サミュエル・ベケット『わたしじゃない』における観客の知覚の変容について
はじめに
1972年にニューヨークのリンカーンセンターで初演された『わたしじゃない』はベケットの演劇作品の中でもいくつかの点で非常に謎めいた作品である、とひとまずは言うことができるだろう。舞台上には身体の他の部分から切り離され宙に浮かぶ「口」と黒いジェラバに身を包んだ正体不明の「聴き手」の姿。両者は通常の人間では考えられない高さに位置している。さらに、上演の間中「口」が発し続ける言葉は非常な高速かつその語る内容は断片的であるため、観客が「口」の語りの意味内容を完全に理解することはほとんど不可能だ。『わたしじゃない』の観客はその上演において即座に意味を理解することから隔てられている。
だが、先行研究でも指摘されてきたように、観客は上演で提示される意味内容を全く理解できないわけではない。リチャード・アラン・ケイヴが述べるように、ほとんどの観客は「支離滅裂に思える早口の言葉の背後にあるパターンを認識」し、「口」の語る内容を完全ではないまでも漠然とは理解することになる。(1)ここで問題となるのは、ではなぜそのような回りくどい手法が採用されたのかという点だ。観客に対する即座の、完全な形での意味内容の伝達を回避しつつ、それでもなお観客に「口」の語りについての漠然とした理解を可能とすることは上演においてどのような効果を生じるのか。
さらに、上演における観客の状況についても併せて検討する必要があるだろう。『わたしじゃない』の観客はその上演を観ることで、「口」の語る「彼女」と類似した状況に置かれることになる。つまり、観客が「口」の語りをどのように理解するのかという問題は、観客が『わたしじゃない』の上演を観るという自らの体験をどのように捉えることになるのかという問題に関わってくるのである。
キア・イーラムの「口についての唯一存在する説明は観客の想像力の中で推測によって創り出されるものである」という言葉が端的に示すように、『わたしじゃない』という作品を考えるにあたって観客の反応は看過できない重要な要素である。(2)ほとんどあらゆる芸術作品が観客による受容を前提として作られていることは言うまでもないが、舞台上で発せられる言葉の完全な伝達が目指されていないことが明らかな『わたしじゃない』という作品においては、観客が作品をどのように受容するのかという点もまた、戯曲や舞台上の視覚イメージの意味内容と同じように検討すべき点であることは明らかである。
もちろん、たとえばジェイムズ・ノウルソンが「観客が徐々に劇的な状況との奇妙で普通でない複雑な関係の中に引き込まれていく」点に『わたしじゃない』のオリジナリティがあると述べているように、『わたしじゃない』における観客の反応のあり方については先行研究でも検討されてきた。(3)だがそのいずれにおいても、観客がどのように「関係の中に引き込まれていく」のか、その経時的な変化について十分には説明されていない。さらに言えば、『わたしじゃない』の上演が観客に与える影響と語られる内容それ自体とがどのような関係にあるのかという点についての検討は先行研究においてほとんどなされてこなかったと言ってよいだろう。本稿では観客がいかに『わたしじゃない』の上演を受容し、それが作品内で語られる内容とどのような関係を結ぶのかを明らかにすることが目指される。
1.戯曲の中の「観客」
『わたしじゃない』の上演における実際の観客の反応を検討する前に、まずは戯曲に書き込まれている内容を検討するところからはじめたい。なぜなら、『わたしじゃない』という戯曲には語り手と聴き手、あるいは見る者と見られる者の関係が複数のレベルにわたって書き込まれているからである。『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客の反応が『わたしじゃない』の語りと何らかの関係があるとすれば、戯曲に書き込まれた「観客」の反応はその関係を明らかにするための糸口となるだろう。
「口」の語る「彼女」についての物語では、いくつかの場面で「観客」と呼べる人物が登場している。たとえば「一年に一度か二度」「たえまなく溢れるように言葉が」彼女の口から発せられる場面では「きょとんとして彼女を見つめ」る人物に対する言及がある。(4)さらに、「彼女」の発する「ひとには通じやしない」(5)言葉を聞く「観客」という構図は「彼女」自身を聴き手とする形で反復される。ある日突如として全身の感覚を失った「彼女」はやがて言葉が聞こえてきていることに気づく。はじめのうち誰の声であるかわからなかったその声は、彼女自身の声であった。(6)しかし、聞こえてくるのは明らかに自分の声であるにも関わらず「その半分も聞き取れない」ため「彼女」は「いっしょうけんめい耳をそばだてて」「理解しようと」努力することになるのである。(7)
言葉を発する「彼女」とそれを聴く「彼女」との分裂は「口」の語りの中で「声」と「脳」という形で表現されている。ところが、戯曲を詳細に検討していくと「声」と「脳」という分裂は最終的にほとんど無効となっていくことがわかる。当初は「脳はまだ……十分に落ち着いて……ええそりゃそうよ!……いまのところは……コントロールしてる……コントロールされてる」(8)と描写される「脳」だったが、「口」の語りが進むにつれその様子には変化が生じてくる。「脳全体が必死に……脳の中のなにかが……必死に口に頼んでる……やめてくれって」という描写にはとめどなく語り続ける「口」とそれを止めようとする「脳」という対比が読み取れるが、直後の「でも脳は……自分勝手にわめきつづけて……声を理解しようとして……それともそれをやめさせようとして」では「脳」もまた「口」あるいは「声」と同じく「自分勝手にわめきつづけ」るものとして語られている。(9)さらに「脳は……自分勝手にちかちかと動きつづけて……さっとつかんでまたさきへ……なにもありゃしない……そこで次へ……これじゃあの声と同じていたらく……いえもっとひどい……同じくらい無意味」(10)に至っては「脳」は「声」と「同じくらい無意味」なものであるとされてしまっている。最終的には「言葉が……脳が……狂ったみたいにちかちかと動きつづけて……さっとつかんでまたさきへ……なにもありゃしない……また別のところへ……別のところをためす……そのあいだじゅうなにかが必死に……彼女の中のなにかが必死に……もうやめてくれって頼んでる」(11)という形で「脳」は「口」の発する言葉と同じく「狂ったみたいにちかちかと動きつづけ」るものとして併置されてしまうのである。
支離滅裂な「声」による語りを理解しようとする「脳」はいつしか語りに飲み込まれるかのような形で「声」と同じ「狂ったような」存在と化し、両者の区別はほとんど無効となってしまう。ここで戯曲に指定されているもう一人の観客たる「聴き手」のことを考えてみると、そこでも同じ構図が繰り返されているのではないかという推測が成り立つ。つまり、「声」を聴き続ける「脳」がそうであったように、支離滅裂な「口」の語りを聴き続ける「聴き手」もまた、いつしか「口」と同化してしまっているのではないかという推測である。だからこそ、ト書きにおいて「甲斐なき憐憫を表わす身振り」と呼ばれる「聴き手」の〈動作〉は「繰り返されるごとに小さくなり」、最終的には〈動作〉そのものがなくなってしまうのではないだろうか。(12)
「口」と「聴き手」が同一人物の二つの姿である可能性は「口」の語りそれ自体にも見出すことができる。「出た……この世に……この世……ちっちゃなもの……その時間の前に……いまいま−……え?……女の子?……そう……女の子」(13)などという形で「口」の語りは頻繁に何者かによる介入を受けその内容を修正されている。上演に立ち会う観客には介入する声は聞こえないことから、「口」は自分自身の内部からの声と対話しているかのようにも見える。一方、「口」が第三人称を放棄することを激しく拒否する場面では、「そして彼女はまったくのや−……え?……だれですって?……ちがうわ!……彼女よ!……(間および動作1)………彼女はまったくの闇の中」(14)と「口」による激しい拒絶の直後に「聴き手」の「甲斐なき憐憫を表わす身振り」が挿入されていることで、「口」と「聴き手」との間にもまた何らかの形でのコミュニケーションが成立していることが示唆される。「口」は何者かと対話をしており、かつ、「口」と「聴き手」との間にもコミュニケーションが成立している。ここから導かれるのは「口」と「聴き手」との間でなされるやりとりこそ、「口」とその内部からの声との対話なのではないかという結論である。イノック・ブレイターはユングを参照しつつ、「口」による一人称の拒絶は自己認識の過程で生じる自己断節(self-mutilation)(15)を示すものであるとしている。「口」自身から切り離された内なる声が視覚化されたものこそが「口」と相対する「聴き手」の姿だと言うのである。(16)
だがここで重要なのは「口」と「聴き手」が同一人物である可能性そのものではなく、「口」と「聴き手」の分裂が徐々に保てなくなっていくプロセスが舞台上に提示されているという点である。「聴き手」の「甲斐なき憐憫を表わす身振り」は三人称の放棄に対する「口」の拒絶をどう解釈するべきかを観客に示す機能を担っている。「聴き手」のこの〈動作〉があることで観客はより一層、「口」の拒絶の言葉が嘘なのではないか、「口」の語る「彼女」というのが実は「口」自身のことなのではないかという疑念を抱くことになるのである。ところが、言わば「口」の拒絶に対する抵抗としてあった「聴き手」の〈動作〉は少しずつ弱くなっていき最後には消えてしまう。「自分のことではない」という「口」の主張に対し「聴き手」は「憐憫」(そこには「口」の拒絶を否定するニュアンスが孕まれることになる)を示し続けることができなくなってしまうのである。「聴き手」が「口」の語りを聴き続けることによってこの変化が生じているのは明らかだろう。弱まっていく「聴き手」の〈動作〉は、「口」の語りが進むにつれ「口」と「聴き手」という舞台上の二つの姿で示されていた「口」の分裂が維持できなくなっていくこと示すものとしてあったのである。
「口」と「聴き手」との関係の曖昧さは「口」の語りの中にも間接的に表れている。観客は舞台上に浮かぶ正体不明な「口」や「聴き手」の姿を解釈するための手がかりを「口」の語りに求める。ところが「口」と「聴き手」、そしてさらに語られる「彼女」との関係は、たとえ戯曲の言葉を精読したところで不明瞭なままである。むしろ「口」の語りにおいて語る者と聴く者、見る者と見られる者の関係は不安定な、入れ替え可能なものとして提示されているとさえ言えるだろう。「口」の語りに「聴き手」そのものは登場しないが、語りに登場する「聴く人物」や「見る人物」の姿が舞台上の観客たる「聴き手」を思わせるのはすでに指摘したとおりである。「口」の語りに手がかりがないのではなく、そこに「口」や「聴き手」との関連を思わせる言葉が過剰なまでに散りばめられているがために、断片的な語りの中から得られる手がかりは互いに矛盾する複数の解釈を可能にしてしまう。
たとえば幕が上がった直後、観客は舞台上の「口」や「聴き手」の姿をどのように捉えるのだろうか。『わたしじゃない』の上演においては「場内の明りが暗くなるのに合わせて、幕の背後から口の声」(17)が聞こえてくるため、観客は幕が上がるとまず、その声の発生源を舞台上に探し求めることになる。実際に言葉を発しているのは「口」なのだが、観客に見えるのは「約二メートル五〇センチ」の高さに浮かび、身体の他の部分から切り離された「口」という異様な物体であり、観客がそれを声の発生源であると即座に特定することは難しい。そもそも宙に浮かぶそれが「口」であると即座に理解すること自体が難しいだろう。異様な姿の「口」と比べればむしろ人間のシルエットを保っている「聴き手」の方が声の発生源として適当であるとさえ言うことができる。
「口」の語りの冒頭部の言葉もまた、「聴き手」こそが声の発生源であるという解釈を裏付けるように思われる。「出た……この世に……この世……ちっちゃなもの……その時間の前に」という「口」の言葉は、舞台上にまさに「ちっちゃなもの」=「口」の姿が登場した直後に発せられる。観客とともにその「ちっちゃなもの」の登場を目撃するのは舞台上に立つ「聴き手」であり、つまり聞こえてくる言葉は「聴き手」が自らが目撃しているものに言及したものだという解釈が可能になるのである。
もちろん、上演開始からいくらかの時間が経てば、ほとんどの観客が聞こえてくる声を「口」から発せられているものと看做すことになるだろう。だが上演開始直後に限って言えば、聞こえてくる声と「口」、そして「聴き手」の姿との関係は極めて曖昧な、むしろ「聴き手」こそが声の発生源であるという解釈を誘うような形で提示されているのである。「隠しマイクロホン」(18)の使用が声の発生源を「口」とスピーカーとに複数化し、その特定をさらに困難にする。
「口」の語りに「彼女」が登場することで事態はさらに複雑なものとなる。「口」の語りにおいて彼女は当初「口のきけない赤ん坊」(19)と呼ばれる。「口」の語りに登場する「彼女」と舞台上の「口」あるいは「聴き手」とを何らかの形で結びつけようとするならば、まずは無言で舞台上に佇む「聴き手」こそが「彼女」であると解釈するのが自然だろう。「立って待ってる」「じっと動かず……空を見つめて」(20)という「彼女」の描写もまた、「口」よりはむしろ「聴き手」と「彼女」との関連を伺わせる。
ところが、戯曲の全貌をすでに知っているものにとっては明らかなことに、「口」の語りが進むにつれて、語られる「彼女」とそれを語る「口」自身との共通点の方が前景化してくる。「口のきけない」と言われていた「彼女」の口から「一年に一度か二度」「たえまなく溢れるように言葉が」(21)発せられることがあったということが語られるからだ。さらに、「からだ全体が消えちゃったみたいで…口だけが……狂ったみたいに……止められない……言葉を止めることができない」(22)という描写は舞台上で言葉を発し続ける「口」の姿そのものを指し示しているかのようである。三人称の放棄に対する「口」の過度な拒絶とそれに対する「聴き手」の反応もまた、「口」こそが「彼女」なのではないかという疑いを観客の中に生じさせる。
このように、戯曲全体を通して見るならば、語られる「彼女」とは「聴き手」ではなく「口」自身のことであるという解釈の方が蓋然性が高いように思われる。しかし上演の場に居合わせる観客は戯曲全体を概観することも、そこで発せられる言葉を逐一正確に理解することも叶わない。「口」こそが語られる「彼女」自身のことであるという解釈は、観客が「口」の語りを聴き続ける中で「だんだん気づ」く、あるいは「急に気づ」く可能性なのである。(23)だがこの解釈はあくまで可能性に留まることになる。なぜなら「じっと/静かに」(24)「立ったまま」「見つめて」などの「彼女」についての描写が常に「聴き手」=「彼女」であることを示唆し、「口」=「彼女」であるという解釈を揺るがし続けるからである。
「口」と「聴き手」のどちらもが「彼女」であり得るように、戯曲の中に描かれた「観客」たちは容易にその知覚する者としての立ち場を失い、知覚される側へと回る。口をきくことができず「空を見つめる」のみであった「彼女」は言葉を発することで「きょとんとした目つき」(25)で見られることになる。自らの「声」や「言葉」を理解しようとする彼女の「脳」もいつしか「声」と同じように「狂ったような」存在と化し、確たる姿を持つ者として舞台上に提示されているかのように見えた「口」と「聴き手」との関係もまた、語られる「彼女」との関係の中でその区別は不明瞭なものとなっていってしまうのである。では、このような「観客」の姿が書き込まれた『わたしじゃない』という作品の上演において、実際に劇場で『わたしじゃない』を見る観客は作品をどのように受容するのだろうか。次節では『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客が置かれることになる状況を確認していく。
2.『わたしじゃない』の入れ子構造
前節で指摘したように、「口」の語りに登場する「彼女」の状況はいくつかの点で舞台上の「口」あるいは「聴き手」の置かれている状況と重なり合う。そしてそれはそのまま上演に立ち会う観客の置かれることになる状況とも重なり合っていると言うことができるだろう。戯曲冒頭のト書きにはこうある。
場内の明りが暗くなるのに合わせて、幕の背後から口の声、なにを言っているのかは聞きとれない。場内の明りがすっかり消える。幕の背後の声が、聞きとれないまま、十秒間つづく。幕が上がるのに合わせて、台本をもとに適当に即興でしゃべり、幕が上りきって観客の注意力が十分集中したとき、次の台詞に入っていく――(26)
ここに「彼女」についての「口」の語りを併置するならばその類似は明らかである。
いきなり……だんだんと……すっかり消えちゃって……その早春の朝の光が……そして彼女はまったくのや―……え?……だれですって?……ちがうわ!……彼女よ!……(間および動作1)……彼女はまったくの闇の中……(中略)……ひとすじの光が光ったり消えたり(27)
といきなり……だんだんと……彼女は気がつ―……え?……騒音?……そう……唸る音のほかはすべてはひっそり静まりかえって……といきなり彼女は気がついたの……言葉が……え?……だれですって?……ちがうわ!……彼女よ!……(間および動作2)……気がついたの……言葉が聞えるって(28)
光が「だんだんと」消え、闇の中に置かれた「彼女」は「唸る音」を聴いているうちに「言葉が聞える」ことに気づき、最終的にはそれが自らの口から発せられているものであることに気づいていく。劇場に置かれた観客もまた同じように「場内の明りが暗くなるのに合わせて」「幕の背後から」聞えてくる声を耳にするが、はじめのうちはそれがどこから発せられているものかもわからず、「なにを言っているのかは聞き取れない」。だが声を聴き続ける観客はやがてそれが舞台上の「口」から発せられていることに気づくことになるのである。彼女が「ひとすじの光」を目撃するのと同じように、劇場の観客も舞台上の「口」や「聴き手」を照らす光を見る。「光ったり消えたり」する光と点灯し続ける舞台上のスポットライトとの違いを説明するかのように、「まぶたが」「開いたり……閉じたり」して「光をしめ出す」ことまでもが語られるのである。
このように、「口」によって語られる「彼女」の状況は、『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客の状況と少なからぬ類似点を持っている。合わせて確認しておくならば、観客と「彼女」との状況の類似はほとんどそのまま「口」や「聴き手」との状況の類似でもある。もちろん、幕が上がる前の劇場の状況が「口」や「聴き手」と「観客」との間で共有されることはないが、観客も「口」や「聴き手」もともに舞台上の出来事を知覚する存在である以上、「唸る音を聴く」「光を見る」などの基本的な経験については言うまでもなく共有されることになるのである。「口」や「聴き手」、そして語られる「彼女」との関係、区別が「口」の語りを聴く中で曖昧となり、その境界が不明瞭なものとなっていったように、劇場において「口」の語りを聴く観客もまた、「彼女」「口」「聴き手」との不明瞭な関係の中に巻き込まれていくようである。
では、このような状況の類似は観客の作品受容にどのような影響を与えることになるのだろうか。つまり、観客は自らの体験する状況と舞台上に提示され語られる状況との類似をどのように認識するのだろうか。観客が舞台上で語られる内容をどの程度把握できるかによって、観客の作品受容にはいくつかの段階を想定することができるだろう。
まず想定されるのは、観客が「口」の語る内容をほとんど理解しない場合である。現実的には観客が「口」の語りを全く聴き取れないということは考えづらいが、「口」の語る言葉をある程度理解できたとして、それを一定のまとまりのある物語として受容できないという可能性は考慮しておくべきだろう。観客が「口」の語る「彼女」の状況と自身の置かれている状況の類似にいっさい気がつかない場合、両者の状況の類似は果たして意味を持つのか。ハーシュ・ツァイフマンの「『わたしじゃない』は恐ろしい劇場体験だ。単に口の恐怖に共感するという理由からではなく、私たちがそれを直接的に感じさせられるという理由のために。私たちは口が体験していることを体験しているのだ。」という言葉を考えるならば、実のところ観客が「口が体験していることを体験」することと、それを認識しているかどうかとはあまり関係がない(29)。観客がそれを認識していようがいまいが、観客は「口が体験していることを体験」せざるを得ないからである。たとえ観客が状況の類似を認識していなかったとしても、言葉による意味伝達ではない形で「彼女」の体験を観客に「伝え」ているという点に置いて、「彼女」と観客の状況の類似は一定以上の意味を持つということができる。一生を通して言葉による意思伝達から疎外されていた「彼女」の体験を伝達するには、言葉以外の手段によって観客が「彼女」と体験を共有させられてしまう、このような形のコミュニケーションの方がむしろふさわしいとさえ言えるかもしれない。
では、観客が状況の類似を認識する可能性はあるのだろうか。そしてもし観客が状況の類似を認識することができるのならば、それは観客が状況の類似を認識しない場合とどのような違いを生じることになるのだろうか。まずは観客がどの程度「彼女」と自らの状況の類似を認識することが可能なのか、つまり「口」の語りの内容をどの程度まで把握することができるのかについて確認しておきたい。
個々の観客の反応は千差万別であり、それを特定することは不可能ではあるが、『わたしじゃない』という作品の中に「口」の語る内容に対する観客の理解を促すためのさまざまな戦略が張り巡らされていることはこれまでの先行研究においても度々指摘されてきた。たとえばキア・イーラムは
意味の中心となる単位は、全ての場合で、最後の音節であり、ほとんど全ての場合で単一音節の言葉である。それらはアクセントによってだけでなく、後に続く息継ぎによっても強調される。(…)ここにこのテクストの主要な枠組みの全てがある。(…)意味的な配置については、仮に知覚されたとしても、意識下においてしか知覚されないかもしれない。だが韻律それ自体は印象的である。(30)
と言葉の配置とそれによって生じる強勢が重要な単語を観客に印象づけることを指摘している。イーラムの指摘が指摘しているのは“tiny little thing”, “out before time”, “godforsaken hole”, “once or twice a year”, “speechless all her days”, “nothing but the larks”, “even to herself”, “sudden urge to tell”, “half vowels wrong”(31)の9つのフレーズについてであり、「ここにこのテクストの主要な枠組みの全てがある」と言う結論はやや恣意的であると言わざるを得ない。だが、イーラムの指摘するように語りのアクセントが『わたしじゃない』という作品において観客の「意識下においてしか知覚されない」「意味的な配置」を作り出しているというのは十分に可能性があるように思われる。あるいはケイヴは
観客は口による個々の単語やフレーズが失われてしまう絶え間ない言葉にさらされるが、言語の背後の重要なパターンを理解し損なうことは決してない。(…) ベケットが重要だと感じる細部は直接的に繰り返され、その重要性は「想像してよ」というぞっとするような命令や「は!」という絶望的で皮肉な笑いによってさらに強調される。(32)
と繰り返しや発話のニュアンスによって「口」の語りの重要な部分が強調されていることを指摘している。ケイヴは「ベケットが重要だと感じる細部」について具体的に検討することはしていないが、「口」の語りに登場する言葉を検討してみると、「唸る音」「静かに」「見る」など、「彼女」とはもちろんのこと、舞台上の「口」や「聴き手」そして「観客」の置かれている状況とむすびつけることが可能な言葉の登場回数が明らかに多いことがわかる。自らの置かれている状況と語られる「彼女」の状況とが奇妙な類似を見せていることに観客が気づく可能性は非常に高いと言うことができるだろう。
問題は、観客が状況の類似を認識することが観客の作品受容にどのような効果を与えるのかである。状況の類似に対する認識それ自体が観客の作品受容の質を変化させてしまうということがひとまずは指摘できるだろう。観客が状況の類似を認識していない場合、上演における体験はあくまで観客自身のものとして体験される。それは上演によって引き起こされたものではあっても、「口」によって語られる物語の内容と直接の関わりを持つものではない。一方、状況の類似を観客が認識する場合はどうだろうか。観客の体験そのものには変化はないが、それに対する認識には大きな違いが生じることになる。観客は『わたしじゃない』の上演を見る自らの体験を、「彼女」の体験と関連づけることになるのである。「わたしはこのような体験をしている」という観客の意識は自らの体験そのものに対する主観的であり絶対的な認識だが、「わたしは『彼女』と同じような体験をしている」というのは自らの体験と「彼女」の体験とを比較した結果として生じる相対的な認識である。観客は語られる「彼女」の状況と自らの置かれている状況との類似を認識することで自らの体験を相対的なものとして捉え直すことになる。「この体験は『彼女』の体験が再現されたものである」という認識は直接的な体験とは隔たったところで生まれる認識である。観客は自らの体験が舞台上で語られる出来事と関わるものであることを認識すると同時に、「それは『彼女』の体験の再現であって自分自身の体験ではない」という感覚も得ることになる。状況の類似に対する認識は観客と舞台上で語られる物語とを関連づけ、その距離を縮めると同時に、観客と観客自身の体験との間に距離を生じさせる。観客の体験はまさに「わたしじゃない」ものとして体験されるのである。
では、状況の類似に対する観客の認識は、観客に自身の体験に対する距離を取らせるために仕組まれたものなのだろうか。たしかに、自らの体験を自身固有のものではなく他者の体験の再現として受け取る観客のあり方は、はじめのうち自らの声を他者のものとして聴いていた「彼女」のあり方や、語られる「彼女」と自らの同一性をあくまで否定し続ける「口」のあり方にも似ているように思われる。その意味で、状況の類似を認識することそれ自体が状況の類似をさらに強化するように機能すると言うことができるだろう。だが、『わたしじゃない』という作品において、語られる「彼女」が最終的に聴こえてくる声を自分のものだと「認めないわけにはいかなくなった」(33)ように、「口」もまた語られる「彼女」と自らの同一性を否定することにほとんど失敗しているように思われる。では、『わたしじゃない』の観客は舞台上の出来事と自らの体験との間に安全な距離を保ち続けることができるのだろうか。
3.知覚と想起
『わたしじゃない』の観客は上演をどのように受容するのか。議論をさらに進めるための補助線として、再びケイヴの指摘を参照したい。ケイヴはベケットが『わたしじゃない』において重要な要素を強調するために「想像してよ」という命令形を用いているということを指摘していた。この命令を耳にした観客は命令に続く言葉の描写する内容を強く思い浮かべることになるのだが、「想像してよ」という命令の指し示す内容を具体的に見てみるとあることに気づかされる。
「口」の語りの中に「想像してよ」というフレーズは9回登場する。そこで観客が想像するよう促されるのは、順に「彼女がどんな格好をしてるか」「苦しんでない」「言葉が聞える」「彼女が何を言ってるかわからない」「彼女の唇が動いている」「感覚が戻ってきてる」「からだ全体が消えちゃった」「彼女が何を言ってるかわからない」「溢れる言葉を止めることができない」ということである。これらはその性質によって2つのグループに分けることができるだろう。「彼女がどんな格好をしてるか」「苦しんでない」「感覚が戻ってきてる」の3つは観客が舞台上に見ることのない出来事であり、「想像してよ」という言葉の示す通り、観客は自らの脳内で「口」の言葉が指示する内容を想像することになる。ところが残りの6つについては、「口」が「想像してよ」と要求する「言葉が聞える」「彼女が何を言ってるかわからない」などの内容は観客が舞台上に見聞きする内容と一致してしまっている。つまり「口」の言葉によって観客が自らの頭の中に思い浮かべる内容と観客が舞台上に見ている(あるいは聴いている)状況とが一致してしまっているのである。そして舞台上にない光景に対する「想像してみて」という呼びかけのうち2回は9回の呼びかけの最初の2回なのである。観客が「口」の語りを聴くうちに徐々にその内容を把握していくことを合わせて考えるならば、観客の頭が頭の中に思い浮かべる内容と舞台上の光景とは徐々に一致の度合いを高めていくということができるだろう。
このような事態は「想像してよ」という命令の部分に限定されるものではない。「口」の語りは時系列の乱れた断片的なものであるが、同時にそこには同一の、あるいは似たようなエピソードや単語の繰り返しも含まれている。観客は語りの繰り返しの中で、徐々に単語やエピソードを確認し、あるいはそれらの関連を見出し「口」の語りの全体像を把握していくことになる。つまり、「口」の語りを聴く観客は常に、それまでに聴いた内容と今まさに「口」が語りつつある内容を比較検討しながら「口」の発する言葉を理解しようとすることになるのである。もちろんこのようなプロセスは、たとえば日常的な会話においても無意識のうちに実行されているものではある。直前に聞いた単語と今まさに発話されている単語との比較がなされ、その関連が理解されなければ語られる一連の言葉を意味のあるまとまりとして理解することはできない。だが、日常会話においては意味が了解されることによってこのプロセスが終了するのに対し、『わたしじゃない』においては意味の確定が不可能であるがゆえに、このプロセスが終わることはない。観客はそれまでの「口」の語りのうち聴き取れた部分を反芻しながら「口」の語りに耳を傾け、結果として、繰り返される「口」の語りの中に自らが思い浮かべている言葉と同じ言葉を発見することになるのである。ここにもまた、観客の頭の中に浮かぶものと舞台上に知覚するものとの一致がある。
このように観客が頭の中に思い浮かべるものと観客が舞台上に知覚するものとの一致は何を意味するのだろうか。アンリ・ベルクソンは記憶と現在の知覚の関連について次のように述べている。
外的知覚が、その大まかな輪郭線を素描する諸運動をわれわれの側に引き起こすとすれば、われわれの記憶は、受け取られた知覚に類似し、われわれの運動によってすでにその素描が描かれたところの古いイマージュをこの知覚へ差し向ける。(34)
現在の知覚においては程度の差こそあれ常に過去の類似の知覚に対する参照が行なわれている。「われわれの記憶は、現在の知覚そのもののイマージュか、または何らかの同種のイマージュ想起を現在の知覚に送り返すことで、この知覚を二重化する」(35)ことで現在の知覚を補足するのである。このとき重要なのは、
知覚された対象そのものも含めたすべての要素は電気回路においてのように、お互い緊張状態に保たれ、したがって、対象から出発したいかなる震動も、精神の深みへと至る途中で停止することはできない。対象から出発した震動はつねに対象そのものへと戻らねばならないのだ(36)
とベルクソンが述べるように、過去の知覚への参照が現在において知覚する対象に送り返されてはじめてこの回路は完結するという点である。私たちがはじめて見る物体をたとえば「それが椅子である」として知覚するのは、過去にあった無数の「椅子」の知覚への参照がなされ、それが現在の知覚へと送り返しているからなのだ。このことを踏まえて『わたしじゃない』を見る観客の知覚のあり方を考えたとき、そこではこの「回路」の不全とでも言うべき事態が起きていると言うことができる。
「口」の語りの全てを正確に理解することのできない観客は「口」の語りをどのように知覚していくのか。上演開始直後、観客はただひたすらに「口」の言葉に耳を傾け、それを理解しようとするしかない。だが「口」の語りを聞き続けるうちに、次第にすでに聞いた言葉(=「過去の知覚」)への参照が可能となってくるため、観客は支離滅裂な「口」の語りをそれまでに聞いた言葉との関連の中で解釈しようとしていく。ところがこの試みは失敗することになる。「口」の発話の猛烈な速さは、観客が参照した過去の知覚を現在の知覚へと送り返すことそれによる意味の再認を不可能にしてしまうからだ。観客がその意味を理解するのを待たずに「口」の語りは進んでいく。「口」の発話は観客の思考=過去の知覚への参照よりも速いのである。過去の知覚への参照がなされるときにはすでに送り返されるべき対象としてあるはずの現在の知覚は移り変わってしまっている。観客は発せられた言葉あるいはその意味を確定することができないままで、「こうであったかもしれない」という可能性を抱えたままで「口」の語りを聴き続けるしかない。
過去の知覚を現在の知覚へと送り返すことを不可能にしているのは「口」の発話の速度だけではない。繰り返す「口」の語りがその中に孕む差異もまた、観客による「口」の語りの再認を妨げる。たとえば「口」の語りに登場するflickeringという言葉に注目してみよう。観客が「口」の言葉の中にすでにflickeringという単語を認識していた場合、再び「口」がflickeringという言葉を発したならば、観客はそこから「口」の語りの意味を解釈しようとするだろう。ところが、1回目にはthe beamとともに使われていたflickeringは2回目ではthe words, the brainとともに使われており、3回目ではthe brainと使われている。flickeringに限らず、『わたしじゃない』においてはさまざまな単語が異なる文脈の中で繰り返し使われているのである。(37)現在の知覚との類似によって参照された過去の知覚は、差異を持った新たな現在の知覚として再び観客へと送り返されることになる。観客が最初に聞いたflickeringを前後の単語とともに把握していたならば、現在の知覚が呼び起こす過去の知覚への参照はむしろ、最終的に送り返されることで現在の知覚を補強するものとしてでなく、過去の知覚の方をこそ揺るがすものとして機能しているとさえ言えるだろう。
このように、差異と反復を孕んだ「口」の語りは、「口」の語りに対する観客の解釈を可能性の一つに保留し続ける。イーラムは「口についての唯一存在する説明は観客の想像力の中で推測によって創り出されるものである」と述べているが、その意味では、観客の想像力の中で創り出される「口」の説明(あるいは「彼女」の物語)もまた明確な像をむすぶものではなく、あくまで可能性の一つでしかない不安定なものなのである。「口」の語りの全てを把握できていないという観客の認識もまた、この可能性を決定的なものとすることを妨げる。
さて、では『わたしじゃない』におけるこのような事態は単に観客の知覚の不完全さを表わすものでしかないのだろうか。ベルクソンは知覚と想起の関係について「実際には、想起の染み込んでいない知覚というものは存在しない。われわれの諸感官の直接的な諸与件に、われわれは自らの過去の経験の数え切れないほどの細部を混ぜ合わせている」と述べている。現在の知覚においては常に過去の想起が行なわれているというのがここで言われていることだが、『わたしじゃない』の観客に引き起こされるのはこの逆の事態であると言うことはできないだろうか。つまり、『わたしじゃない』の観客において、現在の知覚こそが過去の想起とほとんど区別できないものになっているのではないか。
現在の知覚において記憶は「受け取られた知覚に類似し、われわれの運動によってすでにその素描が描かれたところの古いイマージュをこの知覚へ差し向け」、「思い出されたイマージュが、知覚されたイマージュの細部のすべてを補うことができなければ、呼びかけは記憶のより深く、より遠い領域へと発せられ」るとベルクソンは言う。(38)現在の知覚が契機となって過去の類似した知覚を呼び起こし、それが現在の知覚を補強するというのだが、「口」の語りを聴き続ける観客においてこのプロセスはいつしか逆転していく。つまり、「口」の語りを解釈しようとする観客の思考=それまでの「口」の語りの想起こそが契機となり、現在の知覚の中に類似の知覚を見出してしまうのである。
もちろん、通常ならばこのような逆転は起こり得ない。過去の記憶というのは想起されるまでは意識されずに潜在しているものであり、知覚される現在とは明確に区別されるものだからである。ところが、『わたしじゃない』においては現在の知覚の対象である「口」の語りもまた、観客にとっては全てを把握することができないものである。現在における「口」の語りもまた過去の記憶と同じようにそれと認識されるまでは潜在的なものであり続けることを強いられるのだ。「口」の語りの特殊性が過去の想起によって現在の知覚が見出されるという逆転を引き起こす。
さて、このような知覚におけるプロセスの逆転はそれ自体観客にどのように受容されるのだろうか。「口」の語りを解釈しようとする観客は自身が頭の中に思い浮かべる内容を「口」の語りの中に見出すことになる。本来的にはそれは「口」が語ったことの再認にすぎないわけだが、観客はそれが再認であること自体を確信することができない。すでに述べたように「口」の語りに対する観客の知覚においては過去の想起からの現在の知覚へのフィードバックは失敗し、再び過去の想起を促すからである。現在の知覚と過去の想起は互いに参照しあい、終わりなき解釈の運動を駆動させる。「口」の語りを聴き続けた観客はその最終段階において、過去の想起と現在の知覚、つまりは自らの思考と「口」の語りとの区別がほとんどつかない状態に置かれることになるのである。そこに至って「口」はあたかも観客の脳内の言葉を発しているかのようにさえふるまうだろう。(39)観客はもはや舞台上の「口」と自らとの間に安全な距離を保ち続けることはできず、「口」の語りとそれを解釈しようとする観客の思考との境界は極めて曖昧なものとなってしまう。
おわりに
本稿では『わたしじゃない』のテクストに書き込まれた「観客」の姿と上演に仕組まれた複数の入れ子構造を参照することで、『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客の知覚がどのように変容していくのかを考察してきた。ノウルソンが『わたしじゃない』の「状況は明らかにフィクショナルな語りであり、初めのうち観客からはいくらか遠いところに置かれている。だがそれは徐々に自身が体験している現実、それと関連するものとしての様相を呈していくのである。」と述べているように、「口」の語りはまずは観客とは無関係なものとして提示される。(40)ところが、「口」の語りを聞く観客は徐々にその中に自らとの類似点を発見していくことになるのである。語られる「彼女」と観客自身の類似は「彼女」の体験を観客自身のものとして体験させるという効果を持つものであった。
だが、自身の置かれる状況が「彼女」の状況と類似していることを認識する観客にとって、自らが体験させられている状況はあくまで「彼女」が体験している状況の再現に過ぎない。自らの体験している状況を「彼女」の体験として受容するという観客のその姿勢こそが、「わたしじゃない」と一人称を拒絶し続ける「口」の姿と重なるとしても、観客の体験と語られる「彼女」の体験との間には相変わらず距離が保たれているのであった。
ところが「口」の語りを聴き続けるうちに観客と「彼女」あるいは「口」との距離は消失していく。決定的な解釈を回避し続けるかのような「口」の語りが、観客の思考と「口」の語りとの境界を曖昧なものとしていくのである。
「口」の語りを聴きそれを解釈しようとする観客の思考は、やがていつまでも終わらずに繰り返す「口」の語りそのものと同じように、終わらない解釈の運動の中に置かれることになる。そしてこのような観客の姿こそ、戯曲に書き込まれた「観客」の姿でもあった。「声」を止めようと、あるいはその語る内容をどうにか理解しようとしていた「脳」がいつしか「声」と同じように止めることのできない存在へと変容していってしまったように、「口」の語りを聴き続ける観客の思考もまた「口」の語りと近い存在へと変容していってしまうのであった。その意味で、『わたしじゃない』のテクストにはあらかじめ観客の反応そのものが書き込まれているのだということができるだろう。
ベケットは『わたしじゃない』について「わたしは理解されることにはあまり興味はありません。この作品が観客の知性にではなく、神経に働きかければいいと思っています」という言葉を残している。(41)この作品はまさにその全体像の把握が不可能であるという性質がゆえに観客に働きかけ、やがては観客を舞台上の「口」との不可分な関係の中に呑み込んでいってしまうのであった。
注
1 Richard A. Cave New British Drama in Performance on the London Stage: 1970-1985. Gerrards Cross: Smyth, 1987. p.112.
2 Keir Elam. ‘Not I: Beckett’s Mouth and the Ars(e) Rhetorica’. in Enoch Brater, ed. Beckett at 80 / Beckett in Context. NY: Oxford UP, 1986. p.131.
3 James Knowlson. Frescoes of the Skull: the Later Prose and Drama of Samuel Beckett. London: Calder, 1979. p.205
4 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』高橋康也訳(『ベケット戯曲全集3』 、白水社、1986、150)。本稿における日本語訳は高橋訳を基本としつつ、Samuel Beckett. Not I in Krapp’s Last Tape and Other Shorter Plays. London: Faber and Faber Ltd, 2009.を原本とし、筆者が適宜改訳した。
5 前掲書、150頁。
6 前掲書、142頁。
7前掲書、145頁。
8 前掲書、141頁。
9 前掲書、145頁。
10前掲書、145頁。
11前掲書、150頁。
12前掲書、152頁。
13前掲書、136頁。
14前掲書、136-137頁。
15 生物学や心理学の用語で自己の一部を切り離すこと。
16 Enoch Brater. Beyond Minimalism: Beckett’s Late Style in the Theater. NY: Oxford UP, 1987. p.23
17 『わたしじゃない』、135頁。
18 前掲書、135頁。
19 前掲書、136頁。
20 前掲書、142頁。
21 前掲書、142頁。
22 前掲書、147頁。
23 前掲書、138頁。
24 原文ではstillという言葉が頻繁に使われており、この単語は「じっと/静かに/まだ」と複数の意味に解釈可能である。また、戯曲冒頭のト書きでは「聴き手」はdead stillであるとされている。Not I. p.85
25 『わたしじゃない』、150頁。
26 前掲書、135頁。
27 前掲書、136-137頁。
28 前掲書、141-142頁。
29 Hersh Zeifman. ‘Being and Non-being: Samuel Beckett’s Not I’. in Frederick J. Marker, & Christopher Innes, eds. Modernism in European Drama: Ibsen, Strindberg, Pirandello, Beckett: Essays from Modern Drama. Tronto: Univ. of Tronto Pr., 1998. p.238
30 Elam. p.140.
31 Not I. p.85, p.88, p.91, p.92.
32 Cave. pp.115-116.
33 『わたしじゃない』、142頁。
34 アンリ・ベルクソン『物質と記憶』合田正人・松本力訳(ちくま学芸文庫、2007年、135頁)
35 前掲書、135頁。
36 前掲書、139頁。
37 すでに指摘したように複数の意味を持つstillという単語もまた異なる文脈の中で繰り返し登場する語のひとつである。
38 前掲書、135頁。
39「口」は自らの語りの内容を修正する「声なき声」との対話においても観客の脳内の声を読み取っているかのようにふるまっているということができるだろう。「やっと六十になったとき……え?……七十?」(『わたしじゃない』、136頁)という形で、訂正は観客には聴こえない声によってなされるが、それでいて訂正の内容は前後の言葉から観客には十分に推測可能である。その意味で、訂正の声は観客の脳内にしか存在しないということもできるからである。
40 Knowlson. p.211
41 qtd. in Brater. p.23
*本稿は『表象・メディア研究』第4号(2014)に掲載された拙論を転載したものですが、校正などが反映されていない可能性があります。
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