伊勢国司の北畠氏「北畠神社」北畠氏は京都出身の公家!元北畠八幡宮【三重北シリーズ】【御杖曽爾シリーズ】【宇陀シリーズ】【三重津シリーズ】
伊勢国司の祖・北畠氏を祀る神社。日本最古の石垣など歴史ある神社!と言いたいところが歴史はさほど長くない。ただ、建武中興十五社なのが味噌。
庭園が知る人は知る武将庭園だが、こちらは神社なので神苑では?と思ったが、元々は神宮寺の庭園なんだそうな。なるほど!
紅葉の時期は夜間拝観もしているようですね!
流行るのか?神社×城御朱印・・。山城なので安易に行かないでと注意喚起もされています。
変更履歴
▼HP
公式はないですが、宮司が解説しています。
▼アクセス
三重県津市美杉町上多気1148
▼祭神・本尊と脇時
※後述「▼見どころ」参照
▼見どころ
奥一志の多気御所として栄華を誇った伊勢国司の祖・北畠氏を奉った神社
北畠氏は京都出身の公家である
国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座
初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした「北畠顕能」を主祭神とする
北畠顕能は、南北朝時代の公卿・武将
北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟
建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、国司に任じられた
多気を拠点に南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した
後醍醐天皇と南朝を支えた親房・顕家・顕能の父子3名に対する評価は、時の為政者の都合によって変遷したよう
1342年、ここに霧山城を築き、北畠氏は室町時代末期まで戦国大名としてここを治めた
1576年、織田信長の謀略によって北畠氏が滅亡した
この後、この地には100年近く何もない時代だった
1643年、北畠具房の4代孫・鈴木孫兵衛家が北畠顕能を祭神とし「北畠八幡宮」が設けられた
当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは江戸時代説もある
1881年11月、村社北畠神社に改称
1907年12月、多芸村内の16社を合祀
1916年、宝庫・社務所などを整備
1928年10月、現在の本殿ができる
天王により、別格官幣社に列せられたとのこと
本殿は、朱が鮮やかな本殿で、拝殿には天狗が・・もしや太郎か??次郎か?
境内社に多芸神社、留魂社がある
今では庭園がすばらしいとするが、神宮寺「真善院」のもの
1840年、神宮寺は火災に遭い、再興しないまま1898年に廃絶
最後に、雪姫伝説がある
北畠顕能は南北朝時代の公卿・武将や、伊勢国司として南朝軍を支えた以外にも、歌人としても『新葉和歌集』に18首入選した「入道前右大臣」は顕能と考えられていている。
左側の道標には「左 霧山城登山口」、右側の道標は「右 神社庭園参道」とある。
→拝殿・本殿
→北畠顕能の像と歌碑
→留魂社
→庭園
室町末期の武将・細川高国の作庭と伝えられる。1530年に7代・北畠晴具の義父にあたる管領・細川高国がここに滞在した折に作庭したと考えられている。
石橋で左右に分かれる池は「米字池」として知られる。
プロの目線で紹介していただきます。
紅葉風景は次のサイトですかね。
→本殿左の摂社・末社「多芸神社」
北畠神社での本殿左に「多芸神社」がある。
▼メディア情報
これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。
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