1964年8月
トンキン湾事件
これを契機として全面的な軍事介入を開始
南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入

アメリカ軍(南ベトナム・資本主義側)
北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦
最終的に和平協定を結んで撤退

1975年4月30日
ベトナム戦争終結
北ベトナム軍(共産主義側)が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させた

※詳細はこのnoteですでに触れた「第二次インドシナ戦争」参照

この史実の呼び方
・日本:「サイゴン陥落」
・ベトナム:「サイゴン解放」(ラオスでも同様)

1975 年 8 月
パテートラオ軍のビエンチャン進駐
「サイゴン解放」に続くこの出来事も「革命」と並んで「解放」と呼ばれる

歴史年表(総まとめ版)

14世紀
ファーグム王、ランサーン王国を建国。首都ルアンパバーン

16世紀
ランサーン王国の首都、ルアンパバーンからビエンチャンへ遷都

17世紀
ビエンチャン、インドシナの交易拠点として繁栄

18世紀
ランサーン王国、ルアンパバーン、ビエンチャン、チャンパサックの3王国に分裂

1886年
仏領インドシナ連邦の設立

1888年
ラオスは保護国として仏領インドシナに編入

1949年
ランサーン王国、フランス連合内の協同国として独立
パテートラオ臨時政府の樹立

1954年
ジュネーブ協定調印

1975年4月
北ベトナム軍がサイゴンに入り、南ベトナム政府は無条件降伏

1975年8月
パテートラオ軍、ビエンチャン進駐

1975年12月
ラオス人民民主共和国樹立

1976〜78年
社会主義化の推進と経済の混乱

1979〜82年
社会主義化の一時中断

1983〜85年
再度の社会主義化推進

1986年
新思考政策の導入

1991年
憲法制定

1997年7月
ASEAN加盟

2003年
セポン鉱山操業開始

2004年:ASEAN議長国として、首脳会談を開催
2009年:ビエンチャンでSEAゲーム開催
2012年:ASEM会議を開催

2013年2月
WTO加盟

ラオスに関する豆知識編

貧しい子どもたちの教育と仏教

ラオスの早朝
お寺のお坊さんがたくさんの小坊主さんとともに托鉢をする姿
ルアンパバーンの托鉢は有名。

小坊主さんたちの多くは、田舎の貧しい家庭の子どもたち
仏教徒ではない少数民族である場合も少なくない
貧しい家庭の子どもたちに高い教育を受ける機会を提供しているのが、このお寺の出家制度

出家してお寺に入る子どもたちのほとんどが教育目的
ルアンパバーンのお寺で小坊主をやっている子どもたち

なかには毎日、観光客をつかまえては外国語を熱心に勉強し、語学を習得して、観光業界で働くケースも多い。

お寺にとっても、農村部や少数民族に仏教を普及するという効果がある
お互いにメリットがある。

共産主義とシスーク氏の帰国

1980 年代後半
ソ連や東欧諸国で共産政権が瓦解
それらの国の支援に依存していたラオス政府の危機感が高まった

1989 年
カイソン首相(当時)
支援を求めるために3 都市訪問(パリ、モスクワ、東京)
パリを訪問した際、かつて南部パクセーを拠点とする大資本家であり、革命後はフランスへ亡命していたシスーク氏を自ら訪ねた。海外に住む亡命ラオス人を呼び戻すため、まずシスーク氏に帰国を要請。

要請に応じて帰国したシスーク氏。シスーク氏には、家屋や土地の一部が返還され、国会議員の地位が与えられた。

1989 年以降
全方位外交が始まり、新経済メカニズムの導入が本格化

関連するベトナムでの市場開放に繋がった出来事👇

ドイモイ政策
現代のベトナムで1986年12月から採用された改革路線。ベトナム語で「刷新」の意味で、ベトナム社会主義共和国政府が掲げた社会主義一党独裁の下での市場経済導入を中心とした経済再建政策のこと。

多民族国家のお祭り

ラオスの雨季

パンサー(安居)
僧侶は托鉢を止めて寺に籠もって修行を行う(3 ヶ月間続く)
この時期は、農民は稲作を中心とする農繁期。結婚式も行われない。
人々は寺院へ行って托鉢を行う。

パンサーの期間
始まり「カオ・パンサー」: 7 月の満月
終わり「オークパンサー」:10 月の満月

ビエンチャン
オークパンサーの日の夜にメコン河で灯籠流し(ローイカトーン)
翌日にメコン河でボートレース

雨季が終わるとお祭り、お正月の季節
11 月の満月(=オークパンサーから 1 ヶ月後)

タートルアン寺院
ヴィエンチャンのシンボルと言えるラオス仏教のお寺。ヴィエンチャンに遷都したセターティラート王の命により16世紀半ばに建立された。高さ45mの黄金の塔で、中には仏陀の骨(仏舎利)が納められている。

タートルアン祭り
毎年11月頃(太陰暦12月)の満月に行われる。全国から僧侶が集まると言われており、ラオスの仏教者にとって、もっとも重要な行事のひとつ。

モン族のお正月

このころモン族は陸稲の刈り入れを行う
稲刈りが終わった次の新月(通常、11 月末から 12月)
=モン族の正月

モン族の正月は収穫祭的な意味合いを持つ
モチをつき、コマを回し、男女が鞠を投げ合うモン族の正月
どことなく日本の正月の風習を思わせる

いわゆる西暦の正月
=ラオス人にとってはあまり重要ではない
役所や企業も 12 月 31 日の午前中まで仕事
午後はさすがに飲んで踊るお祭りに

1 月 1 日は休日
1 月 2 日からは通常業務

旧暦の正月
例年 1 月後半~2 月前半ごろ

ラオスには中国系、ベトナム系の住民が多い
少数民族の中にも旧暦の正月を祝う人たちが多い

水掛まつり

一年中で一番暑い、4 月 14 日~16 日の 3 日間(ラオ族の正月)
→お互い水を掛け合う「水掛祭り」

・ルアンパバーン:伝統行事が執り行われる
・ビエンチャンなどその他:大音量の音楽をかけて飲んで踊り明かす 1 週間

ラオ族の正月頃〜
雨の降る日が徐々に増え、農繁期が始まり、祭りの季節は終わる。

さいごに

どうでしたか?またまた長くて重たい内容にはなりましたが、楽しんで読んでいただければ嬉しいです。コメント、感想、間違いの指摘、歴史解釈のアドバイスなど、お気軽にどうぞ!お待ちしております。

最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋


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僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。