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◆愛知⑦◆豊川と岡崎の神社仏閣と名古屋港水族館【愛知シリーズ/三河シリーズ/名古屋シリーズ】

メインディッシュは33年に一度の秘仏公開!!そして行きたかった岡崎の寺へ!!愛知に行った時のデザートは名古屋港水族館でマストです。バンドウイルカの赤ちゃん公開したよう。

この旅行記の神社仏閣は写真中心です。神社仏閣の詳細はもうひとつのNOTEを参照ください。2025年桜の時期以降に出します。岡崎市だけ2025年2月くらいに出します。
https://note.com/yanma_travel/


▼ルート

▽2024年10月25日(金):豊川市

#財賀寺 :愛知県豊川市財賀町観音山3:聖武天皇&源頼朝&徳川家康所縁「財賀寺」仏像の宝庫!見仏インフレ発生中

 2024年は創建1300年を迎えたため60年に一度の秘仏・千手観音立像の御開帳!この千手観音像は、平安時代に行基によって刻まれたと伝えられている。
 秘仏公開は次のNOTEです。

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n2cf9de2227da)

丹波から蚕って秦氏?「 #犬頭神社 #服織神社 #籰繰神社 」京へ犬頭!皇室へ安産祈願献上

 三河国は古くから養蚕が盛んな地域で良質な絹糸を生産しており、奈良・平安時代には税物として納めていた。犬頭神社で繭が生まれ、籰繰神社で糸にされ、服織神社で反物を織ったという神話が残っている。三河国の絹糸は「犬頭糸」ともよばれ、『今昔物語』に「参河の国に犬頭の糸を始むる語」という説話があるように、都でもよく知られていたようだ。
 籰繰神社は丹波王国から移った人々から成り立ったとされるのも含めて、出雲や秦氏が流れてきたと思うのは私だけか?その答えは、菟足神社に行けばわかる。豊川稲荷もある地ですしね~。(稲荷=秦氏)

 →犬頭神社

  • 640年頃、創建

  • 祭神は保食大神

  • 古くから養蚕の神として信仰され、神社の由来について「千両の犬頭の糸」の昔ばなしが伝わっている

  • この犬の頭を葬った所に社を創建したのが犬頭神社

  • 犬の尾は今の大崎町に葬り、足は一宮町の足山田に葬ったと伝えられている

  • 犬頭神社で生産された繭は、後述する「籰繰神社」で糸にされ、「服織神社」で織り上げられたとか

  • 養蚕が盛んで、年貢を千両ずつ納めたところから「千両町」 という名が付いたとか

  • 「犬頭糸」 という絹糸の名称は今でも使われ、境内には 御神木の桑の大樹がある

  • 927年に完成した『延喜式』、『今昔物語集』に犬頭という社名の記述がある
    →参考:https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisei/koho/kohotoyokawabacknumber/23nen/230101go.files/ufile_munic_19488.pdf

  • 延喜式などでは「犬頭大明神」とされ、下千両村の産土神として信仰を集めていたようだ

  • 1691年、領主・松平和泉守乘邑が社号額を奉納

犬頭神社
犬頭神社
犬頭神社
犬頭神社

 →服織神社

  • 公式HPは「http://hataori-jinja.com/

  • 社伝では5世紀に、養蚕機織守護神として、天機姫命を勧請して服織天神を奉斎したとされている

  • 平安時代に記された「三河国内神名帳」には、「服部天神 坐宝飯郡」という記載があることから古社

  • 棟札も鳥羽大明神や鳥羽明神と記されている

  • ハトリという地名は現在中田の一本杉と呼ばれ少しの空き地と何代目かの杉の木が残っている

  • 1605年、武田家家臣・山本四郎左ヱ門が現在の境内に社殿を造営したことがわかっている

  • その昔、犬頭神社 で生産された繭は 籰繰神社で糸にされ、ここで織り上げられたので「 服織(はたおり)」 という名がついた

  • 祭神は天機姫命で、別名は天八千千比売命天衣織女命

  • 機織の神であることから栲幡千千姫命と同一神説がある

服織神社
服織神社
服織神社
服織神社
服織神社
服織神社

 →籰繰神社

  • 公式HPは「https://wakuguri-jinja.com/」、インスタは「https://www.instagram.com/explore/locations/1018165727/

  • 御札授与所で安産の御札のセットが用意されている

  • 5世紀後半ごろ、穂国(豊川流域、おもに宝飯郡あたり)を治めていた国造が、丹波の国(私のNOTE)から、保食神と稚産霊神(ワクムスビノカミ)の分霊をこの地に迎え入れたのがはじまり
    →つまりのところ、籠神社の奥宮・眞名井神社(私のNOTE)から伊勢神宮外宮(私のNOTE)に遷ったトヨウケを指しているのでしょうか

  • 社名のの「籰繰(わくぐり)」の「籰(わく)」は、糸をまく道具を意味し、「繰(ぐり)」は巻き付けるという意味がある

  • この辺り一帯は、その昔、養蚕が盛んだったと言われており、犬頭神社で繭が生まれ、東上町にあるこの籰繰神社で糸にされ、服織神社(機織神社)で反物を織ったという神話が残っている

  • ということからも「稚産霊神」ってアマテラスの妹神なのかもしれない・・・。

  • 1608年、 三河国の代官・彦坂九兵衛(定次)が、豊川の洪水を恐れ現在の豊川市東上町権現に神社を遷座

  • 江戸時代から皇室へ安産祈願のお札などを献上している

    1. 照宮成子内親王(大正十四年)

    2. 久宮祐子内親王(昭和二年)

    3. 浩宮徳仁親王(昭和三十五年)

    4. 礼宮文仁親王(昭和四十年)

    5. 紀宮清子内親王(昭和四十四年)

    6. 敬宮愛子内親王(平成十三年)

  • 1972年、2024年時点での今上天皇と秋篠宮様が進学したときに、美智子さまから五葉松1対が贈られ、拝殿の向かって左下に植樹した

  • 近年では、雅子様が愛子様をご懐妊された時、2024年時点の今上天皇のご誕生の際にも献上している

  • 神社でお配りしている安産セットは、皇室に奉献したものと同じ

籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社
籰繰神社

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n005078f1e509)

ランチ「 #寶舎

 砥鹿神社の途中にある店をチョイス。味噌カツ食べると見せかけてソースかつ丼!?

食堂 寶舎 (たからや) - 三河一宮/食堂 | 食べログ
食堂 寶舎(豊川/定食) - Retty

三河一宮は出雲っていた「 #砥鹿神社 」里宮と奥宮

 砥鹿神社は本宮山に千三百年以上前から鎮まる神を祀る奥宮と、里にて祀る里宮とで二所一体の崇敬を集める神社。また三河国内の筆頭神社一之宮である。
 『但馬続風土記』によれば、大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮に移り、更に東方三河国に向かわれたとある。社伝には、その後本宮山に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

  • 欅や楠に囲まれた荘厳な檜造りの社殿

  • オオクニヌシこと大己貴命(オオナムチ)を祀る三河国一之宮

  • 歴史は1300年以上

  • 850年、851年、864年、870年、876年、昇叙された

  • 古くから朝廷の崇敬が篤く、平安時代には『延喜式』に記されている

  • 東寺は、知立神(愛知県知立市の知立神社。三河国二宮)と併記され、六国史終了時点の神階は三河国内では知立神とともに最高位になる

  • 1574年、『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』では、文武天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建された

  • 1602年、家康は朱印領として百石の寄進をしたぐらい重要視された神社

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n6c6db21c896f)

スサノオ💛稲田姫!豊川稲荷から300m古社「 #豊川進雄神社 #徳城寺 」火のお祭り

 明治以前は豊川牛頭天王と呼ばれ、領主たちに崇拝されていた。元々は下鴨神社と上賀茂神社、貴船神社などと同じく2社制だったようだが、時代とともに合祀していく。

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/ndf22b1abfb89)

 →豊川進雄神社

  • 本社と元宮の二社制だった

  • 本社の御祭神は進雄命で、元宮(稲田神社)には進雄命の妃・稲田姫が祀られていた

  • 1923年、元宮は本社へ合祀され、現在は御旅所となっている

  • 701年、現在の元宮の地に創建

  • 大干ばつの年で、旧鎌倉街道沿いの元宮の地に牛頭天王をお祀りして雨乞いを行ったことが始まり

  • 古代から中世の頃には、平家の鎌倉追討使の戦勝祈願や鎌倉将軍上洛の参詣があったと伝わる

  • 平安時代以後、進雄命は牛頭天王(天王)と称された祇園精舎(私のNOTE)の守護神で、薬師如来の仮の姿ともされ、厄除けの神とされてきた

  • 鎌倉時代、津島牛頭天王社(私のNOTE)の鎮座する尾張海東郡の領主・大江一族が当地に入る

  • 室町時代、天王信仰が盛んになったとさ

  • 1590年、吉田城主・池田輝政の領地となり、当社を崇敬し、刀・鞍等を奉納したと伝えられている

  • 江戸時代には、領主・水野佐渡守や天領代官など多くの領主に保護された

  • 1735年、名奉行・大岡越前守忠相が当地を所領すると、刀や灯籠、本殿修理料などが献じられた

  • 以後幕末まで大岡家から継続代参があり、供物が献納された

  • 神仏分離で、神社名を「豊川牛 頭天王社」から「進雄神社」と改めた

  • 1923年、「豊川進雄神社」と 改称

 →徳城寺

  • 豊川進雄神社に沿った道の南側にある

  • 小さなお堂が建てられ、その中に深さ1mほどの井戸がある

  • 不思議な自然現象の井戸なので、弘法大師の掘った「錫杖井戸」としている

  • 822年、山号は祇園山の古寺

  • 本尊は阿弥陀如来

  • インスタは「https://www.instagram.com/explore/locations/1018597997/

日本三大稲荷!霊狐塚「 #豊川稲荷 (#妙厳寺)」神仏習合

 日本三大稲荷なので神社と思っていましたが、正しくは「妙厳寺」で寺です。秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」という、稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになった。
 豊川稲荷には、1000体の狐の石像が並ぶ霊狐塚が有名で、撫でると福をもらえる「おさすり大黒天」、打ち出の小槌を振りながら大黒天にお参りできる「景雲門」など、見どころが多い。

  • 鎌倉時代、順徳天皇は承久の乱で鎌倉幕府と対立して負け、24歳で佐渡島に流された

  • 天皇には「寒巌義尹(かんがんぎい)」という5歳の子どもがいた

  • 寒巌は比叡山(私のNOTE)で出家する

  • そして曹洞宗の開祖・道元を京都宇治・興聖宝林寺に尋ね、弟子となって修行を始めた

  • 寺が比叡山などからの弾圧を受け、道元は永平寺を開創するのだが。寒巌も一緒に移り住む

  • その後、寒厳は2度にわたって中国に出向く

  • 寒厳が2度目に中国に渡った帰りのこと、海の上に白いキツネに跨った女神が現れて「オンシラバッタニリウンソワカ。われは吒枳尼眞天(だきにしんてん)なり。私の教えを守れば、苦しいことも悲しいことも、必ず喜びに変えましょう。疑うことなかれ」と言って消えたそう

  • 寒巌は、女神の木彫の仏像を作り、持ち帰った千手観音、吒枳尼眞天像と一緒に、九州博多の聖福寺に祀る

  • その後は、熊本に移り「大慈寺」を開創し没する

  • 1441年、三河出身で、遠江の曹洞宗「普済寺」の僧が九州に行き、吒枳尼眞天と千手観音を持ち帰り、千手観音を本尊に吒枳尼眞天を守り神として、豊川の地に小さな寺を作る

  • 寺の名前は、寒厳から一文字を取り、仏様の知恵を意味する「妙知力」の妙を合わせて名付けられた

  • 江戸時代には稲荷信仰がブームになり、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、大岡越前守忠相、庶民の間にも信仰が広がる

  • 商売繁盛や家内安全、五穀豊穣、福徳開運の神として吒枳尼眞天が注目され、稲荷さんとして全国に知られていく

  • 大岡越前守忠相は、江戸の自邸の庭に吒枳尼眞天を迎え祀り、それが今、東京赤坂にある豊川稲荷東京別院の起源となっている

  • 豊川稲荷では2030年、100年ぶりとなる吒枳尼真天の御開帳が計画されている

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/nf80a1d01d629)

豊川稲荷と同じく神仏習合「 #三明寺 ( #豊川弁才天 )」弁財天と重文の宝塔

  • 縁結び、金運、芸能のご利益で知られる女神・弁財天の神仏習合の場所

  • 701年~704年、文武天皇の勅願により、大和国・橘寺(私のNOTE)の覚淵阿闇梨が寺を建立

  • 呉国の知蔵法師が経論の三蔵を安置したことに始まる

  • 三河国の国司・大江定基がこの寺に弁財天の尊像を祀った

  • 大江定基はこの地で、若く美しい娘・力寿と恋に落ちたが、力寿は早くに病で亡くなってしまう

  • 大江定基は力寿の死を悲しみ、面影を永久に残そうと弁財天の御像を刻んで寺に奉納したと伝えられている

  • 1184~1185年、三明寺の僧・忠源が源義仲に加担すると、源範頼の家臣・河合五郎により寺が焼き払われ荒廃してしまう

  • 室町時代に、後醍醐天皇の皇子で、奥山半僧坊を開山した無文元選が、寺の荒廃を嘆き再興

  • 弁天池を渡った正面にあるのが旧本堂で、裏手には本堂があり、本尊・千手観音像が安置されている

  • 堂内の宮殿@重文に弁財天が祀られている

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n53c2148078e9)

手筒花火奉納「 #中條神社 」伊雑大神??伊勢神宮繋がり?

子供たちが境内で遊ぶ昔良き神社の風景!子供映り込み過ぎのため写真少なめです。。久しぶりに境内で走り回り、ボールを使って遊んでいる光景を見た気がする。

  • 『三河国内神名帳』の「上加知天神」とある社で、河内國古市郡槇庄・真木定観の守護神だったよう

  • 真木定観は後醍醐天皇を奉じて吉野山にて最後まで戦った士で、その後裔は刀鍛冶となり、この地に居住し加知天神を祀った

  • 加知天神は、782年から805年に、里人が熱田神宮から日本武尊・天照大神を勧請した神様なので古社のようだ

  • 857年から858年、渡津宿から金山彦大神を遷座させた

  • 平安中期に、熊野権現を勧請

  • 1575年、長條の合戦の兵火により社殿、古文書を焼失

  • 1611年、金山大権現を造営とのことです。る

  • 明治初年に金山神社に改め、大正時代に、宇野知・熊野神社を合祀し中條神社と改称

  • この時に、金山彦命、伊邪那美命を祭神としている

  • 中篠條神社春季例大祭りでは、手筒約150本から160本)の花火が打ち上げられる

 特徴は伊雑大神ですね。神社ツウはピンと来るかと。そう、伊勢神宮125社の格式の高い別宮・伊雑宮(私のNOTE)なのだろうなと。神社横に田んぼがあるなど共通点は多いし。

 あとは、櫛石窓命&豊石窓命ですね。神社入口の随身門で祀られていることが多い。代表格は広島・厳島神社(私のNOTE)かな。

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/nd7b7aed99b67)

天下の奇祭ズコ~「 #牛久保八幡社

天下の奇祭・若葉祭のところ。この地域最大の八幡社で飢饉で

765年、三河国は大変な飢きんが続き、人々は離散し土地は荒廃してしまう

  • 朝廷は倉庫を開いて救済につとめ、国司は住民に神を祀らさせるため大雀命(仁徳天皇)を勧請した

  • 1190年から1200年、社殿を再建

  • その後、室町時代になって応神天皇を合祀した

  • 当時は若宮殿と呼ばれていたが、戦国時代に領民思いの牧野古白(まきのこはく)が新たに牛久保城を築いた際、領民を城に招きその苦労をねぎらうためもてなした

  • 殿様の振舞い酒に酔った人々はまともに歩いて帰ることができず、転がりながら互いに起こしたりして助け合って帰ったようで、この時の喜びを祭りの神事に再現したものが「うなごうじ祭り」なんだそうな

  • 1493年、牧野古白は牧野城の南西に瀬木城を築き、主君の仇の波多野氏を滅ぼし自らは一色城に入り、子の能成を牧野城に、成勝を瀬木城の城主として東三河に勢力を広げた

  • 1495年、今橋城を築いて城主となり、古白が転出した一色城には成勝が入る

  • 1529年、成勝は牛久保城を築く

  • 1575年、長篠合戦出陣の際に、織田信長と徳川家康が武運を祈願したとか

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/na842de998b80)

ダルマを求めて県内外から「 #五社稲荷社 」国道1沿い巨大鳥居

 五社稲荷は青葉の木々に囲まれた高台に鎮座。五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満の神として崇敬され、毎月1日、15日の月次祭には、多くの参拝者がおり、露店で賑わう。2022年からは「だるまルシェ」というイベントも定期的に開かれている。

  • 白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地である

  • 江戸時代の1656年頃、この住居遺跡の前方後円墳に、古墳を敬い、五穀豊穣を祈るため「保食神」を祀ったのがはじまり

    1. 前方後円墳は、周辺部が損壊されており確認は困難なようだが、造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられている

    2. 686年創建の「菟足神社」の祭神・葛城襲津彦命の裔である「菟上足尼命(ウナカミスクネノミコト)の墳墓とも

  • 1747年、本殿を改築したという記録が残され、5人の神様が祀られていたと考えられている

  • 1830年、伏見稲荷大社(私のNOTE)から正式に勧請し、五社稲荷社と名付けれられたよう

  • 当時の神社の様子は『参河国名所図絵』に描かれており、境内は今とほぼ同じだということ

  • 豊川市の紹介パンフレットhttps://www.city.toyokawa.lg.jp/shisei/koho/kohotoyokawabacknumber/23nen/230201go.files/ufile_munic_19888.pdf

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n406b42aa1b55)

葛城王朝末裔&秦河勝の子&徐福「 #菟足神社 」今昔物語/宇治拾遺物語/ウサギ50羽を探せ!手筒花火発祥の地

「うたりじんじゃ」は686年創建の古社で、東三河では最も古い神社。祭神・葛城襲津彦命の裔である「菟上足尼命(ウナカミスクネノミコト)」を祀る。五社稲荷社(私のNOTE)は、この神社の主祭神の墳墓とも言われており、この地域の開拓者なのかも。神社名の通り「うさぎ」が神社のあちこちにある。こういう所は京都・宇治に通じるものがあるが真相は不明。
 あと、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻を持ち、国の重要文化財になっている。
また、この地域の名物「手筒花火」の発祥の地である。

 菟足神社 の境内は縄文時代晩期(約3000年~2500年前)の貝塚跡でもあり、今でもハマグリやシジミの貝殻を見つけることができるそうだ。
 あと、熊野(阿須賀神社:https://note.com/yanma_travel/n/n81e6f8666a42)に渡来した徐福一行がこの地に移り住んだという伝説もあるようだ・・・。

あと、前述の「犬頭神社・服織神社・籰繰神社」の機織り伝承もここの古門書で示されているようで、兎に注目が行きがちだが、実は豊川の重要な神社だと思う。

  • 境内のウサギは全部で50羽近くあり「隠れウサギ🐇神社」とも言われている

  • 神紋が兎ということもあり、建物や灯篭、瓦など、いたるところにウサギがおり、社殿の中には超巨大な張り子のウサギ神輿がある

  • 平安時代の「今昔物語」や、鎌倉時代の「宇治拾遺物語」などにも記述がある古社

  • 穂の国(東三河地方)を治めていた国造・菟上足尼命(ウナカミスクネノミコト)が祀られている

  • 祭神の「菟上足尼命」が「菟足」に縮められ、兎の神紋に繋がったとも

  • 「風まつり」の舞台で、古来からいくつもの風にまつわる話が伝えられている

    1. 祭神・上足尼命が当地に着任されたとき、海上がひどく荒れたにもかかわらず無事に着かれたことから「風に強い神様」と信仰を集めた

    2. 寄進された延宝の神輿が江戸から回送されたとき、遠州灘の風波の難にもあわず平井の浜に無事に着き、これをひとえに同社の加護とした

    3. 風まつりでは、古来から農耕や狩猟の豊作を願って行われてきた雀射初(すずめいそめ)などの神事が繰り広げられる

    4. この地域で多い、手筒花火・仕掛け花火もある

  • 686年、秦石勝が三河国平井の柏木浜に奉斎されていた菟上足尼命の御魂をこの地に遷座し祭神として祀ったのが始まり
     ※秦石勝は秦河勝の子

    1. 菟上足尼命は大和国葛城の豪族・葛城襲津彦命の4世孫とされ、雄略天皇の治世に穂国国造に任ぜられた
      ※葛城襲津彦命は武内宿禰の子

    2. 菟上足尼命は、没後、その御魂は顕著な殖産・治民の功を称え柏木浜に奉斎されていたよう

  • 熊野から移住してきた氏族が徐福の後裔で、猪の生贄を供える神事と徐福伝説が残る

  • 864年、『延喜式神名帳』にも載っている古社

  • 1176年から1179年にわたって、研意智によって書写された「大般若経@重文」も同時期に奉納されたとも

  • 1370年、檀那朝阿弥陀が菟足神社に梵鐘を奉納したとされる

  • 社殿造営の棟札には、今川義元禁制・今川氏真禁制・家康の制札・家康制札の写札・松平甚太郎の制札などもある
    →中世では、「菟足八幡宮」とも呼ばれていたようで、八幡神=武将人気だったので参拝したのかも

  • 現在も、本殿横に境内社・八幡宮がある

  • 1878年、有栖川宮熾仁親王御宸筆の社号軸を受けた

  • 2022年10月、「なでうさぎ」が奉納された

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n0c894906f2e1)

#コンフォートホテル豊川

【 30日前早期割引 】 Early Booking 朝食サービス 【現地決済or事前決済】◆◆2ベッド◆ツインスタンダード◆ <禁煙>

翌日の朝食

夕食「 #とんかつかどや

とんかつのかどや 諏訪駅前店 - 諏訪町/とんかつ | 食べログ

▽2024年10月26日(土):豊川市から岡崎市経由の名古屋市入り

豊川三大稲荷「 #為当稲荷神社 」花の撓/キツネの行列/竹灯り&アジサイ

 「花の撓大祭」は五穀豊穣と商売繁盛、天候の安定などを祈願する祭り。「花の撓」は、占いの結果により出されたその年の豊凶を、模型や人形で表現するという珍しい神事。大祭は、手筒煙火の披露や、幻想的なキツネの提灯行列、マルシェも繰り広げられる。

  • 957年~960年にの創建

  • 『三河国内神名帳』の従五位三祭天神とあります

  • 1455年、領主朝倉左京助により社殿が造営

  • 1511年、今橋城主・牧野伝左ヱ門三成、弟・牧野伝蔵信成が本殿を造営して、社号を伊成大明神と改めた

  • 1762年、本殿の保護のため雨覆殿が設けられた(現在の覆殿は1903年に造営)

  • 豊川市では豊川稲荷、五社稲荷社に次ぐ稲荷の古刹

  • 2015年から、地元の人たちと花や木であふれる神社を目指して境内の整備をしている

  • アジサイは約1100株が植えられているようだ

烏賊まつり「 #御津神社 」オオクニヌシが出雲から御津の地に到着

 遠い昔、オオオクニヌシは出雲の国から船に乗って伊勢湾を渡り、御津の地に上陸。その時に、漁師たちが地元で取れた生イカを献上したといういわれから、「烏賊(いか)まつり」が始まった。現在でも神前にイカ(スルメ)を供え、歴代宮司の肖像画など11本の軸を拝殿に掛けて顕彰する肖像祭も行われる。

  • 創建は西暦以前にさかのぼるとされ、あまりにも古く記録がないため不明

  • 御津神社は砥鹿神社、菟足神社と並ぶ由緒正しい神社「式内社」のひとつ

  • 御津にあった村の総氏神として崇められている

  • 御津神社がある御津町は、8代天皇の孝元天皇が来た時に御船を当地の津に寄せられたことから、「御津湊」と名付けたということが『惣国風土記』に記されている

  • その時、天皇は既にあったこの神社に対しても御津神社という名前を与えた

  • 879年、勅を奉じて編纂した「文徳実録」中の仁寿元年(851)の頃に狭投、播豆、御津神社等の11社に従五位下を授けたとの記録を存している

  • 本殿と拝殿は1932年、建物を解体せずに移動させる曳家という方法で約50m上方に移築した

  • 境内には、摂社・末社が11カ所あり、1300年も栄えた神社

  • 最後に、船津という地名があることから、古来はここまで入り江になっていたのだろう(岡山の吉備津神社・吉備津彦神社も、今は内陸部だが、昔は沿岸部だったので)

  • 祭神はオオクニヌシの他に、コトシロヌシ、建御名方命(タケミナカタ)と国譲り時の息子たちも祀る

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n4002ee597fbc)

徳川家康の叔父が住職「 #大恩寺 」伝説の千手観音

 徳川家康の叔父が住職なので、家康が何度も訪れた寺。その名は、松平家が大きな恩があるんで「大恩寺」にしたとか。
法住寺の伝説の千手観音は毎月17日に御開帳(8時~15時)!!なぜ?伝説なのか?伊勢から逃げてきた仏像であり、もしかしたら海に沈んでいたかも・・・。

  • 推古天皇の時代、三論宗布教のために高句麗から訪れた僧・恵灌(えかん)が、新宮山に「浄光院」を建立したのが始まり

  • 約700年後の1444年、浄土宗を広めるため、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興し、浄土宗大運寺を開く

  • 1490年、寺は松平家の4代・松平親忠の援助により御津山の現在地に移築

  • 徳川家康の父・広忠によって宇堂の修復が行われ、松平家の手厚い支援を受けた

  • 親忠の息子の超誉上人や、広忠の弟がこの寺で僧になったことから、松平家にとって大恩があるということで、広忠が寺の名前を「大恩寺」に改めた

  • 1553年、念仏堂@重文を造営(1994年焼失・・・)

  • 1573年、徳川家康が叔父の成誉上人に会うために、時折大恩寺を参詣していたことが記されている

  • 家康は本尊の宮殿を造り、さらに広石の中で百石を寄進

  • その後、当地の領主・三河牧野氏が先祖代々墓をおき、菩提寺として寺を庇護

  • 1672年、山門はこの牧野家の娘を正室にした大垣藩主・戸田氏信が寄進

  • 山門は幅約7・6m、奥行き4・4mの2階建ての門

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/nb78aee7caf68)

豊川から岡崎へ「 #三河総社 #山中八幡社

 三河総社

  • 三河国の国府の遺構が発掘される白鳥遺跡(曹源寺周辺)がある

  • 646年の大化の改新の詔以来、701年の大宝律令までの間に日本は、国家体制と地方行政組織を整えた

  • 今の東三河が西三河と一国になり、三河国となりその三河国庁がこの総社の東側に置かれた

  • 都から赴任する国司は『三河国内神名帳』に所載されてる神社を巡拝して幣帛を奉ることが恒例だったのだが、回るのが大変だ!と、『三河国内神名帳』の五十九社をこの社に祀った

  • ただ、三河一宮・砥鹿神社は含まれていないようだ

 山中八幡神社

  • 祭神は応神天皇、比咩大神、息長足姫命と八幡神

  • 家康の父・広忠公が再興したといわれている

  • 家康19歳のとき、その後桶狭間の戦いへとつながる「大高城兵糧入」の際に必勝祈願に立ち寄られた

  • 1558年、17歳の徳川家康は初陣となる三河寺部城主・鈴木日向守を攻めるにあたり当宮にて戦勝祈願をした

  • 1563年、三河一向一揆で門徒たちに追われた家康が身を隠し、その難を逃れたと伝えられる「鳩ヶ窟」がある

  • 1597年、家康は石川数正と酒井寿四郎に命じ山中八幡宮の衡門を建て社殿を造営

  • 1634年、徳川家光上洛のおり、山中八幡宮に参拝し東照宮合祀葵の紋の使用を許可したと伝えられている

  • 境内には、家康が地面に刺した矢が成長したとされる「御開運竹」がある

  • 毎年正月3日に開催される御田植神事「デンデンガッサリ」

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n4f4e7baa1283)

菅原道真と大伴氏の祖「 #岡崎天満宮

公式HP:https://www.tennjinn.com/
インスタ:https://www.instagram.com/okazaki_tenmangu_official/
 
 ※愛知県岡崎市中町北野1番地

  • 1217年、本間三郎重光が「道臣命」を勧請して弓弦天神社と称した

  • 1690年、菅原信祐が道真公を合祀して天満宮と改めた

    1. 江戸亀戸天神の別当職・菅原信祐(すがわらしんゆう)が、大宰府天満宮の飛梅の木にて作られた菅公御神像を奉持し、大宰府より江戸へ向かう旅の途中、岡崎本陣中根甚衛門方に一宿された

    2. その夜、信祐の枕元に菅原道真が立たれ、「この岡崎の地に昔よりいいお社がある。そこに私を勧請しなさい。」と

  • 翌朝、天神社の社殿を一新し、神夢の通り、あの菅公御神像を合祀し、天神様を祀り社名を「岡崎天満宮」と改め現在に至る

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n62baead6dc99)

運慶真作100億円の美仏「 #滝山寺 ( #瀧山寺 )/ #瀧山東照宮 」源頼朝供養

源頼朝の従弟の僧で、熱田神宮(私のNOTE)とも縁の深い寛伝上人が住職となり、源頼朝供養に運慶と湛慶に造らせた三尊・聖観音立像を中央に梵天・帝釈天が安置されている。
 源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、そして徳川家の恩恵を受け、文化発信の地として三河地方で重要な役割を担ってきた神社仏閣。

2025年に50年に一度の御開帳です!!

瀧山寺の歴史です。

  • 673 年から686 年、建立

  • 天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まり

  • 13000年の歴史を持つ古寺で、天武天皇時代に役行者が創建(『瀧山寺縁起』より)

  • 役行者が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てた

  • 役行者は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置した

  • 1120〜24年、比叡山で修行した仏泉上人永救が、荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営した

  • 1223年、足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進し、足利氏の準菩提寺となる

  • 室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営

  • 350もの子院・塔頭を持った名刹

  • 金のあるとこ良い仏像あり!運慶の真作32体の内、3体もここにある

  • 寺の裏には徳川家康が建立し、徳川家光によって再建された「日吉山王社」がある


瀧山東照宮です。

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/na32427ede788)

敗戦!家康再起の場「 #大樹寺 」松平・徳川の菩提寺

 桶狭間の戦いで敗れた家康が岡崎へ逃げ帰った際、大樹寺の周りを敵に取り囲まれて自害を試みた時、住職から「厭離穢土欣求浄土、汚れた世を正し太平の世を目指す」との教えを受け切腹を思いとどまったことから、家康公再起の場として歴史的にも大きな役割を果たしたお寺。

 本日のランチ!?

詳細は次のNOTE参照。(https://note.com/yanma_travel/n/n1de3be196953)

松平・徳川家の出世の道「 #伊賀八幡宮 」武運長久・子孫繁栄

徳川家康の祖が苦難の時代に創建した。天下を取り、後水尾天皇より「東照大権現」の神号が贈られ、家光が八幡神に東照大権現を追加して祀り今の形になった。


  • 1470年、松平四代・親忠公が松平家(徳川家の祖)の守護神、氏の神として八幡神を祀ったのが始まり

  • なぜ?「伊賀」なのかというと、社を伊賀から三河国に勧請したからである
    ※家康最大のピンチ「伊賀越え」は、伊賀に繋がりがあったのだろうね。と思うのだが。

  • 創建当時の松平家は盤石な武門とは言い難く堪忍の道を辿る

  • 1475年、松平氏菩提寺の大樹寺(私のNOTE)を創建

  • 1566年、松平第9代にあたる家康が三河守に任じられた際に社殿を造営

  • 家康が先祖代々の悲願を果たし、天下泰平を成し遂げる

  • 家康も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれ、徳川家の武運長久・子孫繁栄の守護神とされる

  • 1611年、家康がさらに社殿を造営

  • 戦乱の世を治め太平の世を築いた偉業を称え、家康の死後、 後水尾天皇より「東照大権現」の神号が贈られた

  • 1636年、家光が岡崎城主・本多忠利を奉行に任じて、増築で社殿を大々的に造営し、現在の社殿となる

  • 徳川三代将軍・家光が、 祖父・家康(東照大権現)を祀り、現在は八幡神、東照大権現を祀る社となった

  • 武運長久・出世開運の御神徳ありと、全国の武家に広く奉じられておりました。

 妻がつぶやいた。字が汚い・・素人か??墓石などのプロに任せたら、このような字にはならないはずと。側面を見ると「徳川」とあったので末裔の字ということだろう。プチ見どころかなと。

スサノオ💛稲田姫「 #那古野神社 」名古屋って那古野なんだ

家康が秀吉並に整備しようとしたが、神様よりNGの神託があり、今も昔も名古屋城(那古野城)南側に鎮座し続ける古社。元々は津島神社(私のNOTE)繫がりの牛頭天王の社のようだ!

  • 911年、醍醐天皇の勅命で八王子社や若宮八幡社の隣に建立された

  • 津島牛頭天王社(現在の津島神社。私のNOTE)を総本社とする天王社のひとつ

  • 元々の祭神は牛頭天王だった

  • 1532年、織田信秀が今川氏豊から那古野城を奪う際に合戦となり、それに巻き込まれて社殿を焼失

  • 1540年、信秀により再建

  • 後には別当寺である亀尾山安養寺(天王坊)も隣に建立された

  • 1595年、豊臣秀吉により社領348石が寄進される

  • 1610年、徳川家康によって那古野城の地に名古屋城が築城される際、家康が神意を伺ったところ、遷座不可と出た

  • そのため、二之丸大手二之門の正面となる三之丸の地に鎮座する形になり、名古屋城の総鎮守、名古屋の氏神として祀られた

  • 境内には別当寺として真言宗の亀尾山安養寺(天王坊)もあったので、「亀尾天王社」と呼ばれるようになった

  • また「三之丸天王社」とも称された

  • 1619年、隣に東照宮(現・名古屋東照宮)が建立される

  • 1620年、尾張藩主徳川義直が改めて348石の社領を認め、社殿を修造

  • 1629年、義直によって摂社・兵主社が建立

  • 明治の神仏分離で、祭神を牛頭天王からスサノオになり、「須佐之男神社」と改称した

  • 1871年、社領を没収される

  • 1876年、名古屋鎮台が城内に置かれることとなり、東照宮と共に旧藩校の明倫堂跡地である現在地に移転

  • 摂社・兵主社は本殿に合祀

  • 1899年、「須佐之男神社」から「那古野神社」へと改称

  • 1945年、名古屋大空襲で本殿が焼失

  • 1959年、再建

那古野神社横に家康「 #名古屋東照宮

 名古屋を護る那古野神社横に徳川家康を祀る。ちゃんと云われはあるんです。

  • 当宮に奉斎する家康公は1600年関ヶ原の戦いに於いて、豊臣方石田三成を破り天下統一を果たした

  • まだ力衰えぬ豊臣に相対すため織田信長の居城・那古屋城跡地に名古屋城を築いて城下町を開こうとする

  • 1610年、徳川家康によってお隣の那古野神社を遷座させようとし、神意を伺ったところ、遷座不可と出た

  • そのため、那古野神社は名古屋城の総鎮守、名古屋の氏神として祀られた

  • 1619年、名古屋城三の丸に創建

  • 創建当時は「三之丸東照宮(さんのまるとうしょうぐう)」とも呼ばれ、東照宮として最も豪華であったと言われている

  • 江戸時代には、例祭である東照宮祭は、那古野神社の天王祭と若宮八幡社の若宮祭で「名古屋三大祭」となる

  • 1876年、現在の場所に移転

  • 戦災によって本殿を含む主要建造物が焼失

  • 1953年、尾張徳川家菩提寺の建中寺より、義直の正室だった高原院(春姫)の御霊屋を移築して本殿とした

  • 名古屋東照宮を創建した徳川義直、幕末から明治にかけての尾張藩主・徳川慶勝が合祀されている

名古屋城「 #愛知縣護國神社 」平和祈願!英霊たち

 戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。

→夕食「 #煮込うどん #山本屋町田

#アイリス愛知

▽2024年10月27日(日):名古屋港水族館

#名古屋港水族館

 イルカ、シロイルカ、シャチオンリーの日。

 |→バンドウイルカ

 バンドウイルカに赤ちゃんが・・・。公開したばかりだったので、開館前から人が並んでいた。


 |→シロイルカ(ベルーガ)

シロイルカです。朝一は健康診断と訓練があるので10:30のショーまでここに居座るべき。


 |→シャチ

▼旅行記一覧

◆愛知①◆白イルカ天国「名古屋港水族館」と「熱田神宮」で「起きてちょ!願い叶えてちょ!」(名古屋市熱田区/港区)

◆愛知⑥◆熱田神宮!名古屋港水族館でイルカ三昧

その他と未来は『★纏め★愛知・岐阜 神社仏閣 旅行記★随時更新|やんまあ』です。



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