noteach
ウィニーは死を免れたのか?/かもめマシーン『しあわせな日々』
「言葉」というより「音楽」を聴いているようだった。第一幕はドラムのセッション、第二幕は野太い(あるいは極く繊細な)管楽器のごとく、ことばと身体が鳴り響く。ことばと身体が一種の“ビート”となって、空間を満たしていく。
かもめマシーンによる『しあわせな日々』の上演では、安堂信也・高橋康也訳ではなく、長嶋確による新訳が採用されたことでことばが意味の重みから解放され、ことばの音=リズムのつらなりが前景化
シアターオリンピックスに行くための移動方法、予算感などの調査
演劇(特に小劇場演劇界隈)が好きな方であれば、富山県の利賀と言われれば、「あー、あの利賀ね」という感じだと思いますが、今年はその利賀で第9回シアター・オリンピックスが開催されます。
世界各地から集まった演出家・劇作家の作品が見れるイベントで、8/23〜9/23まで毎週末行われます。会場は利賀と黒部の2会場ありますが、黒部での公演は少ないですし距離もかなり離れているため、とりあえず利賀へのアクセス
between to be and not to be/存在と非在の間で——ゲッコーパレード『ハムレット』評
演劇は観客が存在してはじめて成立する。世界的な演出家であるピーター・ブルックが「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある。」(ピーター・ブルック『何もない空間』)と言ったように、誰かが何かをしているのをまた他の誰かが見るとき、そこに演劇というのは立ち上がるのだ。あるいはそこから行為する「誰か」を取り除くことさえ可能かもしれない。たとえば劇作家・演出
もっとみる「ゴドーを待ちながら」観劇記録 2019年6月23日
2019年6月23日にKAATで上演された「ゴドーを待ちながら」の昭和・平成verを観劇したので、その感想です。
この公演は、シン・ゴドーと銘打たれた『新訳ベケット戯曲全集1』の新訳を元に上演された公演でした(私のゼミの先生である、岡室美奈子先生による新訳です)。
2017年の11月にこの新訳で行われたリーディング公演を観に行っていたので、その時の解釈とまた違うゴドーを観ることができて、とても刺
閉じると開く——亜人間都市『東京ノート』
亜人間都市『東京ノート』の批評を書くためには、まずは私自身のスタンスを明らかにしなければならない。同作は様々な意味において「異なる声の集う場所」としてあったからだ。私の声はいかなる立場から発せられるものか(しかしもちろんそんなことに興味はないという立場もありえるだろう。読み飛ばしても構わない)。
***
演劇批評家としての私が書く文章のほとんどは、ある個別具体的な作品に対する批評としてある。い
サミュエル・ベケット『わたしじゃない』における観客の知覚の変容について
はじめに
1972年にニューヨークのリンカーンセンターで初演された『わたしじゃない』はベケットの演劇作品の中でもいくつかの点で非常に謎めいた作品である、とひとまずは言うことができるだろう。舞台上には身体の他の部分から切り離され宙に浮かぶ「口」と黒いジェラバに身を包んだ正体不明の「聴き手」の姿。両者は通常の人間では考えられない高さに位置している。さらに、上演の間中「口」が発し続ける言葉は非常な高
消えない夢の断片として/範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』
いつからこうなった?
いつからこの雨は降ってる?
いつから俺は泳いでる?
いつからこの狂人に憐れみを感じてる?
いつからこうなった?
いつまで続く?
『うまれてないからまだしねない』(2014年)は、僕がはじめてみた範宙遊泳の作品だった。当時はまだ東京に住んでおらず、片道1時間以上(そしてそれなりの交通費)をかけて東京へかよっていたこともあり、月に2本舞台をみられたらよい方だった。そんななか出